第17話 失われた村と“あの夜”の記憶

 朝の城は、よく手入れされた楽器のように鳴りはじめ、いつもの微かな和音を整えつつあった。渡り廊下には見張りの靴音が間隔を守って並び、帳場には羽根ペンの擦れる音、厨房からは鍋のやわらかな唸り。どれもが城の体温だ。だが、その音のひとつ――王の足取りだけが、今日は一拍ずれていた。


 アレクシスは、朝の巡視を半分で切り上げた。肩にかけた外套の重心がいつもより低く、襟の合わせ目に指がさりげなく触れては離れる。城の内側はそれを“疲労”と読み、近衛の目は“油断のない不調”と読み、セレスの目は“循環の乱れ”と読んだ。


 彼は医務室の戸口に立ち、いつものように一呼吸置かずに入ってきて、扉を背で閉じた。背で閉じるのは、誰にも見せたくない時の閉め方だ。外套を椅子の背に雑に置こうとして、途中でやめる。やめて、畳み直す。几帳面さではない。何かを均していないと、内側の水面が揺れ続けるから。


「どうしたの」


 セレスは湯を少し強めに沸かしていた。薄荷とラベンダーと、瘴気鎮めの根をほんの一ひとかけ。湯気は細く、しかし密度がある。彼女は杯を二つ出し、卓に置き、言葉を急がなかった。急がないことは、彼に対する技術である前に、彼女自身を支えるための技術だった。


「……うまく、回らない」


 アレクシスは額に手を当て、眉間を親指で短く押した。「瘴気が、今朝に限って、旧い道を通る。理屈ではない。身体が、昔の形に戻ろうとする」


「息は上がってる?」


「浅い。深く吸うと、匂いがする」


「何の匂い」


「灰。湿った布。子どもの泣き終わった後の、乾いた甘さ」


 セレスは頷き、彼の手をそっと払いのけて、額を自分の指で測った。熱はない。だが皮膚の表面に、安定した王の温度とは違う、細かく揺れる熱があった。震える炎が、芯だけで立っている感じ。


「座って。息を三つ捨てる」


 彼は言われた通りにした。息を“吸う”のではなく“捨てる”。捨て方は、胸骨の下で小さく、三つ。三つ目のあと、肺の底にわずかに空白が生まれる。空白は、音のない音だ。その音が、彼の目の焦点を一度戻す。


「昨夜、夢を見た」


「どんな」


「村がない。地図にあるのに、行ってもない。道があるのに、歩いても、ない。……見たことのない村なのに、知っている村だ」


 セレスは湯を差し出す。杯は熱すぎず、持てる温度。彼は唇を湿らせるだけで、喉へ落とさない。落とすと、何かが崩れる。そんな顔。


「“失われた村”だね」


「名があるのか」


「名はいつも、あとから付く。――話して」


 彼は黙って頷いた。頷きの角度は小さい。小さいのに、頷くまでに時間がかかる。時間がかかるのは、言葉を運ぶ通路が狭いからだ。狭い通路は、瘴気のせいではない。瘴気に形を借りた記憶のせいだ。


「……戦の初め頃だ。俺は、まだ“王候補”という曖昧な名札を貼られた、動物に近い生き物で、闇を測るために闇の中にいた。人界の境へ出て、戻るはずの手順を、戻らなかった。帰路がないのではない。帰る、という意志が外へ出てしまって、身体の中にいなかった」


「夜だった?」


「夜だ。雨は降っていないのに、石は濡れていて、風の方向が定まらない夜。遠くで鐘が鳴った……いや、あれは鐘ではないな。修道院の鈴のような音。細い。腹に落ちない音だ」


「孤児院が近い」


 セレスの声が、ごくわずか細くなる。彼女の内にも似た音があったのだ。


「門が開いていた。開けたのではなく、叩かれすぎて、閉められなくなった扉。光は弱い。弱くても出ている。そこで――」


 彼は言葉の前に目を閉じ、指先で自分の手の甲をなぞった。古い傷の位置を、地図をなぞるみたいに辿る。瘢痕は薄いが、確かにある。関節の外側に、ナイフではない、硬い床で皮を剝いた痕。


「……少年が倒れていた。俺より幼い。種族は混じっている。角ではない、耳の縁の硬さが魔族の領分で、色は人の側。血は出ていない。目が空洞で、喉が獣で、手が、何かを掴もうとしているのに、空気しか掴めない手だった」


「誰かが、そこへ行った」


「影のような治癒師が来た。顔は見えない。瘴気は匂いと光を食う。覚えているのは、手だけだ。薄い傷だらけの指で、少年の口元を押さえ、胸骨の中央を、数えて押した。数え方が、俺たちの教本と違う。『一、二、三』のあとに、必ず、『ここにいる』と囁いた」


 セレスの胸の内側で、何かがはっきりと噛み合う音がした。噛み合う音は外には出ない。骨伝いに、彼女の背へ落ちるだけ。


「それから、息を入れた。息の入れ方が、粗くない。口ではなく、鼻を起こし、喉を開く角度にして、胸が少しだけ上がるのを確かめてから、次の息を待つ。待てる人だ。……あの夜の俺には、待てるという技術がなかった」


「待てない夜だもの」


「その治癒師は、俺のほうを見もしなかった。俺は、縄の端を握っていた。自分の首に巻いた縄の端だ。戻れなくなったら、引けと言って、渡した相手の手で、その縄が俺の喉に回っていた。引けば、締まる。締まれば、戻るか、死ぬか、どちらかだ。……引けなかった。引く代わりに、その治癒師の手だけを、目で追っていた」


 彼は言葉の途中で、軽く息を呑んだ。呑む息が喉に引っかかる。セレスは杯を押し出す。彼はやっと、喉へ一口落とした。薄荷が小さく広がり、胸骨の前で透明な膜になる。


「少年は戻った。戻って、泣いた。泣きながら、俺の袖を掴んだ。俺は獣で、袖を振り払った。振り払ってから、少年が泣くのをやめるまで、耳がきちんと音を拾った。……あの夜の記憶が、今朝、いきなり身体の中で、胎児みたいに丸まって動き出した」


 セレスは静かに卓の端を撫でた。木の目はそこに座した人の声を吸う。彼女はその木に、過去の自分の吐息が染み込んでいないか確かめたくなった。染み込んでいない。けれど、医務室の空気に、その夜の湿りが現れているのは確かだ。


「“失われた村”というのはね」彼女はゆっくり言った。「地図に載っているのに、行けない場所のことでもあるけれど、もう一つ、いま言ったみたいな、身体の中の行けない場所のことを指すの。そこに、道があったという記憶だけが残っている」


「行くには?」


「名前を呼ぶ。誰かに。自分に」


 アレクシスはうなずき、掌を見た。掌の皮膚は短い傷で地図のようだった。王になってから得た傷より、王になる前のほうが雑で多い。


「その治癒師を、探したことがある。探したが、名を告げなかったから、探せなかった。呆れるほどの期間、探した。……今日、ここへ来る途中、廊下で、壁の絵が目に入った。『痛い』『水』『家族』――『ありがとう』。意匠が、見覚えに近くて、そこから、息が乱れた」


「『絵の板』は、最近作った。療養所のために」


「ああ。だが、図案の描き方が似ていた。あの夜の孤児院に掛かっていた板と」


 セレスは目を伏せた。視線の奥に、ある夜の細い光が開く。扉の隙間から漏れる油灯、濡れた石段、息の白。孤児院の古い院長は、寝衣の上に分厚い外套を羽織り、背筋を伸ばしたまま震えていた。彼女は修行の最後の年にそこへ派遣され、寝泊まりし、近隣の村を回っていた。


「……話していい?」


「おまえのほうが先に知っている夜なのだろう」


「断片でしかない。けど」


 セレスは、ゆっくり過去の引き出しを開ける。開ける音はしない。中の布がこすれる音が、耳鳴りのように薄く続く。


「“あの夜”、孤児院の前で倒れていたのは、魔族の少年だった。私は人界の修行で、どっちの怪我にも応急処置をする訓練を受けていた。院の鈴が鳴って、飛び出したら、獣みたいな息の音がして、少年の胸が沈んでいた。脈は浅く、眼球の光は奥で沈んでて、皮膚が灰色で……。胸骨の中央に手を置いて、数える。数えるたびに『ここにいる』って言ったのは、私が怖かったから」


「怖かった?」


「うまくいかない予感が強かった。ああいう夜は、手の中で良くない未来が暴れる。だから、私の耳に向かって言ってた。『ここにいる』って。ここに、私が。ここに、あなたが。――それから鼻を起こして、喉を開けて、少しずつ息を入れて。待つ。待つのが、いちばん難しいから、待つあいだ、私は少年の耳たぶを指で挟んで、冷たさが少し変わるのを数えてた。変わらなかったら、泣くところだった」


「変わった」


「変わった。だから、私も泣きそうになって、でも泣く前に院長の杖が倒れて、その音で現実に戻された。――そのあと、誰かがいた。闇のほうから来て、暗いのに目だけが正確に動いて、袖に縄の痕があって、縄の端を握ってて、喉の奥で獣の音を鳴らしながら、人間の目をしてた」


 アレクシスの喉が震えた。震えは、音になる前の動作だ。


「その人が、少年の手を掴んで、袖を振り払った。振り払ったあと、自分の手を、焼ける針を持つみたいに握ってた」


 セレスは彼の掌を取った。迷いのない動作。手はやや大きく、節は硬く、掌の皮は分厚い。彼女の指が、彼の人差し指の中節に触れる。そこに――微かな段差。骨折の旧跡。彼女が自分の親指でなだめる。


「ねえ、アレクシス」


 呼びかける声は、水を置くときの声だ。彼は目を細める。細めた瞬間、眼窩の奥で別の夜が揺れる。


「あなたの人差し指、中節の古傷、あるでしょう。斜めに入ってる。力を込めると、そこだけ皮膚の色が変わる。――夜の治癒師は、少年の胸骨を押すとき、その指を避ける持ち方をしてた。自分の指を庇う癖。私にもある。同じ癖」


 彼の肩が、呼吸とともに小さく上下した。否定の動きではない。否定なら、肩は上がらない。上がらずに固まる。彼の肩は、固まらず、わずかに沈んで、戻った。


「包帯の巻き癖も、同じだった。現場用の早巻きじゃなくて、最終の固定を半回分だけ余らせて、ふくらはぎの形に合わせて斜めに落とす巻き方。あなたの兵の包帯を私がよく解くけど、あなたが巻いたものは、必ず一枚、斜行ができてる。それ、私が教わった“片手でもできる巻き方”と同じもの」


 アレクシスは目をそらさず、言葉を待っていた。待てるようになっていた。今朝ここに来た彼とは、もう違う呼吸で座っている。


「香草の混ぜ方も。あの夜、私は薄荷とラベンダーに、瘴気鎮めの根をほんの少しだけ入れた。院の倉の奥から見つけた古い根。粉にする前に、一度、手のひらで温める。温めると香りが立つ。あなたの外套、今でもふと、季節外れにあの香りがする。外套はしょっちゅう換えてるのに、香りは残る」


 彼はそこで、ゆるく笑った。笑いは短く、剥き出しの心臓に布をかける仕草のようだった。


「……おまえか」


「私かもしれない。私じゃないかもしれない。だけど、私の手の中には、あの夜の少年の肌の温度が、まだいる。あなたの目の中には、あの夜の“獣の音を鳴らした人の目”が、いる。違う夜を共有していても、同じ夜を抱えてる」


 医務室の窓の外で、風が一度だけ向きを変えた。旗の端がわずかに鳴る。廊下の遠くで、ルーメンの咳払いが一つ、小さく転がり、すぐに消えた。彼は扉の向こうにいない。今日はここへ来ない、と空気が言っていた。彼は、留守にするという仕事を選んだのだ。


「……俺は、あの夜、泣いていたのか」


 アレクシスが誰にともなく問う。問いの重さは軽い。軽い石を水に落としたときの波紋の広がりが、胸の奥に広がる。


 セレスは頷いた。頷きは、ゆっくり。「泣いていた。獣の音と、人の泣き声は、似ているけど、違う。獣の音は、そこに誰もいないときの音。人の泣き声は、誰かがいるときの音。あの夜のあなたは、泣いていた。人として」


 短剣で刺されたわけでも、骨が折れたわけでもないのに、彼の胸から音が出た。嗚咽。王としてではない、人としての嗚咽。喉の奥で硬いものが砕け、砕けたものが水に溶けるときの音だ。泣くとき、人は肺で泣く。彼の肩が、肺の前で正直に震え、目頭が仕事をして、鼻梁が赤くなり、唇の端が上がろうと下がろうと迷う。


 セレスは席を立ち、彼の前に回り、何も言わずに、片手を彼の胸骨の上に置いた。置く。押さない。計らない。そこにいる、の合図。彼女の掌は小さな熱を持ち、その熱が布を通して、彼の骨へ落ちる。骨は熱を覚える。覚えた熱は、後で、ひとりの夜に役に立つ。


 嗚咽は長くなかった。長さが必要ではない。必要なのは、音そのものだ。音が出れば、それは“ここにいる”の証明になる。彼はやがて、鼻で短く息を吸い、涙の筋を拭わずに、笑った。涙を拭うと、決闘が終わる合図みたいに思えて、拭わなかったのかもしれない。


「“置き水”、……使い方を覚えた」


「良かった」


「俺は、ずいぶん長いあいだ、探していた。名のない治癒師を。見つけたかったのは、礼を言うためだと思っていた。違うな。見つけたかったのは、“あの夜の俺”の在処だ」


「見つかった?」


「見つかった。ここにいる」


 彼は自分の胸を、指で軽く叩いた。叩くのは、呼ぶための音。叩かれた骨が、内側で返事をする。返事は誰にも聞こえないが、当人には確かだ。


「もう少し、話していい?」セレスが訊く。


「話してくれ」


「“失われた村”の話の続き。――あの孤児院は、次の年の冬、戦火で消えた。地図からも、現実からも。院長は生き延びて、別の村で、また扉を開けていた。あなたを泣かせた夜の鈴は、別の扉で、まだ鳴ってる。鳴ってる音は、届かない人のほうが多い。でも、届いた人がいた夜があって、それで、扉は開け続けられる」


「……扉は、閉じない」


「閉じない。閉じると、叩き割られる。開けておけば、歩いて入ってくる」


「おまえは、いつも、開けているな」


「怖いから。閉じたときに、内側で誰かが苦しくなるのが、怖いから」


 彼は首を振って笑い、目尻の水を指で払った。払う指が、今度は躊躇しない。払うというのは、次に見るための動作だ。


「俺は、あの夜の“治癒師”に、名を訊かなかった。訊けなかった。訊いたら、弱くなると思った。弱くなったほうが、強い夜もあるのだな」


「あるよ。弱くなると、手が空く。空いた手に、何かを持てる」


「何を」


「誰か」


 言葉は、針ではなく布のほうだった。布は、裂け目の上に置く。いきなり針を刺すと、皮膚が拒否する。布を先に。布が温まってから。


 ふと、廊下の向こうで、足音が一つ止まり、すぐに離れた。ルーメンではない。ガルドだ。彼は扉を叩かず、叩かずに去ることを選ぶ男だ。今日も、留守番を選んだ。王の嗚咽を、壁越しに守るために。


「……ありがとう」アレクシスが言った。「礼を言う相手が、ようやく見つかった。だが、礼は、一度では足りない」


「一度ずつでいい。毎回、新しい夜になるから」


 セレスは湯を温め直し、彼の杯にもう一口分、落とした。湯気が少し濃くなる。濃い湯気は、言葉の出口に薄い膜を張り、出口が荒れないよう守る。


「今日の仕事は?」


「続けること」


 彼は微笑み、朝と同じ言葉を自分の口で繰り返した。だが、中身はもう違う。続けることは、ただ持ちこたえることではない。続けるために、いったん崩すことも含まれている。崩して、繕って、また続ける。それを、彼は学んだ。


「……もうひとつ、確認していいか」


「どうぞ」


「“あの夜の治癒師”は、俺の袖を振り払った俺に、何か言ったか」


 セレスは小さく笑った。笑いは、記憶の浅瀬に足を入れるときの合図だ。


「言った。言ってないこともある。言葉は、喉の高さで変わるから。――『ここにいる』って、私が言ったのに、あなたは私に向かって『戻ってこい』って言った。自分に言ったのかもしれない。少年に言ったのかもしれない。私に言ったのかもしれない。全部かもしれない」


「全部、だな」


「うん。全部」


 彼は立ち上がった。立ち上がり方が、朝より自然だ。外套の重心が正しい位置へ戻り、襟の合わせ目を指で弾く癖が消える。消えたのではなく、必要なくなったのだ。


「今日、寝所の窓をひとつ開ける。空気を入れ替える。黒檀の物語は、まだ終わっていない。終わっていなくても、空気は換えられる」


「窓は、半分だけ」


「風が強いから?」


「風が弱いから。弱い風のときに全開にすると、旗が元に戻れない」


「なるほど」


 扉に手をかけ、彼は振り返った。振り返り方が、王の礼式から離れていた。人のやり方で、肩だけを少し戻す。


「今夜、“置き水”はいらないかもしれない」


「いらないかもしれない夜にこそ、置いておく」


「そうか」


「そうだよ」


 扉が静かに閉じた。閉じる音は、午前より軽い。軽い音は、長く残らない。残らない音がいい日もある。


 セレスは机に戻り、名簿を開いた。新しい仮名――「霞(かすみ)」を書き足す。昨日、名前を思い出せなかった少女だ。午後には、本名が戻るかもしれない。戻らないかもしれない。戻らなくても、呼べる名がある。呼べる名がある限り、道は切れない。


 そして、机の隅に、短い紙片を置く。彼女自身のために。


——『ここにいる』


 紙片は、誰にも見せない。見せないけれど、そこに在るという事実が、扉を内側から支える。外の廊下では、ガルドの足音が戻り、遠くでルーメンが誰かと笑い、療養所のほう角に吊られた鈴が、風の見舞いで一度だけ鳴った。


 午後。彼女は療養所へ向かい、壁の板に新しい絵を一つ足した。「戻る」。矢印は円を描き、端と端が繋がる。指差せば、通じる。イーアンがそれを見上げ、微笑し、アグリが「きれいな丸ね」と呟いた。丸は帰還の印。線は終わりの印。二つが並ぶと、地図になる。


 夕刻、アレクシスは寝所の窓を半分だけ開け、外套を椅子に置き、机の引き出しから紙を取り出し、言葉を短く書いた。


——『あの夜の治癒師へ ありがとう。あの夜の俺へ 戻ってこい』


 紙を畳み、窓辺に置く。風が弱く、紙は動かない。動かない紙が、目印になる。夜、人が眠る前に見る目印。


 夜はまた来る。来るたびに、失われた村は、すこしずつ地図へ戻る。完全には戻らない。戻らない部分が、影を作る。影は休むためにある。休めば、歩ける。歩けば、いつか、名を呼べる。


 セレスは湯を沸かし、窓辺に茶碗を置いた。湯気は細く、長い。音はないが、湯気は合図だ。合図が、扉の向こうの誰かに届く。届いたら、返事をしなくてもいい。ただ、ここにいる、と胸で言えば、それでいい。


 “あの夜”は、もう、ただの夜ではない。繋がった夜だ。

 失われた村は、もう、ただの地名ではない。戻る場所だ。


 そして彼らは、王として、人として、治癒師として、つづける。

 火ではなく、湯で。刃ではなく、名で。

 叫びではなく、嗚咽で。嗚咽は、終わりではない。始まりだ。

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