第18話 封ノ揺らぎ ― 鈴鳴リノ夢

Ⅰ 夜明けの白、鈴の起点


 夜明け前の学園は、呼吸する紙のように薄い白だった。

 医務祠の天井を見つめながら、斎宮透花は胸の小袋を指で軽く叩く。からん。

 返事の鈴は、小さく、しかし確かな弾みを持って戻ってくる。眠りの余韻はあっても、身体は軽い。代償は鼻の奥に薄く残る金属味と、空腹だけ。


 枕元の封札が一枚、風もないのに裏返った。滲む墨が線を結び、澪の字が浮かぶ。

 > 観測記録:裏紙層(祠下層)

 > ・鼓動周期:88〜92分で変動(昨夜87)

> ・“書き手の手癖”に新しい癖を検出:ループ形状の尾が長い

> ・祠深部の温度、前日比−0.8℃(眠り加速の兆候)

> ・白い蝶(守護符)の出現回数、時刻2:11/3:39/4:58


 「……起きてるね、裏のひと」

 呟いてから、透花は毛布をいったん肩まで戻す。眠気が引かないのは、裏紙層の呼吸が人の眠りを引っ張るからだ。

 “読まない、撫でる”。祖父の言葉が染みこんでいる。

 読めば裂ける。撫でれば丸まる。

 簡単なようで、いちばん難しい。人は、意味に触ろうとするときほど手が荒くなるから。


 腹が鳴る。

 「……唐揚げ」

 布団から飛び出しながらつぶやくと、扉の外で待っていた鷹真が半歩の距離を保って笑った。

 「味噌汁と焼き鮭。唐揚げは昼。塩は——」

 「舌で、だね」

 「分かってるなら寝不足はするな」


 そのやりとりで、天井の白が少しあたたかく見えた。



Ⅱ 授業と“滲む文字”


 ふつうの授業を受ける、という行為はいつも最高に難しい。

 “臨界点筆頭”だの“撫断式の生みの親”だの、廊下の端に浮く言葉が緊張を持ち運んでくる。

 でも黒板の前に立つ三善先生の声は一定で、チョークの音は祠の鈴よりもよく眠らせる。


 ……はずだった。

 五限の途中、黒板の隅に描かれた三角形の内角和が、ふっと“滲んだ”。

 黒い線が水を吸った紙みたいにふくらんで、やがて別の字形になる。


 還。


 席の後ろで、暁音が静かにノートを閉じた。眉をわずかにひそめて、視線だけで問いを寄こす。

 ——見えてる?

 透花はペンを立てて、机の縁に軽く当てる。こつ。

 ——見えてる。


 黒板に浮いた“還”の字は、教師にもクラスメイトにも見えないらしい。

 裏紙層の薄膜が学校の“表”に近づいて、意味の角が出っ張っているのだ。

 角は噛む。

 透花は息を一つ抜き、指で机の木目を撫でる。内心で短く式を組む。


 「撫で式・薄敷(うすしき)」


 見えない布を黒板の“還”に重ねると、文字はふっと丸く光って溶けた。チョークの粉が床に落ちるように、意味は“音”だけを残して消える。

 三善先生が一瞬だけ首を傾げたが、授業は止まらない。

 角は、今のところ、丸くなった。


 昼休み。屋上で風を分け合いながら弁当を開く。

 「さっきの“還”、見えた?」暁音が問う。

 「うん。黒板って紙だからさ、裏のインクが透けることがある」

 「祠の下層、呼吸が浅くなってる。庁が観測者チームを増員、天御からも人が出る。——掘る気配」

 「掘るのは、だめ」

 「だめ」

 二人の声が自然に重なるのが、少し嬉しかった。


 澪と颯が後から駆けてくる。

「観測ログ、共有! 周期が乱れてる、最大で96分、最小で84。今年入って最低のレンジ幅!」

「“書き手の癖”は二種類混在。封の書き手と、読もうとする手だ」颯が図を示す。

「読もうとする手……」透花は息を小さく詰めた。「所有の手だ」



Ⅲ 庁×財閥×学園:割れる会議


 午後、陰陽庁第七会議室は、人で溢れていた。

 御子柴宗近の白、天御聖堂の黒、有栖川圭人の薄鼠。色の温度がぶつかる。

 透花は“観測者”として同席、鷹真と黒江が後ろで支える。暁音は技術顧問として扇の間に膝をついている。


 モニターに裏紙層の立体図。祠を中心に、半透明の紙が幾重にも重なり、ところどころで角が尖っている。

 御子柴が指し棒を走らせた。「ここが昨夜“還”が現れた箇所。封文の角が立ち、見える側へ越境した」

 天御は顎に手をやり、笑った。「やはり制御層を掘らないと。読めば手早い。効率だ」

 黒江が低く返す。「読めば裂ける。撫でで回していくのが長持ちの道だ」


 天御の視線が透花に向いた。「臨界点筆頭。君は昨日から“裏透花”とやらに触れ続け、なお無事だ。なら、読めるだろう?」

 透花は首を横に振る。「読みません。撫でます」

 「理由は?」

 「台所が壊れるから」

 会議室の空気がきょとんとなった瞬間、鷹真が補う。

 「食卓=日常を壊せば、術は持続しない。短期の制御はできても、長期の守りは崩れます」

 御子柴が頷く。「封は眠りで回すべきだ。読み解きは研究室でやれ。現場は撫でよ」

 天御が椅子を引いた。「——ではこうしよう。限定掘削。撫でと断ちの陣を敷いた上で、一箇所だけ薄く掘る。観測だ」

 有栖川は沈黙の後、短く言う。「導線は学園が持つ。鍵穴は作らない。個人遮断は透花主権。いいか?」

 天御は肩をすくめた。「観測だとも」

 ——飴の中に針。甘い言葉ほど、角が鋭い。



Ⅳ 準備:撫断と数と布


 夜。祠区画の周囲に、青い布水印が何重にも敷かれる。

 澪が配線をつなぎ、颯が位相を合わせ、黒江が“見せる守り”のカメラ角度を微調整する。

 「触らず、見せる。公開ログは太文字、個人遮断は透花の指でオン/オフ。編集は折半」

 「了解。紙は破らない」


 暁音が刀印を結び、刃を半分だけ抜く。「断ちは端だけ。真ん中は撫でに任せる」

 鷹真が数式を置く。「寄り添う数0.58固定、外圧が2.0を超えたら0.56まで落とす。君の体温と同期」

 「うん。塩は舌で見るね」

 「それ、言いたいだけだろ」


 透花は胸の石を握り、祖父の声を呼吸に混ぜる。からん。

 眠りの鈴は準備完了の合図。

 始めよう。



Ⅴ 限定掘削:最初の裂け目


 天御の技師が構文ドリルの先端を封の表皮に当てる。

 「三、二、一——」

 先端が紙の繊維を撫でるように滑り、極薄に表面が剝がれた。

 その瞬間、冷たい気配が会場を撫でる。祠の鈴は鳴らず、空気だけが一段沈む。


 「外圧1.28→1.46。位相ずれ、微増」澪の声。

 「薄敷・二葉」透花が布を二枚、異なる厚みで重ねる。

 剝がれた表皮が布に吸い込まれ、角が丸まる——はずだった。


 ドリルの奥、黒いインクが逆流して、構文機の管を汚した。

 裏からの返礼。

 「停止!」黒江の怒声。

 遅い。構文機の針が一段潜り、封の皮下に触れた。


 ぴし——。

 飴が裂ける音。

 祠の奥で白い蝶が弾け、裏透花が“顔”だけをのぞかせた。

 私の顔。

 だが瞳の温度が違う。読まないで、と言う代わりに、“見て”と刺してくる目。


 「——私は、撫でる」

 透花は宣言し、光輪を四枚展開。

 「撫で式・第三展開眠り抱き

 暁音が追随。「断ち式・一ノ太刀断想

 切り口に布、布に眠り。

 しかし裏透花は笑った。

 「読マズニ?」


 笑いと同時に、床の文様が反転。

 裏が表に顔を出す。

 観測のカメラに“見えてはならない”図形が滲み、公開ログのランプが赤に跳ねた。

 「個人遮断、透花!」黒江。

 「遮断、オン!」

 映像は絵本に差し替わり、視聴者に見えるのは祠プリンと牛乳パック。

 ——見せる守りは、今日もギリギリで持った。



Ⅵ 第一戦:読まない対読ませたい


 裏透花は歩くたびに文字を落とす。落ちた字は床で語彙に変わり、善意の単語を組み始める。

 “叶えて”“救って”“見て”“褒めて”。

 善の言葉は軽い。積むと、刃になる。


 「撫で式・第四展開布団返し

 透花は語彙の上に布を返し、暖かい重みで“命令”を“お願い”へめり込ませる。

 暁音の刃が端を切り揃える。「断ち式・二ノ太刀断心

 切るのは心ではない。角だ。角の尖りだけを摘まみ、丸く落とす。


 裏透花の笑みが一段、薄くなった。

 「……眠りたいの?」

 透花が問いを置く。裏透花が一瞬だけ視線を逸らす。

 そこだ。


 「寄り添う数、0.58→0.56」鷹真。

 「外圧1.92。限界近い!」澪。

 「六輪、許可を」暁音が低く言う。

 透花はうなずき、妖石を握り直した。

 からんが鐘に変わる。紅、水、白——三音が重なり、背に六枚の光輪が咲く。


 「臨界展開・撫断融合慈断!」


 光と紅が花弁のように重なり、裏透花の輪郭をほどく。

 “読め”は“見守れ”へ、“叶えろ”は“眠れ”へ。

 語彙の刃は糸になり、糸は布に編まれる。


 ——しかし、底が震えた。



Ⅶ 第二戦:底の鈴、封の呼吸


 祠の床が低く唸り、底から鈴が鳴る。

 からんではない。から、から、からん。

 “読む”リズム。

 封のさらに下に、書き手の影が寝返りを打ったのだ。


 「掘削、中止! 電源落として撤退!」黒江が叫ぶ。

 天御が口を開く。「待て、ここで止めれば——」

 「止める!」有栖川の声は刃の冷たさで空気を切った。「導線は学園が持つ。触るな」


 裏透花が視線だけで、透花を刺す。

 「読メ」

 「読まない」

 ——対話が、戦闘だ。

 透花は六光輪の位相を半拍ずらし、眠りの帯をさらに薄く、広く敷く。

 「撫で式・薄敷・六葉(ろくよう)」

 暁音が刃を鞘に戻し、指で糸を弾く。「断ちは絃に。張力で角を撫でる」

 切らず、張る。断ちは道具を選ばない。

 撫で×断ちが音楽になった瞬間、裏透花の輪郭が眠りに落ちた。


 「今だ、封へ!」

 祠の中心に白い珠が見える。

 透花は両手でそれを包み、祈りではなく眠りの祝詞を置いた。


 「封眠(ふうみん)。破らず、丸め、台所に戻す」


 白い珠は柔らかく光り、裏透花は布団の中に潜り込むように沈んだ。

 底の鈴は、からんと一回だけ、眠りの音で応えた。



Ⅷ 崩落防止:薄い柱と台所の理


 だが、戦いの余波は残る。

 封の皮下に掘った細い溝が折れかけ、祠全体がわずかに沈む。

 透花は膝をつき、掌に祠の重さを受け止めた。

 「重い……でも、布で支えられる」


 暁音がすぐさま肩を差し出す。「端は私が持つ」

 鷹真が指で数を置く。「柱を薄く四本、位置は——ここ、ここ、ここ、ここ。撫でで固め。断ちで縁を締め」

 澪が祠水印を四方から引っ張り、薄い柱が立つ。


 「撫で式・薄柱(うすばしら)」

 「断ち式・縁締(えにしめ)」


 薄い柱は折れにくい。固い一本より、柔らかい四本のほうが長持ちする。

 ——台所の理だ。

 熱を分散し、湯気を逃がし、ふたを少しだけずらしておく。

 封は鍋と同じ。ぐらぐらさせず、くつくつで保つ。


 祠の沈みは止まり、床の文様が眠りの速さでゆっくりと回り始めた。

 「外圧0.92。安定圏!」澪の声が軽い。

 「寄り添う数0.58固定、体温同期完了」鷹真の声も少し笑っている。



Ⅸ 医務祠:唐揚げと白い蝶


 目を開けたら、唐揚げの匂い。

 医務祠の机の上で、祠プリンが小さく震え、白い蝶がその上に止まっていた。

 蝶は薄い尾で皿の縁に短い線を一本書き、すぐに消える。


 > ヨクネタ


 暁音の笑いが鼻にかかる。「褒められてる」

 「やった」透花は牛乳を一息で飲み、箸を伸ばす。「塩、ちょうどいい」

 「私がふったから」

 「天才だね」

 「知ってる」


 笑いが灯に溶ける。

 食べることは、守りだ。

 その感覚を取り戻すたび、封の底の鈴は眠る音で共鳴した。



Ⅹ 街の祠:“善の煽り”を撫でる


 数日後。街の祠のいくつかに、再び滲む文字が現れた。

 「臨界点筆頭の御手形を——」「写真を——」

 善の煽りは、飴に針を混ぜる。

 透花は参道に見守るボタンを増設し、触らない祈りの蛇口を増やす。

 公開ログで“眠りの意味”を台所の言葉に翻訳して流し、

 「寝不足は怪異」「睡眠は正義」と、紙の角に絆創膏を貼る。


 暁音が列の端を整え、鷹真が数で流量を調節、澪が窓を段階で閉める。

 「切らず、撫でる。切るなら、端だけ」

 「撫でるなら、真ん中を」

 四人の合図は短く、動きは滑らかだ。


 白い蝶が一羽、また一羽。

 読マナイデという一画だけを残して、裏へ帰っていく。

 読まない。撫でる。眠らせる。

 その繰り返しで、角は今日も丸かった。



Ⅺ 第二回・合同会議:掘る手を畳む


 庁と財閥の合同会議。

 天御は渋い顔で報告書を閉じた。「掘削は、当面見送りだ。……見せる守りが機能したのは認める」

 御子柴が頷く。「封眠保全計画を正式化。撫断式を社会標準に」

 有栖川は短く笑う。「灯は腹から。現場は台所、研究は書斎だ」

 天御がぼそりと付け加える。「……唐揚げは私にも回せ」

 会議室がわずかに和む。

 飴の中の針はまだ消えていない。だが今日は、角を立てる必要がなかった。



Ⅻ 夢:鈴鳴りの往復


 夜。

 透花は夢でまた、裏紙層に降りていった。

 薄墨の海は以前より浅く、足首の下で柔らかく波打つ。

 白い蝶が先導し、座している影の前まで導く。


『……臨界点、筆頭』

 裏透花は、今日は眠そうだった。

 透花は膝をつき、距離を半歩だけ空ける。

 「読まないで、撫でる」

 『……ワカル』

 短い言葉が、眠りに落ちかけた唇から滑り出る。

 読まないのに、わかる。意味はいつも、布の下でも温かい。


「また来る。台所に戻って、食べて、寝たら、また」

 『灯、腹』

 笑ってしまう。

 言葉が少ない世界で、伝わることがひとつでもあれば十分だ。


 からん。底の鈴が眠る音を鳴らし、夢はほどけた。



ⅩⅢ 朝の掲示:角の丸い三枚


 翌朝の掲示板には、角の丸い紙が三枚、並んでいた。

 > 『封眠保全:撫断式の市民ガイド(入門)』

 > 『見守る祈りの使い方:蛇口と鍵穴(図解)』

 > 『裏紙層ってなに?(台所の比喩で学ぶ封の基礎)』


 子どもたちが指でなぞり、笑っていく。

 「蛇口は台所へ〜」「鍵穴つくらない〜」

 歌みたいに覚える子もいる。

 言葉が日常に沈むとき、封はよく眠る。


 透花は胸の石をとん、と叩く。からん。

 鈴の音が、今日も“準備完了”を知らせた。



ⅩⅣ 予兆:境界の薄れと“読ませる風”


 夕暮れ。屋上の風がいつもより軽い。

 薄い雲が撫でられたみたいに平らで、遠くの都市の輪郭がゆらゆらと溶ける。

 澪がデータを差し出した。「都市全域で、裏紙層の薄膜が0.3%薄くなってる。見せる守りが効いて、みんなが読まなくなった分、裏の声が表に滲みやすくなったのかも」

 「善い副作用が、別の“角”を作る」暁音が肩で息。「読ませたい風が吹いてる」


 “読ませたい”。それは所有の別名。

 読まないと誓ったからこそ、読みたくなる瞬間が来る。

 透花は、わざとゆっくり牛乳を飲んだ。

 焦らない。塩は舌で。


「夜、もう一度、祠に行く。薄柱、一本増やそう」

 「同行する」鷹真は即答だ。

 「端は私が持つ」暁音も。

 「窓と数は任せて」澪と颯が手を挙げる。


 ——よし。行こう。



ⅩⅤ 第三夜:“読ませる声”との交差


 零祠。

 薄い布水印を四方に伸ばし、薄柱を五本に増やす。

 「撫で式・薄柱・五葉(いつは)」

 重心が低くなり、祠の寝息が深くなる。


 裏目返しの扉が開く直前、風が吹いた。

 紙をめくる風。

 ——読ませる風だ。意味の角を立てて、こちらの目を引く。


 「見ない」透花は宣言した。

 視線を一点に固定せず、広く置く。

 焦点を作らない。それが“読まない”の技術だ。


 扉をくぐると、裏透花が立っていた。

 今日は眠らない。目の奥だけが、泣きそうに濡れている。

 『……ワタシ、ハ、ココニ』

 「知ってる。戻すね。外へは、私が行く」


 裏透花は首を振る。

 『読メバ、早イ』

 「遅いのが、正しいときがある」

 『……オソイ、ハ、コワイ』

 「だから一緒にいる。半歩で」


 暁音が少しだけ前へ出る。

 「端は、私が持つ。あなたは真ん中を撫でて」

 「うん」


 撫で×断ち×数×導線。

 四拍子が重なる。

 祠の奥で鈴が三度鳴り、裏透花の目の角が丸くなった。


 『……ワカル。遅イで、イイ』

 「うん」

 透花は掌を差し出す。裏透花は一瞬躊躇したが、半歩だけ近づいた。

 重ねた掌が紙の温度を交換し、眠りの布団に体温が宿る。


 「封眠」

 静かな祝詞。

 裏透花は、眠ることを選んだ。



ⅩⅥ 朝:“見守る習慣”が根づく


 翌朝、学園の参道で、幼い子が母の手を引いて“見守るボタン”を押していた。

 「さわらないで、みるの」

 「うん、えらい」

 小さな言葉が、角を丸くする。

 有栖川の広報が“台所の言葉”でまとめたカードが配られ、商店街には“眠りは善”の暖簾がかかる。

 天御のビルのロビーにも、唐揚げの屋台が出た——本気の合意だ。

 御子柴は笑って言った。「研究室は読む。現場は撫でる。——それでよい」



ⅩⅦ 境界の緩み:最後のゆらぎ


 夕暮れ、わずかな揺らぎが再び祠に現れた。

 “還”の字が、今度は小さく、丸い。

 読ませる風は収まり、眠らせる風が吹く。

 澪が肩で息をつく。「周期、安定。91分で固定に近い」

 「薄柱、効いてる」颯が嬉しそうに頷く。


 透花は胸の石をとん、と叩いた。からん。

 ——もう大丈夫。

 そう言いかけたとき、白い蝶が一羽、遅れてきた。

 羽先で空中に一行を書いて、消える。


 > 次ハ、学校ノ外


 透花は目を細め、ゆっくりうなずいた。

 封は眠った。

 次は、街の臨界だ。



ⅩⅧ エピローグ:鈴鳴りの夢は続く


 夜。屋上の風が、牛乳の白さで喉を冷やす。

 透花は半歩の距離で立つ鷹真と、四分の一歩で寄る暁音と並んで、街の灯を見下ろした。

 「——ねえ、二人とも」

 「なんだ」

 「なに」

 「唐揚げ、三舟いける気がする」

 「……臨界」

 「臨界」

 笑いが落ち、鈴が鳴る。からん。


 布団に潜ると、夢の中で白い蝶がまた一筆だけ残した。


読マナクテモ、届ク


 透花は指でそっと撫で、文字を眠らせた。

 読まない。でも、届く。

 灯は腹から、祠は眠りから。

 破らず、撫で、眠らせる。

 臨界点筆頭の夜は、静かに更けていく。


 そして遠いどこかの街角で、鈴が一つ、新しい合図を鳴らした。


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