臨界点

桃神かぐら

第0話 スカウト

 幼い日の記憶がある。

 山里へと続く細い参道は、苔むした石段がところどころ欠け、雨のあとの土の匂いがまだ濡れて残っていた。杉木立のあいだを吹き抜ける風は、鈴を揺らすように葉を鳴らして、遠くで一度だけ鶯が鳴いた。


「透花、ここから先は気をつけろ」


 私の手を引く大きな掌は、節くれだってごつごつしている。祖父――斎宮 霊玄(さいぐう・れいげん)は、つねづね背筋を伸ばして歩く人だった。膝の裏に古い刀傷があるのを、私は何度も見た。痛くないの? と聞くたびに、霊玄は笑って「古い天気予報みたいなものだ。雨が近いとよく疼く」と冗談を言った。


 石段の上で、影が立ち上がった。

 最初はもやのようで、次に、濡れた紙を貼り合わせた人の形になる。顔はなかった。輪郭が「ある」と決めているだけの、人になり損ねた何か。ふつうの村人なら、膝が抜けて転げ落ちる。祟られて、家に戻る前に息が途切れる。


「おじいちゃん、あれ、なに?」


「……透花、下がれ」


 霊玄の声が低くなる。黒い影は、私の足音に呼ばれたみたいに、石段を降りてくる。

 怖い、という感覚は、なかった。むしろ胸の奥がわくわくして、頬の内側がじんじんする。私のからだのどこかが「それ」を待っていた。近づいてきて、そこにいるなら、私の手のひらに落ちてくるはずだ、という確信が、なぜか最初からあった。


 私は祖父の手をするりと抜く。霊玄が「透花!」と名を呼んだときには、もう影のまえに片手を差し出していた。

 冷たい。けれど、冷たさの正体は水でも鉄でもなくて、夜を掬ったような、においのしない温度だった。指先から肩へ、肩から胸へ、胸から喉へ――透明な線が通っていく。喉の奥に、星の欠片みたいな痛みがきらりと走って、すぐに消えた。


 ぱん、と小さな音がした。


 黒い人型の輪郭がぐしゃりと崩れ、光の粉が舞い、私の掌の真ん中に、ビー玉くらいの透明な石がころんと現れた。内側に、糸みたいな紋様がふわっと浮かんでいる。息を吸うと、石の中も一緒に呼吸して、見えない肺が膨らんだように見えた。


「おじいちゃん、きれい!」


 私は振り返って見せる。霊玄は、まぶしそうに目を細め、でも目の奥はわずかに鋭くなっていた。

 彼は私を抱き上げて、肩越しにさっきの場所を確認する。石段には、もう何もいない。風が通って、杉の葉を撫でただけ。


「……透花」


「なあに?」


「それは、お守りだ。決して手放すなよ」


「うん!」


 霊玄は笑う。私はもっと笑う。

 根元から真っ直ぐな杉の幹と、かすかな線香の匂いと、祖父の腕のたくましさ――それが私の世界の全部だった。


 それから何年かして。

 祖父は旅に出た。各地を巡って、祓いを仕事にするのだと、あっさり言った。私の髪をひとなでし、「お前は、強くなる」とだけ言って、細い木箱を私の前に置いた。夜だった。風鈴が一回だけ鳴った。


 箱の蓋を開ける。そこには、いくつもの石が並んでいた。

 どれも、人の心臓の鼓動みたいな光り方をする。青、白、赤紫、薄い金色。形はたいてい丸いけど、ひとつだけ涙の滴のかたちで、ひとつは花弁の縁のように鋸歯を持っていた。


「これは私が討った強い“核(コア)”だ。ふつうは、使えば砕ける。だが、お前が持てば、砕けないだろう」


「どうして?」


「お前のからだが“臨界点”だからだ」


 その言葉の意味は分からなかった。

 けれど、霊玄は続けた。「引き寄せる体質は、呪いにも、救いにもなる。透花、お前はこれらを身につけていなさい。命の方から先に折れないように」


「うん。おじいちゃん、帰ってくる?」


「必ず」


 約束は、約束の形をした静けさの中に沈んだ。

 翌朝、祖父はいなくなっていた。玄関のたたきには、草履のかたちがひとつ、湿り気を残していた。


 ――それから、私は育った。

 引き寄せる体質は、相変わらずだった。というより、年々、はっきりしてきた。通学路。公園。図書室の隅。川沿いの道。黒い影たちは、どこからともなく寄ってきて、私の指先に触れようとする。私は、怖くなかった。怖くないのは、幼いときからずっと同じ。胸の小袋に、祖父の石たちがいる。小袋を握ると、石は温かくも冷たくもなく、人間の体温では測れない「ちょうどよさ」で、私の脈を受け止めた。


 それは、死なないという自信に変わっていった。

 強さと呼ぶには、あまりにも無邪気で、危うい自信。

 でも、人生で最初に覚えた“常識”がそれだったのだから、仕方がない。


 中学三年の春。

 制服のリボンを急いで結び直して、私はスーパーの袋を片手に、裏道を帰っていた。冷蔵庫は空っぽで、買いすぎた唐揚げ用の鶏肉が、袋の底で主張している。塩と生姜と酒で漬けて揚げて白米をわしわし食べれば、だいたいのことは解決する。鼻血も貧血も、食べれば治る。そういうふうに、からだが出来ている。


 電柱の影が、いつもより濃かった。

 四月の夕暮れは、冬の夜の名残を引きずる。遠くで電車がつんと音を鳴らした。

 影が、人の背丈まで立ち上がる。道の端で、誰かが「あ」と息を飲む気配。

 私の胸の小袋が、微かに鳴った。鈴でも入っているみたいに、ひとつ、からん、と。


「あ、また来ちゃった」


 私は笑って手を伸ばす。

 影は湿った紙を破るような音を立てた。私の指先に触れる。

 透明な線が、指から肘、肘から肩、肩から胸へ走る。石たちが一斉に返事するように、胸の内側でからんからんと鳴って、薄い膜がぱっと張られた。帳――。

 引き寄せる。吸い込む。固める。

 何度もやったことだ。いつも通り、掌の上で、光が祈るみたいに花を咲かせる。夜の香りがひと呼吸ぶんだけ濃くなって、すぐに晴れる。


「よし、妖石ゲット♪」


 指でつまんで、小袋とは別のポケットへしまう。売る石と、お守りの石は、混ぜない。祖父の石たちは、不滅。使っても消えない。売るのは、いま固めた新しいやつだけ。


 背中に、視線が刺さった。


「……まさか。吸収と同化を、無意識で……」


 黒いスーツの男が、数メートル先の電柱の陰から出てきた。

 髪は短く整えられ、眼鏡のフレームは細い。ネクタイは濃い藍色。仕立ては良い。靴底の音は沈んでいるのに、足元に風がまとわりつく。


 私は鼻をこすった。

 爪の先に、うっすら赤いのがついた。鼻血。

 べつに珍しくもない。私は肩で息をしながら、黒スーツの男を見る。


「あの……誰?」


「私は陰陽師学園の者だ。斎宮透花、君をスカウトしに来た」


 唐突で、冗談みたいで、でも、声は冗談の音をしていなかった。


「え? 学園? ……勉強はあんまり、だけど」


「勉強は後だ。君の力は危険すぎる。制御できる環境が必要だ。放っておけば社会が混乱する」


 彼はじっと私を見る。

 まるで、私の胸の小袋の中身まで、凝視しているみたいな目だった。

 私の胸の石たちは、少しだけ重くなった。彼の視線に、石が反応している。――この人、ただの大人じゃない。陰陽師の匂いがする。護符の紙と煤の匂い、鉄の匂い、刃物の油の匂い。祖父の袖についていたのとよく似た匂い。


「ねえねえ、それって……お小遣い、増える?」


「……は?」


「だって、妖石って売れるでしょ? 学園に入れば、いっぱい討伐できるんだよね? だったら、ご飯代くらい稼げるよね!」


 男は口を閉じたまま、二拍ぶんだけ瞬きを忘れた。

 それから、わずかに目を細める。顔の下半分だけ、笑っていない。


「……話が早くて助かるが、正直すぎるな、斎宮透花。君は何者だ?」


「えっと、透花。ご飯が好き」


「そういう意味ではない」


「じゃあ、臨界点?」


 私は胸ポケットをとん、と指で叩く。

 小袋がからんと鳴く。黒スーツの男の喉が、見えない音で鳴った。


「その袋……見せてもらえるか」


「だめ。お守りだもん」


「……そうか」


 彼は一歩だけ近づいて、それ以上は距離を詰めなかった。

 私は、人の距離感がけっこう好きだ。近すぎず、遠すぎず。祖父は、いつも、私が手を伸ばしたら届く距離に立っていた。

 この黒スーツの男は――手を伸ばしても、きっと掴ませてはくれない距離にいる。仕事の人の距離。

 風が、ネクタイの先をかすかに揺らした。


「名は、黒江(くろえ)。陰陽師学園のスカウト担当だ。……斎宮透花。君のような体質は、世界に何人もいない。引き寄せ、同化、即時の妖石化。おそらく、君は生まれつき“臨界点”に立っている」


「ふーん」


「ふーん、ではない」


「でも、今までだって、こうやって生きてきたよ。死なないし。お守りあるし」


「“死なない”という過信が、いちばん命を危うくする」


「うん。でも、ご飯食べればだいたい大丈夫」


 私は袋を掲げる。鶏肉がずしっと重い。黒江は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。

 彼の目線が私の肩を越えて、背後の空気を測る。

 そこに、もうひとつ、薄い影が立っていた。


「――下がれ!」


 黒江の声が低く鋭く跳ねた。

 影はさっきより背が高い。電柱の影と重なって、見えづらい。人の顔の位置に、白く擦れた線が二本、ふっと浮いた。目だ。

 胸の小袋が、石の数だけ短く鳴る。

 来た。さっきの気配に引きつられて、別のが寄ってきた。夕暮れは、そういうものだ。暗さのほうが強くなるタイミングは、影の世界に勇気を与える。


「透花、避け――」


「大丈夫」


 黒江の言葉を途中で切って、私は影に歩み寄る。

 鼻の奥が、ぞわ、と冷えた。貧血前の前兆みたいな冷気。膝が少し緩む。

 でも、胸の石たちが、先に膜を張る。膜は柔らかく、薄氷のようにぱりんと割れそうで、けれど決して割れない。祖父の掌の大きさの安心が、その膜の厚さだ。


「こっち、おいで」


 私は影に話しかける。

 影は、人のような顔を私に向ける。目の線が細く笑ったように見えて、次の瞬間、伸びてくる。

 指先。手のひら。肘。肩。胸。喉。頭。

 透明の線が通り、じわりと喉が痛くなって、すぐに消える。

 私は息を吐く。光がこぼれる。

 石がひとつ、増える音。掌の上に、丸い石がころん。先ほどのより、少し重い。内側に、白い糸が絡み合っている。


「はい、二個目」


 私は石を見せる。黒江は、驚愕を抑えた表情のまま、わずかだけ息を吸い、吐く。


「……普通は、二連続はやらない」


「やると、お腹が空くから?」


「いや、鼻血が出る」


「それはもう出た」


 私は鼻を指す。先ほど拭いたばかりのはずが、また赤いのが薄くついていた。

 黒江は眉を寄せ、コートの内ポケットから清潔なハンカチを差し出した。私は「ありがとう」と言って受け取り、鼻の下を押さえる。ハンカチは上質で、いい匂いがした。


「今の君を、放ってはおけない。学園に来い。制御と、管理と、社会との折り合いを学べ」


「学園って、ご飯、出る?」


「食堂はある。大盛りもある」


「妖石、売っていい?」


「規定の範囲なら、売買も教育する」


「規定って、決まってるの?」


「決まっている。だが、君に合わせて見直しが必要だろうな」


 黒江の目が、遠くの別の都市を見ているみたいに、すっと横へ流れる。

 妖石の市場。利権。財閥。政治。――祖父が旅に出て「祓い」を金に換えた理由の、もっと大きい裏側。

 私は、そういうことは、まだよく分からない。分からないけれど、胸の石たちは、その言葉に微かに震えた。

 黒江は気づいている。祖父が集めて残した不滅の石――神格級。使っても消えない、守りの核。

 彼は、私に頭を下げるべきなのか、警戒すべきなのか、決めきれずにいる。

 私には、そんなふうに見えた。


「……斎宮透花。君のような“臨界点”は、放っておけば、いずれ誰かに使われる。財閥に、政治に、あるいは、怪異そのものに」


「使われるって、なに」


「君の“引き寄せ”が、街を壊す規模になったとき、誰かが“鍵”にしようとするということだ」


「鍵?」


「結界は鍵で破れる。鍵は、内側からも外側からも、開けられる」


 私は、鍵のかたちを思い浮かべてみる。祖父の木箱の小さな錠前。学校のロッカー。駅のコインロッカー。鍵穴はどれも似ている。

 私の体質は、鍵穴なのかもしれない。怪異のほうから鍵に吸い込まれてきて、私の中を通って、石になって出ていく。

 その通り道を、誰かが勝手に広げたら、街へ穴が開く。

 たしかに、それは、ちょっと困る。


「じゃあ、学園で、鍵のしまい方、教えてくれる?」


「教える。鍵の削り方も、鍵穴の塞ぎ方も、鍵そのものの扱い方も」


「ご飯、食べてもいい?」


「むしろ食べるべきだ」


「お弁当、大盛り?」


「……大盛りどころでは足りないと思う」


 黒江の口元が、少しだけ笑った。私も笑った。

 私は決めるのが早い。食べるか、寝るか、戦うか。どれもお腹が空く。だったら、食べられる場所で、たくさん戦えばいい。それが私の生き方だ。


「分かった。行く。学園」


「よし」


 黒江がうなずいた。

 彼は胸ポケットから名刺を出す。名刺には、見たことのある校章の紋が印刷されていた。和の意匠なのに、どこか都会的な線。名の下に肩書き――陰陽師学園・外部連絡室――黒江 晴臣。

 私は名刺を受け取り、スーパーの袋と反対の手で握る。名刺は紙のくせに、思っていたよりも温かった。


「入学手続きはこちらで済ませる。明日の昼、学園の正門に来い。制服や生活の準備は、後でこちらから指示を出す」


「うん。でも、今夜は唐揚げ」


「それは自由だ」


「食べる? 持っていく?」


「……遠慮しておこう」


 黒江はほんの少しだけ困った顔をした。私は笑って肩をすくめる。

 黒江が踵を返しかけて、もう一度こちらを見る。視線が、私の胸の小袋に落ちる。


「それを、失くすな」


「うん。おじいちゃんのお守りだもの」


「君の祖父は――」


 黒江の言葉が、そこで切れた。

 夕暮れの色が、夜の色に一段沈む。電柱の上で、烏が一羽鳴いた。

 祖父はどこにいるのだろう。生きているのか、いないのか。

 私は、答えを知らない。けれど、胸の石たちは、時々、祖父の声に似た響きで鳴る。風の向きに鈴を合わせるみたいに、からん、と、ひとつだけ鳴く。


「……また明日」


 黒江はそれだけ言って、影の中に溶けるように去っていった。

 私は背筋を伸ばして、袋を持ち直す。鼻血は止まっていた。ハンカチは、あとで洗って返さなきゃ。


 夜。

 台所に、油の匂いが立つ。ボウルの中で、鶏肉は塩と酒を吸って白っぽくなり、卸した生姜が金色に染みている。衣の粉をつけて、温度を探る。菜箸の先に細かい泡が立ったら、ちょうどいい。

 じゅ、と音がして、花が咲くみたいに衣が膨らむ。

 立ちのぼる湯気は、祖父がいなくなってからも、ずっと同じ匂いだ。油の匂いと、醤油の匂い。ご飯の蓋を上げると、湯気に混じって米の甘い匂いが部屋に広がる。

 私は、とにかく食べる。食べないと、からだの中の透明な線が、からからに乾いて割れてしまう。

 揚がった唐揚げをひとつ摘んで、ふうふうして、齧る。舌に、現実の重さが戻ってくる。


「……おじいちゃん」


 声に出してみる。

 祖父は返事をしない。石たちは鳴らない。

 でも、ふと思い出す。祖父の指は、怪我の跡だらけなのに、針に糸を通すのが上手だった。護符の角をぴたりと合わせて折るのも、包丁で大根を薄く切るのも、同じ精密さでこなした。

 私は、祖父の指の真似をして、小袋の紐を確かめる。結び目はほどけない。石は、そこにいる。


「行ってくるね、明日」


 私はご飯をおかわりして、唐揚げをもう三つ食べて、味噌汁を二杯飲んだ。

 鼻血は出なかった。貧血も来なかった。

 食べれば、だいたい大丈夫。

 明日からの「だいたい」を、学園で、ちゃんと「だいたい以上」にする。鍵のしまい方を、覚える。臨界点の立ち方も、覚える。

 それでも、きっと一番大事なのは、食べることと、笑うこと。


 翌日。

 春の空は、青い。

 陰陽師学園の正門は、思っていたよりも背が高く、左右の柱に彫られた紋は、見上げると夜空の星座みたいに見えた。門の内側には、桜が二本、まだ若くて、でも花は律儀に咲いている。

 黒江が門の影から現れた。藍色のネクタイは同じで、今日の靴は昨日より音が軽い。後ろには、数人の職員が控えている。皆、黒いスーツ。

 正門の上に、金の文字で校名がある。古い字なのに、現代のまちの空に浮かんでいる。


「来たな、斎宮透花」


「来たよ。お腹、空いた」


「入学の前に、食堂に案内したほうが良さそうだな」


「やった!」


 私は笑って、門をくぐる。

 校舎は思っていたよりも白く、窓は大きい。屋根の端に、式の印が刻まれ、風見鶏のかわりに小さな鏡がはめ込まれている。日光を跳ね返して、廊下に光の帯を作る。

 廊下ですれ違った生徒たちが、ちらちらとこちらを見る。噂は早い。臨界点の新人が来た、と、きっと誰かが言いふらした。

 私は胸の小袋を押さえる。石たちは、安心して鳴らない。

 大丈夫。死なない。食べる。戦う。学ぶ。――全部、やる。


 食堂の扉を開けると、温かい匂いが押し寄せた。

 味噌汁。出汁。揚げ物。焼き魚。白いご飯。ざく切りのキャベツ。

 私は、これから、この匂いのする場所で、鍵をしまう練習をする。

 そして、世界のどこかで、誰かが鍵穴を探しても、扉は、私の手の内でしか開かないようにする。


「透花、まずは軽く――」


「唐揚げ定食、大盛りで!」


「……軽く、とは」


「軽く、唐揚げ二皿」


 黒江が頭を抱え、職員が微妙な笑いを漏らす。食堂のおばちゃんは眼鏡を上げて「はいよ」と快活に答えた。

 トレイの上に白米の山が二つ、唐揚げの山が二つ、味噌汁が二つ乗る。

 私は両手でトレイを受け取り、テーブルに置く。箸を割って、祈るみたいに手を合わせる。


「いただきます」


 最初の一口は、昨日の夜と同じ唐揚げなのに、味が違った。油の温度も、衣の音も違う。食べながら、世界の形が少し変わっていくのが分かる。

 私は、笑った。

 臨界点に立つということが、世界の均衡を変えるということなら――私の均衡は、白米と唐揚げと味噌汁と、祖父の石たちでできている。

 それなら、たぶん、私はうまくやっていける。


 食べ終えたら、入学の手続き。制服の採寸。授業の説明。式室の見学。模擬戦の予定。売買の規定。……そして、たぶん、最初の任務。

 わくわくが、胸の中で二回跳ねた。小袋の石が、からん、と一度だけ鳴いた。

 祖父の声に、少しだけ似ていた。


 ――こうして、“臨界点筆頭”と呼ばれる少女の第一歩が、始まった。

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