第10話 透明の檻、灯の輪

Ⅰ 開幕:透明なカメラ、祠の水印


 朝、講堂の天井に吊られた黒い目——固定カメラの赤い点が、いつもよりも控えめに光っていた。

 「公開共同研究 第一回:水脈の安全設計」の横断幕。壇上の端には小さな祠。その鈴紐は、観葉植物の緑の影に紛れて揺れない。

 水印の設定は昨夜のうちに完了した。御影先生はモニターに映る「祠紋+日時+セッションID」の透かしを確認し、黒江は配信用の端末に二重の鍵をかける。

 私は胸の小袋を撫でる。からん。石は静かだ。守りは要らない。ただ、見せ方を整える。


「よし、回して」

 黒江の短い合図で、配信用ランプが緑に変わる。

 澪は進行台本を片手に、「まず“輪と川”の復習を水路模型で可視化します」と案内する。

 颯はスクリーンに図解を映す。輪=閉じる/川=合わせる。端に小さく「撫で=極端を薄める手」。


 観覧席には生徒と教師、そして天御の視察団。今日は有栖川と西園寺、代理の法務、そして鷹真。

 カメラの後ろ、ガラス窓の向こうで、外の視聴者数カウンタが跳ねる。透明性は光だ。

 同時に、光は影を濃くする。



Ⅱ 実演:輪の渦、川の速度、そして撫で


 私は透明の筒を持ち、喉の星をひとつ、舌の裏で転がす。輪を置く。

 水は渦を作り、色砂が臍に集まり、観客の目に“閉じ込め”が映る。

 次に、輪の縁を撫でて川に変え、外の流速に合わせる。砂はほどけ、流れは落ち着く。

 拍手。

 澪がマイクで「ほどよさが命です。閉じ過ぎは圧、合わせ過ぎは希薄化」と要点を置く。

 私は胸の小袋に指を添えた。からん。セッションは穏やかに滑り出した。


 合流試験では鷹真が外側から川を敷き、私は内側を輪で支え、同時に撫でる。

 二人の動きは、昨日より半拍だけ近い。並走の距離が、透明の中で測れる。



Ⅲ 切り抜き:善の顔が選ぶ一行、鈍い棘


 セッションは一時間で前半を終え、質疑に入る。

 「臨界点の感覚はどこまで言語化されますか?」という質問に、私は「舌で分量を覚えるのと同じ。塩みたいに」と答えた。

 会場は笑い、配信のコメント欄にも「分かる」「美味しそう」の文字が流れる。


 ——その五分後、別の画面が学園の外で立ち上がっていた。

 「切り抜き」だ。

 “臨界点筆頭『塩みたい』発言。安全設計は感覚頼み?”

 “学園、危険を曖昧に表現”

 “天御は数値で守る。どちらが安心?”


 透明性は光。切り抜きは鏡の破片。

 祠水印は映像に残っている。改変すれば発報が来る。だが、要約は合法だ。

 有栖川の部下の「手順」がうまい。善の顔は、“感覚=温かい”と“不安=曖昧”の間に、わざと紙一重の隙間を残す。


 配信ブースで、黒江の端末がピピと短く鳴る。アラート。非公式切り抜きのURLが列になる。

 黒江は淡々と発信元へ「説明補足」と「出典明示」を送る。叩き潰すのではない。撫でる。

 私は壇上の端で、胸の小袋を押さえた。からん。鳴り方は浅い。来ない。今は、来ない。



Ⅳ 学内協力者:銀のペン、古い校章


 質疑の最後、後方の席から手が上がった。

 上級生。背は高く、制服は正規、胸ポケットに銀のペン。校章は古い版。

 「公開は賛成です。——“撫で”は、感覚でしか伝わらないのなら、誰が臨界点になるんですか?」


 会場の空気が少しだけ尖る。

 私は笑って答えた。「臨界点は“食べる”“寝る”“撫でる”の順番で、誰でも少しは近づく。——生きる手順」


 上級生の目に、僅かな痛みが走った。

 その痛みの形を、私は昨夜の廊下で見ている。補講の影に混ざる、事情の色。家計、病室、手遅れになる前に手に入れたい強さ。

 私の返答で救い切れない現実が、確かにそこにいる。


 からん。胸の石が、短く返事をした。今は笑え、と。

 私は笑って会釈し、質疑を締めた。紙は破れない。まだ。



Ⅴ 理事会の波:蛇口の角度、広報の温度


 同時刻、都心の塔。

 天御織江はガラス越しに配信を眺め、鳴海はライブの反応曲線を重ね、西園寺は物資の流通図に赤ペンで新しい矢印を足す。

 有栖川は切り抜きが生む「説明戦」のタイミングを送り、九条は黙って映像の水路接続部を何度も巻き戻す。


「“感覚”のワードは“温度”を生む。善のストーリーに混ぜるのがいい」

 有栖川が言う。「数値で冷やし、感覚で温める。視聴者はちょうどいい温度が好き」


「寄附は厨房中心で継続、工事は一旦据え置き」

 西園寺。「蛇口は腹へ。壁は祠の管轄に入った。強行は得策じゃない」


「補講の課題は一段細るが、裾野は保てる」

 鳴海。「小口助成は続ける。奨学生の保護を全面に」


 織江は頷く。「孤立の罠は、善で仕掛ける。——斎宮透花を取り込むのではない。斎宮透花の“日常”を蛇口にする」


 九条だけが、映像の合流点から目を離さない。刃は、今日、生まれなかった。その事実が、彼の眉をわずかに寄せた。



Ⅵ 休憩:紙コップと切り抜きの雨


 休憩に入ると、ロビーの自販機前で学生たちが紙コップのコーヒーをすすっていた。

 スマホの画面には、すでに「解説記事」「実況」「切り抜き反論」が混在している。「祠水印で改変検知してるの偉い」「言葉が優しい」「数値じゃないの怖い」。

 澪が静かに息を吐く。「善と不安、塩梅で揺らす……ほんと上手」


「塩梅は、こっちの言葉」

 私は塩の瓶を小さく振って見せる。「負けない」


 颯の端末に、一つの通知。

 蔵王からの短いメッセージ——『祠の水位、わずかに動く。セッション後、祠室へ』


 からん。胸の石が一段だけ低い音を鳴らした。

 私は牛乳を飲み、白を喉に通す。紙はまだ乾いている。濡らさない。



Ⅶ 夜——上級生の素顔、事情の輪郭


 セッション終了後、配信はアーカイブ処理に入り、祠水印が刻まれる。

 私は澪と颯、莉子と一緒に寮へ戻る途中、階段の踊り場で上級生に呼び止められた。胸ポケットの銀のペン、古い校章。


「……さっきは、すみません」

 彼は頭を下げた。直線的で、礼法はきれいだ。「挑発する意図はなかった」


「知ってる」

 私は笑う。「喉が渇いてる顔だと思った」


 彼は少しだけ眉を驚かせ、それから小さく頷いた。「妹が、入院していて。費用が……。補講は、条件が良かった。……“点”の課題は、正直いい気はしなかったけど」


 澪が目を伏せる。莉子は唇を噛む。颯は位置を斜めに取って、逃げ道を一つ残す。

 私はコンビニ袋から唐揚げを取り出し、塩を一振りして差し出した。

 彼は戸惑い、受け取り、噛み、目を閉じ、短く息を吐いた。「……旨い」


「窓口、来て」

 私は言う。

「学園助成と医療相談、祠からの支援もある。工事は止めたけど、台所と病室は止めない」


 彼は銀のペンを握りしめ、目を潤ませ、笑わずに頭を下げた。

「……ありがとう。強くなりたい。撫でを、学びたい」


「うん。食べて、寝て、撫でる。順番守れば、紙は、破れない」


 からん。胸の石が、了解の音を小さく返す。

 彼は去り、階段の影は軽くなった。内側の針は一本、丸くなった。



Ⅷ 祠室:水位の揺れ、境の縁


 夜、校舎の地下。祠室は、石の冷たさと乾いた白い匂いがする。

 蔵王は灯明を一つ灯し、私たちに小さく会釈した。

「水位が、半目盛り上がった。善と不安の出入りが、境を押す」


「公開が“灯”を増やし、切り抜きが“影”を濃くし、合成で圧がかかる……ということですか」

 颯が低く問う。


「そうだ」

 蔵王は祠の鈴を指で軽く撫でた。鳴らない。「撫でが間に合っているうちは、祟りは眠い。だが、両面から押すと、境が薄くなる」


「両面」

 澪が復唱する。「外からの“工事”、内からの“補講”。どっちも“善”の顔」


「善は、通行証だ」

 蔵王は私を見る。「斎宮、不滅核は触るな。守り手であり、同時に祟りだ。……君の撫でで、間を保て」


「撫でる」

 私は頷く。

 からん。胸の石が、燭の火に合わせるように短く鳴った。今夜は、眠らない方がいい。



Ⅸ 寄せる善:夜間支援の列、抜かれた楔


 同じ夜、学園の外。

 西園寺が手配した夜間支援の移動販売車が、校門の外に停まり、「学生支援フード」の看板を出していた。

 外だ。窓口の外。

 列は流れ、善の箱は渡り、SNSには「天御ありがとう」の文字が並ぶ。善は腹へ。

 その一方で、校舎の裏壁、先日光った目地の近くで、誰かが抜かれた楔の跡を指でなぞっていた。

 鍵屋の簡易通し印。桂木の文体に似た、似せの助詞。

 両面だ。

 ——からん。寮の窓で、胸の石が低く鳴った。来る。



Ⅹ 引き裂き(内と外):点の列と工事印、二重の裂け


 午前零時を少し回ったころ。

 寮の廊下の非常灯が、わずかに翳った。

 私は飛び起き、澪の名を呼ぶ前に、彼女の足音が上段から降りてきた。颯はもう角から現れ、莉子はスリッパの音を控えめにして走る。

 林の手前に、点が五つ。昨日までの二つ三つじゃない。列。

 同時に、外壁の目地が遠くで一筋、白く光る。工事印が裏から滲む。

 内と外。両面の裂け。


「分割」

 颯が短く指示する。「澪と莉子は点の列を押さえる。透花は外壁へ。僕は祠室へ連絡」


「了解」

 澪は札を両手に、莉子は祈りの回数を早口で数え始める。

 私は林から逆へ折れ、校舎の北側へ走る。夜の芝に露。靴底に冷たさ。

 外壁の目地は、先日の紙片と別の場所で滲んでいた。抜かれた楔の跡が、二本。

 からん。胸の石が低く鳴り、喉の星が重くなる。


 私は指を上げ、輪を作らない。

 目地に沿って、川を敷く。外の“工事印”の流れを鈍らせ、撫でで温度を落とす。

 工事印は“善”の顔で滲む。剝がさない。撫でで鈍らせる。紙を破らない。


 その時、林の方向で、空気が波の形に歪んだ。

 点の列が合流したのだ。模倣の輪が、束になった。

 澪の札が連打され、莉子の祈りが数で支える。足りない。数が足りない。


「——二重輪!」

 私は身を返し、林へ走る。

 喉の星を二つ。輪と輪。外に川。

 撫でが遅れないように、合図なしで速度を合わせる。

 点列は一つずつほどけ、砂になり、風に散る。札が焦げない程度に熱が抜けていく。


「透花!」

 澪の声。肩で息をしながら、彼女が頷く。莉子は涙目で笑い、祈りの最後の**“百三”**を言い切った。


「外壁は?」

 澪が問う。


「鈍らせた。剝がしてない。写真だけ、撮った」


「善の顔、剝がすと騒ぎになる」

 颯が戻ってくる。「祠室は安定。——水位は半目盛りのまま」


 私は胸の石に指を添えた。からん。来ない。今夜は、ここまで。



Ⅺ 明け色:孤立の罠を撫でで抜ける


 夜が薄まり、空が粉を溶かした牛乳みたいな色になったころ、裏門に小さな人影が並んだ。

 昨日の三人、そして上級生。それに混ざって、見知らぬ一年生が二人。

 窓口の机では、事務主任が湯気の立つ味噌汁を配り、簡短な書類に丸を付ける速度が上がる。


 天御の移動販売車は外にいる。列はできている。善は腹へ届く。

 学園の机にも列がある。善は内に置ける。

 孤立は、撫でで抜ける。二つの列を敵にしない。


 私は唐揚げを配る。塩は控えめ。牛乳は追加。

 上級生が列の端で、銀のペンをしまい、両手で紙コップを受け取った。

 「……ありがとう」

 彼は笑わないが、顔の硬さが取れていた。理由は消えない。消さない。守るだけだ。



Ⅻ 午后の網:広報の針、紙の湿り


 昼、有栖川の連載第一弾が公開された。

 「灯を繋ぐ教室」。見出しは柔らかく、写真は柔らかく、文は噛みやすい。

 “臨界点筆頭は天真爛漫”“学園は温かい”“わたしたちは支える”。

 蛇口の手は見えない。温度だけが残る。

 コメント欄で「共同研究に期待」の声が増え、同時に「不測を想定した備えが必要」の針が混ざる。撫ででは消えない種類の湿りだ。


 黒江は画面を閉じ、「やるべきことをやる」とだけ言った。

 颯は公開セッション2の設計を進め、「切り抜き耐性」のパートを増やす。

 澪は会場導線に祠水印のラインを追加する。踏むだけで印が写る。

 莉子は会報の「寄附工事の安全な受け方」特集を図解にして仕上げ、「窓口へ」のスタンプを三倍にした。



ⅩⅢ 夕暮れ:鷹真の誓い、半歩の距離


 夕暮れの屋上。

 天御鷹真が、いつもの二歩から、今日も半歩だけ近い距離で立つ。

 「——内外の二重、見ていた。並走は、止めない」

 彼は短く言い、続けた。「孤立させる提案は、退けた。善の顔での包囲は、手順としては正しい。だが、僕の正しさとは違う」


「塩、振りすぎない人」

 私は笑う。「ありがとう」


「君の“撫で”は、市場を変える。——九条は、それを恐れている」


「蛇口がいらなくなる?」


「いらなくはならない。増えすぎないだけだ」

 彼は言う。「安全核が当たり前になれば、“希少性”は語れない。備蓄は要る。だが、物語が変わる」


「変わるの、好き」

 私は牛乳を一口飲む。「ご飯も、物語」


「分かるようで分からない」

 鷹真は小さく笑い、それから、真顔で礼をした。「並走」

 足音は、軽くも重くもない。ちょうどいい。



ⅩⅣ 前夜:セッション2の罠、祠の鈴


 夜、公開セッション2の前日準備。

 水路模型の接続部は、新しい樹脂で学園製に交換され、水印の微細な刻印が内側に入った。鍵屋が触れれば浮き出る。

 ケーブルには封印タグ。剝がせば色が変わる。

 導線の床には祠の薄印。踏めば記録が残る。

 透明性は光。記録は影に目をつける。

 私は胸の石に指を置き、祠の鈴を軽く撫でた。——鳴らない。

 からん。胸の石だけが、小さく鳴いた。来ない。来るなら、明日だ。



ⅩⅤ 夜半:境のうねり、神域の端


 深夜二時。

 私の耳の奥で、遠くの波みたいな音がした。

 祠室からの糸電話。蔵王が短い一文を送ってくる——『境、神域寄りに膨らむ』。

 神様の方の縁。妖より深い。祟りより広い。

 私は起き上がり、澪を揺らすまえに、澪が目を開けた。知ってるという顔。

 颯は既に靴を履き、莉子はスリッパを両手で抱えて頷いた。


 外は静かだ。風は薄く、星は少ない。

 校庭の中心、見慣れた石畳の上に、薄い輪の光。祠の延長。

 触れてはいけない。不滅核に触れてはいけないのと同じ。

 撫でるだけ。紙を破らない。


「透花」

 澪が言う。「祠と牛乳、どっち先?」


「牛乳」

 私は笑って、ポケットの小パックを開け、一口だけ飲む。白は、境の前で舌を落ち着かせる。

 喉の星を小さく転がし、輪の外に川を薄く敷く。神域の呼吸に、外の呼吸を合わせる。

 撫で、撫で、撫で。

 輪は、膨らみをやめ、静に戻る。祠の鈴は、やはり鳴らない。良い兆候だ。


 からん。胸の石が、遠い返事を一度だけくれた。

 来ない。今は、来ない。明日、来る。



ⅩⅥ 朝:紙の掲示、線の上の笑顔


 朝の掲示板に、紙が一枚増えた。

 “公開共同研究 第二回:合流の乱流制御(祠水印連動・編集権折半・個人情報遮断・会場導線記録化)”。

 その下に、大きく太い字で——「個人への接触は窓口へ」。

 紙の角は丸く、繊維は強い。破れにくい。

 私は指で紙の縁を撫でる。輪と川の間の感触。大丈夫。


 食堂で唐揚げに塩をひと振り、もうひと振り。牛乳を飲み、胸の石を軽く叩く。からん。

 澪が進行台本を閉じ、颯がノートを入れ、莉子が会報の“特別号:祠水印ってなに?”を抱え、笑う。

 天御鷹真が、半歩近い距離で頷く。並走の距離。

 ——来い、ではない。行こう、だ。


 今日も、食べて、学んで、笑って、撫でる。

 透明に檻を作らせない。灯で輪を守る。

 紙は、破らない。

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