神泉教治世記―九州統一と四国制覇の道―

西野園綾音

プロローグ~湯布院温泉にて~

 温泉とは、なぜかこうも心と体の芯から温め、深い安心をもたらしてくれるのだろう。

 道祐どうゆう和巳かずみは別府温泉の方が好いと言う(尤も、道祐は指宿いぶすきもまた一番の温泉だと言っていたが…)。けれど私は、静かでゆったりとできるこの湯布院の方が好きだ(けいちゃんにはまた「若いのに年寄りくさい」と言われてしまうだろうけど…)。

 多分、私の故郷・馬路の風景と重ね合わせてしまうからだろう。

 湯に混じる湯の花をゆっくりともてあそびながら、慧ちゃんに頼んで照明を落としてもらった月明かりだけのこの露天で、反射した私の顔――いや、正確には額の真ん中にある湯紋ゆもん(和巳が「蒸霞じょうか」と呼んでくれた、湯気にかすむような模様)を眺め、これまでのことを思い出していた。  


 出逢った時は、小学校の先生をしていた和巳。明礬みょうばんで優しく私と温泉の神秘性について話し合ったことはいまだに思い浮かぶ。その時、既に子ども達に温泉の素晴らしさと神秘を広めていたのは驚きだった。

 その優しさに驚いた私が、別の意味で驚かされたのは、鹿児島の地域性なのか、荒々しさの中に精神性の強さをしっかりと持っている道祐であった。気を抜くと、いつも薩摩弁の荒々しい叱責が飛んできたのは良い思い出だ(ただ、泉武道せんぶどうの稽古はかなり辛かったのは、私だけの秘密にしておこう)。

 和巳と道祐は、母と父のような存在だ。幼い頃から両親のいなかった私は、何度二人に救われたことか。

 そして、妹のようでもあり親友のようでもある慧ちゃん。彼女のことは本当に尊敬している。私よりもずっと聡明で、中学生の時から温泉を科学的に研究していたというから驚きだ。長湯ながゆで話し込んだあの日、二人で顔を赤らめて逆上せてしまったのは、今となっては良い思い出だ。そこからずっと一緒に住み、この日を迎えられたことが、とても嬉しい。

 そして、四人で鉄輪かんなわの湯煙の中、固く神泉教を結ぶ誓いを交わしたあの瞬間は、今でも鮮明に蘇る。

 四人で活動をしている時は楽しかったが、いつも楽しいことばかりではなかった。私たちの教えを新興宗教だと決めつけられ、怒鳴られたこともあった。遠い東京で新興宗教のテロがあったせいもあって、仕方のないことだったかもしれない。けれど、こちらの話を全く聞かずに攻撃されたのは悲しかった。

 尤も、その時は道祐が薩摩弁の迫力ある怒声をあげて守ってくれたのが嬉しかったし、慧ちゃんも自分の知識と理路整然とした語りで相手を納得させてくれたのは頼もしかった。最後に、和巳が私の心に寄り添って慰めてくれた時、つい彼女に抱き付いて泣いてしまったものだ。

 だけど唯一、皆で喧嘩したのは「何を重視するか」ということだった。道祐は修行を重視し、慧ちゃんは記録を重視、和巳は教育を重視すると言い、それぞれが譲らず激しく口論したのは記憶に新しい。結局、私が主張した「全てを等しく重視する」という案で落ち着いたが、この話になると今でも険悪な空気になる。きっと、皆それぞれ思うところがあるのだろう。

 それでも、私が言った「湯を通じて人と人が結びつく」という理念で進んでいるからこそ、強い絆で結ばれ続けていると感じる。

 …そう。

 そして現実ではもう会えないけれど、いつも心の中で私と結びついているおばあちゃん。幼い頃から温泉の神様を教えてくれて、亡くなるまで馬路温泉で一緒に祈ったことを思い浮かべる。もし生きていてくれたら、この神泉教の四人の中にいて、一緒に活動できていたのではないか。そう思うと、少し寂しくなって――ほんの少しだけ、目尻に涙が浮かぶ。


 ガラガラと、脱衣所の扉が開く音がして、

白泉はくせん、もう寝ちょかんと明日、起きられんよ。明日はあんたが主役やけん、しっかりせんと」

と慧ちゃんのハスキーでボーイッシュな声がする。

「うん、わかっちゅうきね」

と返事をして、目尻の涙をそっと拭う。

 そして湯にもう一度肩まで浸かり、目を閉じて――

「湯の神様、私と湯で結びつくすべての人に幸せを与えとうせ」

そして言葉にせず、心の中だけで、

「おばあちゃん、いつかきっと…いつかきっと馬路に湯の神様を連れて行くき、見守っちょって」

と唱える。

 私は目を開け、ゆっくりと立ち上がり、脱衣所の扉の前で一礼をする。

 明日からの大事業への決意を胸に抱きながら脱衣所に入り、扉を閉めようとした時、ふと、ポチャンと一滴の滴が湯に落ちる音が耳に届いたような気がした。

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