第23話 代償と選択
朝の湯気は、紙の上に置いた指の熱を、わずかに拡げる。医務室の窓は半分だけ開き、風が、棚のラベルを撫でては、列の端に鳴らない鈴の影を作って通り過ぎる。置き水の鉢は、昨夜からの冷たさを保ち、隣には新しい白布が、折り目の角をきちんと立てて積まれている。
セレスは、最初の患者の前に座った。少年。人界の出で、頬にやけどの痕、前腕に細い傷。彼は椅子の縁で足をつりあげ、視線を窓に、指を袖に隠している。怖がりの仕草は、どこの陣営でも同じだ。
「おはよう」
セレスは言って、手首に触れようとして、いったん止めた。呼吸をひとつ。置く。置かれた呼吸は短く、しかし、机の引き出しの一番上に鍵を戻すときの手つきのように確かだった。
「脈を診るね」
少年の手首に、指腹を置く。いつもの位置。橈骨茎状突起の外側から指一本ぶん内側。指は、迷わずそこへ行った。けれど、そこからが違った。鼓動が、半拍遅れて掴まる。遅れは、音ではない。色の欠落。音の輪郭。以前なら、皮膚の下で跳ねる「高さ」の差が見えた。今は、見えない。見えないから、探す。探すから、遅れる。
「……ふむ」
間を埋める言葉。医務室に分散した耳のうち、三つがこちらを向く。見習いの魔族の青年——角がまだ柔らかい——が、一歩前へ出かけては、セレスの手の骨の動きを見ようと足を止める。人界から派遣された若い医師アギルは、めくれたカルテの紙を指で整えながら、視線を上げない。彼は、わざと上げない。自分の視線が、今朝の温度には強すぎることを知っているからだ。
セレスは指をわずかにずらした。骨の出っ張りの、すぐわき。いつもなら無駄な動き。今朝は、必要。鼓動が、遅れて、指腹に触れた。その高さは、薄い布を一枚隔てて触れる炎のように頼りない。
「昨夜、熱が出たね。今は少し下がってる」
言葉に確かさを載せるには、昔ほど多くの“色”を使えない。だから、順番を変える。セレスは、脈診の次に舌の色、眼瞼結膜、呼吸の数、唇の乾き、皮膚の温度の偏り——見て触れて聞いて嗅いで、最後に問う——という自分の手順に、いくつかの小さな結び目を足した。結び目は、遅れの隙間を縫うための糸だ。
「咳は? 夜に多い? 寝汗は?」
「……ちょっと。咳は朝に」
「喉は痛む?」
少年は首を振る。セレスは、喉に光を当てず、代わりに言葉の間延びを計る。喉が痛むとき、少年は語尾を短く落とす。落ち具合は、数えられる。数は、どの宗派にも属さない。彼は数へ寄りかかる。
「大丈夫。薬は弱く。今日は薄い粥と、ぬるい湯。……それから、怖い夢を見たら、鈴を鳴らさないで手を上げて。こう」
彼は、親指と人差し指で小さな輪を作って見せる。少年は目を瞬かせ、ぎこちない輪で応じた。応じられた輪は、朝の壁に一瞬の光をつくる。輪は、手術開始の合図でもあり、怖い処置の前に「手を離さない」を約束する印でもある。輪は、今朝、救いの縮図だ。
順番は守られた。しかし、時間がかかった。簡単な脈診に、いつもの三倍。次の患者、次の患者。人の列は続く。療養所の廊下の端で、橙が列を整え、鈴を鳴らさない手で、子らの肩へ影のない手を置き、順番の遅れを撫でる。アグリは器具の箱を拭き、イーアンは薬のラベルを書き直し、人界からの看護師サラは、患者の列の最後尾で、あやとりの糸を使って泣く幼子の指を遊ばせる。皆が、遅れの中で、布の端を持つ。
セレスは、彼らに視線を渡し、紙の上へ目を戻す。カルテの項目を一本増やす。『脈の高さ(視覚的評価)』の右に、『病的徴候の代替所見』を設け、言葉のくさびを打ち込む。診眼の鈍さは、嘆く対象ではない。設計の変更だ。変更には、記録が必要だ。記録は、救いの“続き方”を決める。
午前の終わり、彼は自分の手に、静かな疲れを見た。昔なら、脈を十人分取っても、指の腹はまだ集中のほうへ向いていた。今は、脈を五人分、六人分。七人目の手首に触れた瞬間、内側の棚に置いた恐怖の小瓶が、かすかに鳴る。鳴らない鈴の音に紛れて、鳴る。彼は呼吸を数え、棚の小瓶の位置を、もう一回確かめる。
一。二。三。
十分後、彼は決めた。医師としての一部を失った朝。ならば、その失った場所に、他者の手を置く。置く場所がわかるのは、誰よりも自分だ。
*
「午後は、観察の時間にする」
昼の湯を一口ずつ分け終えたあと、セレスは療養所の広間に人を集めた。人界の若い医師三名、魔族の見習い八名、看護人四人。ルーメンは壁際で腕を組み、黙って聴く気配を置いた。ガルドは扉の外に立ち、進入と退出の拍を守る。アレクシスの影はどこにも見えないが、見えない影は、見える影よりも、場の重心を穏やかにすることがある。
セレスは、黒板のかわりに大きな紙を貼った。紙の上部には、太い字で『記録』『対話』『触診』と書かれている。字の間に、余白をわざと広くとった。余白は、怖い言葉を溶かす場所になる。
「まず、記録から。——記録は、呪いじゃない。未来の誰かへの手紙。大きな声にするつもりがないことでも、紙になら残せる。残すのは、失敗も」
ざわ、と空気が動いた。「失敗」という語は、宗派を問わず、喉の奥で棘になる。セレスは、その棘を指でつまむようにして続ける。
「失敗を棚に置く。棚の名前を決めよう。『未完棚』。成功は祝宴で溶ける。未完は棚で残す。——毎日、三つだけ、書いて貼る。『今日の未完』。誰のでもいい。誰かの『未完』は、誰かの『明日の成功』の部品になる」
アギルが手を挙げた。彼は、無言で立つことの礼法を知っている。「匿名でいいですか」
「最初は匿名でもいい。けれど、いつか『自分の名の下に失敗を置ける』ようになってほしい。置いた人間が責められない場所を、私たちはいま作っている」
魔族の見習いの一人が、おそるおそる訊く。「失敗を喜ぶ、のですか」
「喜ばない。喜ぶと毒になる。——でも、使う。使うために、置く」
セレスは紙の左隅に、小さく丸を描いた。親指と人差し指の輪に似ている。「これは『握り』の印。未完を書いた紙の隅に、これを添える。『手を離さない』という意味だ。書いた人が、この印を見たら、誰かがそばに立っているってわかる」
紙が、壁に貼られる音がした。音は薄く、しかし長く残る。サラが一枚、アギルが一枚、角の柔らかい青年が二枚——『皮膚の色の読み違い』『質問が多すぎて患者が泣いた』『包帯の巻き直しで皮膚を痛めた』。小さな字の端に、輪が描かれている。輪は、怖さを紙の向こう側に押し出さない。紙のこちら側で、怖さの座り方を教える。
「次、対話。——問診は『広く始めて、狭くする』。最初の問いが、患者の世界の形を決める。『痛いですか?』ではなく、『どんな朝でした?』。『熱は?』ではなく、『何を食べました?』。相手の語彙で聞く。語彙が足りない子には、指を使わせる。数える。数は、誰のものでもない」
イーアンがメモを取りながら、目を上げる。「時間がかかりませんか」
「かかる。だから、道具を使う。質問の順番の『カード』を作ろう。三枚。『朝』『食』『眠り』。裏に、『怖かったとき』。——怖かったことの言葉は、処置の前に出しておいたほうがいい。押し込めると、皮膚から出てくる。皮膚に出ると、痛みになる」
セレスは、机の引き出しから、配られた医師用の小さな木札を取り出し、それぞれに簡単な文字を記す。『朝』『食』『眠』『怖』。木札は手の汗を吸い、質問の順番を遅れずに、しかし強制しない強さで支える。彼は木札の端に、小さな輪の刻印を押した。対話は、手を離さない手仕事だ。
「最後、触診。——順番は『視→触→打→聴』。でも、その前に『距離』。相手の呼吸が早いときは、手を冷たくしないで近づかない。布越しに影を見て、影の境界線が硬いか柔らかいかを見る。角や尻尾や翼がある患者の場合、触れていい順番を必ず問う。魔族の尾は、人間の髪より語彙が多い。動きは言葉だ」
見習いたちの目が輝いた。翼の付け根の腱の張り、尾の付け根の温度差、角の根元の痒みと貧血の相関。セレスは、それを一つずつ、誰にでもわかる言葉で話す。専門語を一度だけ示し、紙に小さく書き、すぐに別の言い換えを三つ用意する。言い換えの数は、救える相手の幅だ。
「触る前に言う。『これから触る』『ここに触れる』『触る時間は短い』『嫌なら輪を作って』。輪が上がったら、止める。止めても、人は死なない。止めないと、心が死ぬ」
講義は、拍で進んだ。ルーメンが壁際で腕を組んだまま、数を数えている。彼の数え方は、毒を薄める比率と似て、滑らかで、湿りがある。ガルドは扉の向こうで、誰かが足音を弾ませないように、靴の底を静かに見張っている。ダントンは、椅子の影で、老眼鏡の上から穏やかに目を細め、紙の角が風でめくれるたびに、杖でそっと押さえる。
実習へ移る前に、セレスは、紙をもう一枚貼った。『症例共有』と書き、いくつかの簡単な病態を箇条書きにする。『瘴気暴露後の慢性咳』『尾の付け根の湿疹』『指の化膿』『祈祷焼け』『恐怖の悪夢』。項目の右に小さな四角を並べ、チェックリストを作る。何を見たか、何を聞いたか、何を触ったか、何を匂いで知ったか。最後に『未完』の欄。未完に印をつけると、責めるのではなく、拾う係が動く。拾う係は、日替わりでよい。拾うことは、誇りにならないように。——誇りは刃だ。
午後、彼らは、患者の前で輪を作る練習をした。子どもの前では大袈裟に、屈みこんで目線を合わせながら。兵士の前では、短く、低く。過激な魔族の前では、距離を保ったまま、しっかりと。輪は、語彙の少ない場所でよく働く。輪が上がると、手が止まり、口が開く。口が開くと、言葉が出る。言葉が出れば、布が置ける。
夕方、最初の『未完棚』は半分埋まっていた。『投薬量の誤差』『索引のラベルの読み間違い』『鈴の合図の見落とし』『尾に触れる順番の誤り』『“怖”のカードを後回しにした』。隅の輪の印は、早くもにじんでいる。輪がにじむのは、手の汗のせいだ。手の汗は、恥ではない。生きている証だ。
セレスは、その輪のにじみを見つめ、自分の指腹が鈍くなった分だけ、誰かの指が鋭くなる未来を思った。医師としての自分の一部を失った朝。だが、その失われた場所に、若い手が座る。座り方は、彼が教える。記録の綴じ方、対話の始め方、触診の手順——そして失敗の置き方。
*
その日、アレクシスは、一歩離れて見ていた。療養所の廊下の端、石の柱の影。王冠の重さを背骨に下ろし、翼を畳んだまま、腕を組み、目を細めて。彼の目は、以前よりも、よく止まるようになった。止めるところを選べる。止めない視線は、刃だ。止まる視線は、布だ。布は、場を温める。
セレスの指が、わずかに遅れる。遅れるたびに、周囲の手が、遅れを支える。王の胸の内側に、薄い紐が一本、張られる。紐は、彼の言葉に結わえられている。「手は離さない」。言葉は鎖ではないが、輪のように、位置を保つ。保つ輪があるうちは、王冠は落ちない。
夕暮れ、アレクシスは、療養所の裏庭へ出た。そこには、古い洗い場と、火を落とした湯釜、濡れた布が淡い風でうすく揺れている。彼は指を水面に入れ、温度を確かめた。ぬるい。ぬるさは、長持ちの温度だ。置き水は、夜のための貯金。夜はいつも来る。来て、去る。去って、また来る。
ルーメンが、背中越しに声をかけてきた。「今日は、数字がよく言うことを聞いた」
「そうか」
「未完棚は、いいですね。毒を薄める棚だ」
「毒がなければ、棚はいらない」
「毒は、いつもある。甘さの隣に」
アレクシスは、答えなかった。答えないという返答を、最近覚えた。王としての沈黙は、命令にもなる。人としての沈黙は、隣に座る場所を空ける。今夜は、後者を選ぶ。
*
夜、診療室に灯りが残った。湯気は薄くなり、紙の角の影が深くなる。セレスは、最後のカルテに小さな輪を描き、ペンを置いた。指の腹が、昼よりも鈍い。鈍いことを、もう受け入れている。その受け入れに、痛みはある。痛みがあるうちは、選べる。痛みがなくなったら、選べない。
扉が、音もなく開いた。アレクシスだ。普通の靴。石に小さな輪を置く音が、部屋の空気にやさしく沈む。
「遅くなった」
「来ると、思ってた」
セレスは椅子を引かず、立ったまま、机の角に手を置いた。置いた手の指腹の鈍さが、木の冷たさの下にわずかに埋もれる。埋もれる感覚は、悪くない。今は、こういうふうに世界と接するのだ、と体が学び直す。
「……怖い」
言葉が早かった。三呼吸を待たなかった。待たないのは、相手が誰かを知っているからだ。夜に言うほうが、怖さは薄まる。夜は、布に似ている。
「怖い。脈が、すぐに掴めない。色が、昔ほど見えない。子どもの『怖かった』が、半拍遅れる。私の中の、仕事道具が、欠けた」
アレクシスは、近づきすぎず、遠すぎずに立った。距離は、医務室に学んだ礼だ。彼は、言う前に息を吸い、息を置き、言った。
「失ったものの数ではなく、救った命の数で、おまえを数える」
その言葉は、机の角に、釘をひとつ打った。打たれた釘に、布の端が引っかかる。引っかかれば、落ちない。落ちないだけで、十分な夜がある。
セレスは、笑って、しかし涙で笑った。涙は恥ではない。水は、刃を鈍らせる。彼は、袖で一度拭い、机の引き出しから小さな木札を取り出した。『怖』と刻んだ札。アレクシスに渡す。
「これを、あなたのポケットに。……王のポケットは、重いから。怖いの札も、重みのうちに」
アレクシスは札を受け取り、外套の内側に入れ、手を胸に当てた。
「怖いときは、言う」
「言葉にすれば、弱点になる」
「弱点は、手当てできる」
二人は笑った。笑いは短い。短い笑いは、長く残る。
「今日、教えたの」
セレスは話した。『未完棚』『質問札』『触診の順番』『輪の合図』。対話の最初の三枚の札。遠い未来の部品の作り方。アギルの眉の動き。角の柔らかい青年の指の震え。サラの、泣く子の指への糸のかけ方。橙の、鳴らない鈴を鳴らす胸の音。イーアンの、紙の角の整え方。ガルドの靴の底の静けさ。ダントンの杖の先のやさしい音。ルーメンの数字の縫い目。
「いい。——いい」
アレクシスは二度言った。言葉を重ねることを覚えた。重ねた言葉は布になる。布は薄く、しかし重ねれば強い。
「未完棚は、城にも作る」
「城の棚は、誰が守る?」
「俺が。……俺が守れない棚は、ルーメンが。ルーメンが守れない棚は、ガルドが。三人で守れない棚は、ダントンが笑って守る」
セレスが笑う。笑いは、診療室の湯気に似て、長持ちする。
「あなたは、ここにいる?」
「ここにいる」
短い返事。返事の数を増やすことも、彼は覚えた。返事は、呼吸に似る。呼吸は、恐怖を小さくする。恐怖が小さくなれば、夜は越せる。越せた夜は、未完の誓いの布を、もう一枚重ねられる。
セレスは、机の角から手を離した。代わりに、親指と人差し指で小さな輪を作る。合図。手を離さない。アレクシスが頷き、同じ輪を作る。輪と輪が、夜の空気の中で重なり、音もなく、約束の形を作る。
*
翌日から、療養所の朝はすこし形を変えた。『輪(わ)で始める朝礼』。誰かが昨日の未完を一つ読み上げ、別の誰かが手を挙げて、「私の未完にも似ている」と言う。誰も「責めない」。責める言葉の練習は、戦の担当に回せばいい。治療の担当は、言葉の練習を、支えるためだけに使う。
記録の用紙は、セレスが見やすく作り直した。人界の書式と魔界の書式を並べ、どちらにもない欄を足す。『怖』『輪』『未完』『棚』。語彙は、仕事道具だ。新しい仕事道具には、使い方の図がいる。図は、言葉より速く届く。速さは無礼ではない。礼儀正しい速さで、廊下を渡る。
午後には、小さな事件があった。過激な魔族の青年が、尾の付け根の湿疹に痒れ、看護人の女の袖を払った。女の顔に一瞬、怒りが走った。怒りの走りには、刃が立つ。セレスはその刃の前に、輪を出した。女は輪を見、青年は輪を真似、尾がほんの少し落ちた。落ちた尾の向こうで、ルーメンが紙を二枚、入れ替えた。入れ替えは、場の数字の正直さを取り戻す儀式だ。
夕方、セレスは、自分の診眼の鈍さをもう一度、測った。測るのは、自己嫌悪ではない。設計の確認だ。彼は『私の未完』の紙を、棚に貼る。『脈の高さの見落とし』『色の半音の喪失』『声の低音化』。隅に輪。輪の隣に、小さく、『教えることを選んだ』と書いた。選んだ、の後ろに、点を一つ。点は、終止ではない。休符。休符の間に、誰かの呼吸が入る。
アギルは、その紙の前で立ち止まり、しばらく、何も言わなかった。彼は、自分の中の言葉が、いま出るべきなのか、明日でいいのかを計る癖がある。計って、今夜は、輪だけを置いた。彼の輪は、不器用だ。だが、不器用な輪のほうが、強い夜がある。
*
城では、ダントンが、王に『未完棚』の設置を進言した。王は笑った。笑いは短く、しかし、石の壁に小さな釘の音を残した。
「棚は、城のどこに置く」
「食堂の柱の影が、よろしかろう」
「なぜ影だ」
「未完は、光に晒すと、乾きすぎる」
ルーメンは、棚の前で紙を一枚書いた。『言葉が足りず、兵を疲れさせた。数字で詰めすぎた。布の比喩を忘れた』。隅に輪。輪は、彼には似合わないようで、よく似合った。数字の人間の輪は、少し角ばっている。その角張りが、棚の板に心地よく引っかかる。
ガルドは、棚の端に『靴音の大きさ』と書いた紙を貼った。兵の靴音の大きさは、士気よりも、恐怖を増やす。恐怖の増減は、戦の数字には出ないが、療養所の数字に出る。戦と療養は、別の棚の上にある。棚を行き来できるのは、言葉だけだ。ガルドは、不器用な字で輪を描いた。輪は、甲冑の手には難しい。難しい輪は、長持ちする。
*
夜。療養所に、静かな騒ぎが起きた。人界の老人が、祈祷書の焦げた匂いを纏って運び込まれた。胸が早く、皮膚が灰にかぶれている。セレスは一歩、前に出た。次の一歩で、彼は若い医師に場所を譲った。
「アギル、君が前へ。——カードは『朝』『食』『眠』『怖』の順。触る場所を言ってから。尾はない。翼も角もない。——でも、彼には祈りがある。祈りは、皮膚の下の言葉だ。言葉を出してもらうには、輪だ」
アギルは頷き、膝をつき、老人の目の高さへ降りた。「今日は、どんな朝でした?」
老人の唇が動き、声が空気に触れて、少しだけ温まった。「鈴が、鳴らなかった。鳴らなかったのに、胸が鳴った」
「怖かったときはありました?」
老人は、異なる宗派の若者に問われて、ほんの少し躊躇った。その躊躇の間に、アギルは指を輪にし、老人の視界に持っていった。老人は戸惑い、しかし、輪を真似た。輪は、おおかたの宗派で、意味を奪わない。輪の合図は、そのまま「手を離さない」と伝わる。老人は、胸の音を語り始め、皮膚の下の焦げの言葉を吐き出した。吐き出された言葉は、布で受け止められ、記録にまとまり、薬の瓶の上に小さな印の形で乗った。
セレスは、アギルの肩越しに、脈を見る代わりに呼吸の数を見た。吸って、吐いて。吸って、吐いて。呼吸の数は、語彙が少ない場所での手がかりだ。息は嘘をつかない。心臓は、時々、会話に付き合う。肺は、いつも正直だ。正直さは、布に似ている。
処置が終わり、老人の胸の音が落ち着いた頃、セレスは、自分の指の腹にわずかな痺れを感じた。裏の手の代償。二度目は使わない。使わないと決めたから、怖い。怖いから、輪を作る。彼は、自分に輪を見せた。見せて、笑った。笑いは、夜のための薬だ。
*
夜更け、診療室で二人きりになったとき、セレスは、恐怖の札をポケットから出して机の上に置いた。札は軽い。軽いものは、薄く、強い。アレクシスは、札の隣に『輪』を置いた。輪は重ならない。重ねないほど、よく続く。
「今日、君は“医師”ではなく、“師”だった」
アレクシスが言った。
「どちらも“医師”に含まれている。漢字のなかに」
「そうか」
「そう」
沈黙。沈黙の中で、彼らは呼吸を一つ増やし、窓の外の鈴の影を見た。鳴らない鈴が、夜の端を守る。守り方を教えたのは、誰でもない。この城に集まった手々の、今日の合唱だ。
「……怖い」
セレスはもう一度、言った。言いながら、笑っていた。笑いながら、涙が少し出た。涙は、選択の痕跡だ。選んだほうへ、重さを置いた証拠。重さは、布の端に釘を打つ。
「失ったものの数ではなく、救った命の数で、おまえを数える」
アレクシスは、同じ言葉を、今夜は少しだけ違う温度で繰り返した。繰り返しは、旋律になる。旋律は、未完の誓いの上を渡る橋だ。
セレスは輪を作った。アレクシスも輪を作った。二つの輪が、重ならないまま、夜の空気の中に置かれる。置かれた輪は、約束のかたちであり、選択のかたちだ。手は離さない。けれど、掴みつづけるための距離を知る。距離は、礼だ。礼は、布だ。布は、傷の上に置く。
*
翌朝、未完棚の一番上に、新しい紙が貼られた。『王、言葉の訓練を怠った。午后の指示、長すぎた』。隅に輪。字は、彼にしては美しい。ルーメンが笑い、ガルドが肩をすくめ、ダントンが杖でそっと紙の端を押さえる。誰も責めない。誰も嘲らない。棚は、責めないためにある。嘲らないためにある。続けるためにある。
セレスは、指の腹で紙の端を撫で、医務室の椅子に座り直した。最初の患者が入ってくる。彼は問う。「今日は、どんな朝でした?」。輪を見せる。「怖かったら、こう」。指の腹は、昨日より、ほんの半拍早く脈を掴む。半拍。半拍は、大きい。彼は笑い、呼吸を数える。
一。二。三。
未完の誓いは、また一枚、薄い布を増やした。布は、戦を終わらせない。けれど、戦を遅らせる。遅れた戦は、別の名で呼べる。療養。生活。選択。代償。——それでも、続ける。
手は離さない。
輪は、合図であり、橋であり、棚の角でにじむ印だ。
今日も彼らは、輪を作り、失敗を置き、怖さを言葉にして、布を置く。
救う数で、互いを数える。
失った数は棚に置き、朝、温め直す。
そして城の空は、薄い光を持ち直し、鳴らない鈴が、鳴らない音で、今日のはじまりを告げた。
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