第26話 冬至祭ふたたび――群青の空に
朝の空は、まだ「青」になりきれていなかった。夜から遅れてきた群青が、街の屋根の上で薄くたまり、風に押されて川沿いの低地へ静かに流れていく。その群青の底で、鐘の台座に結ばれた白い布が、冬の呼吸に合わせて微かに揺れた。冬至。夜がいちばん長く、光の端がいちばん小さくなる日。去年、この広場は爆ぜ、火と灰と叫びで満たされた。いま、同じ場所に、屋台と療養所の臨時診療台と、子どもたちの飴を売る青い箱が並ぶ。
橋の中央にある低い塔――石を置く儀式の名残は、相変わらず大人の膝ほどの高さだ。誰かが毎朝、花を挿し替える。今日は、冬のための白い木の実と常緑の小枝、それから、露草に似た小さな青い花が三輪。板に書かれた文字は、去年より少し増えていて、手の癖の違う字が同じ文を繰り返している。
『石は置く。手は離さない。花は真ん中。札はポケット。』
文字の隅に押された輪の印は、ところどころにじみ、ところどころ濃く、ところどころに子どもの指の跡が重なっていた。石の塔の向こう、川べりには臨時の療養所が開き、白と黒の帯を肩に斜めがけにした医師と看護人が、いつもの「朝・食・眠・怖」の札に、冬至祭専用の「寒・甘・音」の札を加えて回っている。「音」は、鐘の響きに過敏な者のための観察カードだ。鐘の音は祝福だが、去年の爆裂の記憶を持つ耳には、ときに刃になる。刃を布に変えるため、札を増やした。
セレスは、朝の巡回を終え、白衣の上に灰色の外套を重ねた。外套の内ポケットには、いつもの木札――『朝』『食』『眠』『怖』と、近ごろ加わった『和』『橋』『輪』、それに『寒』『甘』『音』。指の腹の鈍さは、去年よりも薄れ、しかし消えてはいない。半拍の遅れは、相変わらず棚に載っている。棚は未完の棚。未完は続けるための形だ。彼女は未完に輪の印を押して、朝の湯を一口分だけ置く。置き水は、冬の仕事道具だ。
市場の屋台は、冬の甘さを用意していた。蜂蜜を煮詰めた飴、砂糖をまぶした焼き果、香草をわずかに足した温かい乳、塩気の強い干し肉と、香ばしい穀の焼き餅。去年の冬至祭に怒号の中を走った子どもたちは、今年、同じ場所で走るが、走り方が違う。走り抜けた先に待っているのが抱擁だと知っている足音だ。橙が、屋台と屋台の間の空間に縄を渡し、そこで子らが輪を作る練習をしている。鳴らない鈴は、相変わらず鳴らないが、胸の内側で鳴らす練習は上達した。
「輪、見せて」
セレスが言うと、橙は胸の前で親指と人差し指を合わせ、小さな輪を作った。去年よりも迷いがない。輪は合図であり、約束であり、相手の恐怖を受け取るための形。輪が上がれば、手は止まり、口が開き、布が置かれる。
「今日は、鐘が鳴るわ」
「うん」
「もし怖くなったら、どうする?」
「輪を見せる。……それか、花を見る。真ん中」
真ん中、という言い方を教えたのは、セレスではない。あの板の字を書いた子どもたちのうちの、ひとりだ。花は塔の真ん中に挿す。真ん中にあるものは、争いに巻き込まれにくい。真ん中に置いた花の影は、左右に平等な濃さで落ちる。影が平等であるとき、人は刃を抜きにくい。
午前のうちに、セレスは臨時診療台で幾つかの問診を終えた。冬の咳、皮膚の乾き、古傷の疼き、恐怖の夢。夢は、夏より冬に濃くなる。夜が長いからだ。長い夜には、記憶が伸びる。伸びる記憶は、輪で結ばないと絡まる。彼女は問診の最初に『今日の音』を加えた。音は、鐘の話だけでなく、市場の足音、屋台の鍋の沸騰、遠くの笑い、橋の上の布の擦れ、そして――爆裂が起きた広場の記憶の残響。音を語ってもらうと、胸の中の固さが少し崩れる。崩れた固さは、布で包める。
昼前、アギルが現れた。人界から派遣された若い医師は、今では「こちら」の帯の結び目を、迷わず自分の肩の高さに合わせる。「甘」と刻まれた札を指で弾き、患者に差し出す前に、自分の舌で飴を一つだけ舐める。味見は礼だ。甘さは、毒を薄める。彼は冬の飴の配り方にも、手順を作った。三歳未満には与えない。喘鳴のある子には蜂蜜を避ける。砂糖を舐めた後には水を一口。水は、冬でも冷たすぎない温度で――置き水の温度だ。
「午後、壇上で王が話す」
アギルが言った。「僕は、橋の見張りの交代。……輪の札、追加であります?」
「ある」
セレスは木箱から小さな輪の札を五枚取り出した。片面には輪の印、片面には『止まる』『進む』『逃げる』『呼ぶ』『置く』とだけ刻んである。祭りの人出では、言葉より札のほうが速い。速さは無礼ではない。礼儀正しい速さが、人の波の上で役に立つ。
午後、広場の壇のまわりに人が集まり始めた。去年の冬至祭の名残で、壇の下には薄い焦げが石に残っている。焦げは、誰も磨かない。磨くと、記憶の棚の位置が曖昧になるからだ。焦げの上に、布が一枚敷かれていた。布には輪の刺繍。刺繍の一つひとつに、見習いたちの手の癖が残る。手の癖は、制度が人間を忘れていないことの証明だ。
ルーメンは壇の袖に立っていた。黒の外套の袖口から、細い銀の器具がのぞく。爆裂符の封じに使う、薄い鉛のしずくを冷やすための小皿。去年の騒擾のあと、彼は毒の比率だけでなく、街の騒ぎの比率も研究した。騒ぎは甘さで薄められ、布で吸われ、輪で止まり、数字で遅延される。「主旋律を乱さない」というのは、音楽の比喩だが、彼の中では完全に実務の言葉になっている。主旋律を守る――式次第の順番、鐘の鳴る拍、王の言葉の長さ、布の波打ち、子どもの泣き声、屋台の鍋の沸騰――それらが高すぎず低すぎず重なるのを、彼は数字で測る。
ガルドは、壇の左右の通路に兵を置いた。楯の裏には布、楯の表には輪の印。兵は、刃を抜かないことを誇りにした。抜かないことは怯えではない。抜く前に止まる手順を体に覚えさせるのは、今年の春に始まった新しい訓練の成果だ。彼らは足を少し開き、石畳の目地を踏まず、靴の釘を光らせない。音は鳴らないほうが、城下では「強い」。
ダントンは、杖に新しい石をはめていた。淡い青。群青の浅いところの色。冬至祭のための杖頭は、鐘の音の揺れ幅を受け止め、老いた膝に過分な重みが落ちないように調整されている。老臣は今年、未完棚に二度も自分の失敗を貼った。「言葉が古すぎた」「子に近づく速度が遅かった」。輪の印が隅にあり、老いの字は柔らかかった。
鐘は、今年は最初から祝福のためだけに鳴る。瘴気の拡散符は、鐘楼のどの空洞にも仕込まれていない。セレスと見習いたちが一ヶ月かけて点検した。点検の記録は、双方の医師団の帳面に挟み込まれ、輪の印と署名が重ね押しされている。鐘を鳴らす紐には、新しい布が結ばれ、布の端に、小さな輪の刺繍。輪は合図。輪は、怖さを棚に置くための形。
やがて、アレクシスが壇に上がった。冠はかぶっていない。黒金の王冠は、城の小部屋の石の箱の中にあり、机の端に白い包帯と記録帳の冠と並んでいる。今日は、言葉の重さが冠の重さに見合うと彼が判断した日だ。彼は、群衆の目線の高さを選び、深く息を吸い、胸の内で輪をひとつ作る。王も輪で始めることを、彼はこの一年で覚えた。
「――私は王である前に、一人の生を愛する者だ」
短い宣言が、広場の石と屋台の布と橋の塔に吸われず、空に逃げもしない高さで置かれた。置き方をセレスは知っている。音の置き方にも、布の置き方と同じ法則がある。王の声は続いた。
「この一年、私は、王冠の重さを増やした。言葉を増やした。棚を増やし、釘を増やし、布を増やした。手を増やした。私の手だけでは足りないと、やっと学んだからだ。……番を公に認めた日から、私は毎朝、自分のポケットに『怖』の札を入れる。怖さは、捨てるものではない。持ち運ぶものだ。持ち運ぶと、誰かの札と重なり、少し軽くなる」
群衆のどこかで、小さな笑いが生まれた。笑いは長くない。短い笑いが長く残るのは、この街の新しい習慣だ。王は一瞬、その笑いに頷いてから、言葉を続けた。
「私は王である前に、一人の生を愛する。名はセレス。職は治癒師。彼女の白い包帯と記録帳の冠は、黒金の冠と並ぶ。混じらない。並ぶ。――冬至。夜が長い。だから、灯を増やす。灯は、高いところだけでは足りない。台所に、廊下に、橋の上に、療養所に、屋台の下に。灯を増やすのは、王の仕事でもあり、みなの仕事でもある」
セレスは、壇の端に立っていた。王の言葉が布になって広場に敷かれるのを、足の裏で確かめる。布の下で、去年の焦げが薄く息をする。焦げは記録だ。記録の上に布を敷くのが、療養所の作法であり、城の新しい礼法だ。
王が一歩下がり、セレスが一歩前に出た。輪の合図。彼女の声は、生まれたばかりの湯気の温度だった。
「私は治癒師として、あなたとこの国を診(み)つづける」
板に書かれた文と似ているが、違うところがある。「診る」は、見るより責任の重い字だ。責任は冠の形をしておらず、包帯の形で手に触れる。「診つづける」。続けるには、未完が必要だ。未完がなければ、続きはない。セレスは続けた。
「私たちは、患者を選ばない。……“患者”という語の中には、あなたも、わたしも、子も、兵も、司祭も、屋台の菓子職人も、鐘楼の紐を引く人も、去年、石を握っていた人も、今年、石を置いた人も含まれる。療養所は、あなたが王でいられるための仕組みの一部であり、あなたが王でなくとも生を守れる仕組みの一部でもある。――冬至。夜が長い。だから、眠りを温める。湯を置き、水を置き、言葉を置く。輪を置く。怖い札を、ポケットに入れる」
彼女は言い、王を見た。王も彼女を見た。二人が視線で合図を交わすと、広場の空気が、いったん呼吸を止めた。止めて、次の拍で深く吸う準備をする。この街は、呼吸の数で恐怖を薄める術を身につけたのだ。
セレスは右手を上げ、左手の薬指に光る指環に触れた。王も同じ動作をし、黒金の輪を外気にわずかに触れさせる。二人は壇の中央で向かい合い、互いの指環を重ねた。黒金と白光の紋が、重なり合う瞬間、広場は音を忘れた。忘れた音の代わりに、光が鳴る。黒金の縁は深い夜の端をすくい、白光の輪は朝の湯の気配を薄く散らす。紋が交差し、淡い紺と乳白の間に、群青の細い線がひとつ、浮いた。冬至の色だ。群青は、夜と朝の境にしか現れない。
観衆は静まり返った。静まりは、恐怖の余韻ではない。理解の音だ。理解は、鈍い。鈍いものは、長く残る。残る理解は、刃を鈍らせる。
その静寂の縁を狙ったように、空気が一箇所だけ、乱れた。屋台の布の影、香草の束と炭の桶のあいだから、紙の小さな閃きが跳ね上がる。爆裂符。教団の残党が、最後の走りを見せた。去年の冬至祭で人々を引き裂いた符に比べれば、稚拙で拙速だが、燃えれば、布は裂け、恐怖の鈴は鳴る。紙が弧を描き、空が刃を思い出しかけた瞬間――。
ルーメンが、片手を上げた。
それは、訓練された兵の剣でも、魔術師の大仰な詠唱でもない。彼の指が空気の目地を摘み、灰に薄く溶いた鉛の雫を、音も色も立てずに符の軌道へ差し込む。符の紙は、空で一度だけためらい、燃えはじめる前の呼吸を失い、ぺたりと石畳に落ちた。落ちて、焦げになった。焦げは広がらない。広がらない焦げは、記録になる。記録は、棚に置ける。
「駄目だよ、それは」
ルーメンは、誰にも聞こえない声で言った。彼の声の甘さは、怒りの角を溶かす程度に薄い。薄さは、実務だ。甘い、と彼はよく言うが、甘さの分量はいつも計量されている。彼の指がもう一度だけ空を撫で、符へ走った手の影に別の影が重なった。ガルドだ。兵が走る前に、彼は自分の靴音を消し、楯の裏の布を広げ、符を投げた者を群衆から遠ざけた。乱暴ではない。乱暴は、怒りの石を拾い直させる。布を掛け、輪を示し、手を空けさせ、恐怖の札をポケットに戻させる。
騒擾は、主旋律を乱さなかった。乱さないように設計された一日だった、というより、この一年が、そのために組み直されてきたのだ。祭りの主旋律――王の言葉、治癒師の誓い、指環の交差、鐘の祝福――そのどれもが、去年の冬至を通ったあとで、厚みを増していた。厚みは、鈍い。鈍いものは、暴力の刃を受けても折れにくい。
鐘が鳴った。祝福の音。去年と同じ鐘だが、手順が違う。鐘楼の紐を引く者は、鳴らす前に輪を見せ、鳴らしながら呼吸を数え、鳴らし終えてから布を紐に掛ける。布が紐の熱を取り、音の余韻は城の上に薄く留まる。留まる音は、祈りに最適だ。祈りは宗派を越え、生活の言葉に混ざる。祈りと生活は、同じ棚の上に置くのが今年の街のやり方だった。
群衆は、拍手をしなかった。しなかったのは、礼だ。拍手は音が大きい。大きい音は、誰かの胸の鈴を鳴らす可能性がある。代わりに、人々は小さな輪を作った。輪が海のさざ波のように広場を渡り、橋を渡り、塔の前で集まる。塔の花の影は、群青の光の中で二つに増え、輪の印を抱いた。
式が終わると、城下は祭りの顔に戻った。屋台の鍋が再び沸き、蜜の匂いが交番のように漂い、子どもたちは飴を口に含んで、舌を出して笑った。療養所の臨時診療台では、『甘』の札の裏に『水』の札が貼られ、看護人たちは紙のコップにぬるい水を配る。アギルは、弦楽器のように静かな声で子どもに話しかける。「今日の音は?」。子どもは「甘い」と答え、彼は笑って「それは味だ」と訂正する。訂正は、叱責ではない。語彙を増やす手数だ。
セレスは、塔の前に立って、花の影を見ていた。去年より、影が濃い。濃いのは、冬至の太陽が低いからだ。低い光は、物の輪郭を鋭くする。鋭くなった輪郭をそのままにしないために、布がある。彼女は、膝をつき、塔のすきまに折り紙のように小さく折った白布を一枚滑り込ませた。布は、石の冷たさをわずかに吸い、手に戻ったとき、冷たさの形を変えている。
「セレス」
背中から呼ぶ声。アレクシスだ。普通の靴の音。音は、石に輪を置く。
「手は、離さない」
「離さない」
確認は呪文だ。呪文は、意味を厚くする。厚みは、夜を越える。二人は、塔の前でしばらく立ち、冬至祭の群青の光を見た。空の群青は、昼の青とも夜の黒とも違う。交差の色。指環の紋が重なったときの細い線と同じ色。彼らは、その色を眼の底に記録して、城へ戻る道を選んだ。
途中、橋のたもとで、小鬼の親に呼び止められた。粗末だったはずの花束は、今年はほんの少し整っている。去年、塔に差し込むために茎を折った手は、今年、はじめから長さを揃えてきたのだ。誰かに教わったのかもしれない。教わるということは、誰かの時間を受け取るという意味だ。
「花嫁さま」
その呼び名は、刃ではなかった。布だ。布は、王冠の下でも役に立つ。セレスは笑って、輪を作り、親は同じ輪で応えた。輪は、点と点を線で結ぶのではなく、面と面をやわらかく触れ合わせる。
夕方、ルーメンは城の高いところで数字を片付けていた。爆裂符の投擲軌道、封じに要した時間、群衆の呼吸の平均、鐘の鳴る拍のばらつき、屋台の蓋の開閉回数、未完棚に貼られた「見逃し」の枚数。彼は、数字の端に砂糖をひとつまみ落とした。甘い、と彼は言う。甘さは、毒を薄める。毒が薄まると、数字は人間に近づく。人間に近づいた数字は、明日、また実務に戻る。
ガルドは、兵の靴の底を点検していた。釘の減り、皮の乾き、踵の癖。彼は、楯の裏の布を洗って干し、輪の印を指でなぞり、笑い、未完棚に『楯の持ち替えが遅れた』と書いた。輪。隣に『次回、子どもの見張りの交代をもう一組追加』。輪。彼の字は、武骨だが、柔らかさの余地がある。
ダントンは、杖を壁に立てかけ、書記に口述をしていた。『冬至祭、騒擾あり。封じ、即時。主旋律、乱れず。鐘、祝。群青の空。』短い記録。短い記録は、長く残る。長い記録は、短く読まれる。老臣は、長く残るほうを選んだ。
療養所では、セレスが、今日の「未完」を棚に貼っていた。『鐘の第二打で二人、耳を塞ぐ。次回、合図の札を一拍早く』。輪。『屋台の煙、咳の子に強すぎた。風下に移動の札』。輪。『指環の光で、三名、涙。良い涙。記録のみ』。輪。彼女は、最後に自分の小さな未完を一枚。『半拍の遅れ、今日は気にならず。明日も油断せず』。輪。札は、木の香りのする棚に並び、夜の間に冷える。朝、温め直す。置き水のように。
夜。城の小部屋で、二つの冠は並んでいた。黒金の王冠と、白い包帯と記録帳の王冠。机の端には、輪の小さな刺繍が一列に並び、釘は最小限しか見えない。釘が少ないほうが、布は軽い。軽い布は、長持ちする。
アレクシスは、窓から群青の残りを見た。冬至の空は、夜と朝の境がいちばん長い。境が長ければ、呼吸の数を増やせる。呼吸が増えれば、恐怖は薄くなる。薄くなった恐怖は、札に収まり、棚に置ける。彼はポケットに手を入れ、『怖』の札を確かめる。薄い木の札が指に触れると、指は、今日の群衆の輪の熱を思い出す。
「セレス」
「ここにいる」
短い返事。返事は、生活の筋肉だ。王は冠に触れ、包帯に触れ、記録帳の端に指を滑らせた。
「今日、言えた」
「言えた」
「騒ぎは、主旋律を乱さなかった」
「乱さなかった」
「甘い、と言われた」
「言われた」
確認は、二人の間で、間隔の正しさを測る作業に似ている。測るたびに、言葉は布になる。布は、冠の間に置かれ、冷えを受け止める。
「――私は王である前に、一人の生を愛する者だ」
アレクシスがもう一度、呟いた。独り言ではない。誓いの反復。反復は、薄い紙を重ねる作業だ。重ねるほど、破れにくい。破れにくければ、次の冬至まで持つ。
「――私は治癒師として、あなたとこの国を診つづける」
セレスも呟いた。紙が一枚重なる音は、小さい。小さな音ほど、長く残る。
「手は」
「離さない」
外で、鐘が、ひとつだけ、遅れて鳴った。祝福の余韻のようでもあり、街の誰かが紐に結んだ布の結び目が、風で優しく引かれた音のようでもあった。鳴らない鈴は、今夜も鳴らない。鳴らない音が、部屋の空気に輪をつくり、二人の言葉の間に安らかな沈黙を置く。
夜が最も長い冬至の空は、ゆっくりと群青から黒へ移る。黒は、光を消す色ではない。光が、深く懐に入った色だ。懐に入った光は、朝に戻ってくる。戻ってくるまで、置き水をし、布を掛け、輪を作り、札をポケットに入れ、釘を打つ。生活の手順は、戦より強い。
翌朝、橋の塔の前に、また新しい板が増えていた。子どもの字で、こう書いてある。
『群青の空を覚えておくこと。石は置くこと。手は離さないこと。』
隅に輪。輪の横に、小さく描かれた二つの王冠――黒金と白――が並んでいた。並んで、重なってはいない。間に花と布と釘と札があり、鐘の音が小さく漂っている。
冬至祭は、今年は、祭りのままで終わった。終わったというのは、物語の主旋律が乱れなかった、という意味だ。騒擾は、もう、主旋律を乱さない。乱さないように、街が一年をかけて呼吸を合わせ、棚を増やし、布を洗い、輪を学び、甘さの分量を測り、石を置き続けてきたからだ。群青の空は、その上に静かに立ち、鐘は祝福の音を運ぶ。運ばれた音は、今年の記録になり、来年の置き水になる。
そして二人は、群青の空の下で、指環を重ねたあの瞬間を胸の内側に灯して、またいつもの一日に戻っていく。診療台へ、棚へ、机へ、橋へ、塔へ。未完の誓いは、今日も薄い紙を一枚重ね、冬至の長い夜の端で、静かに呼吸をつづけていた。
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