砂に刻まれた名前

僧院の木戸をくぐると、夕べの祈りがはじまっていた。香の煙が白く折れ、修道士たちの低い詠唱が土壁に沿って回り込んでくる。わたしは最後尾に立ったまま、口を開かなかった。さっきヨハネスが言った「眠りは小さな死だ」という言葉が、舌の下で砂の粒みたいに転がっていたからだ。


祈りの合間、彼らは亡くなった者の名を読み上げる。古いコプト語に混じって、よく知る発音がひとつ混ざった。


「トマス」


わたしは肩をすくめた。読まれる名はときに、ふたたび呼び起こすためではなく、ふたたび沈めるためにある。洞窟で会った彼は、笑い方まで以前と同じだった。だがヨハネスは「墓場だ」といった。ならば、同じはずがない。


祈りが終わると、ヨハネスは大皿に並んだ乾いたパンと塩を指差した。「旅人は砂を食うことはできない。代わりに、これを」。冗談めかした口ぶりの奥で、彼は目だけでわたしを見張っているようだった。パンを口に運ぶと、舌にほとんど味がなかった。しばらく噛み砕いていると、奥歯に小さな硬いものが当たる。吐き出すと、それは椰棗の種だった。洞窟でトマスが手渡した紙袋の中身と同じだ。袋など持ち帰らなかったはずなのに、いつのまにかコートのポケットに、乾いた甘さの匂いが移っていた。


夜半、僧院の鐘がひと打ち鳴ると、砂漠の寒さが一段深くなった。外に出ると、星の数が多すぎて空の暗さが薄れている。砂の道は僧院から黒い丘の方角へ伸びていた。わたしは足を置くたび、砂がわずかに鳴くのを聞いた。誰かの足音が後ろに続く。振り向くと、ヨハネスが立っていた。


「どこへ行くのです」


「少し、風に当たりに」


「風に当たりたければ、壁の内側でも当たる。外は、眠りの方が濃い」


それでも、と言いかけたとき、丘の稜線に影が立った。手を振る。合図を返す細い影。胸が温かくなった。トマスは生前、遠くからでも背の線でわかる男だった。わたしはヨハネスを置き去りにして、影の方へ歩き出した。砂がさっ、と鳴る。背後で、ヨハネスが祈りの一句を短く唱えた。


洞窟は昼間より浅く見えた。月の光で、入口の縁が骨のように白んでいる。中に入ると、空気はひどく乾いているのに湿った匂いがした。トマスがどこからともなく現れて、手招きした。


「遅かったね。時間の感覚は、ここでは役に立たないけれど」


「ヨハネスは、ここは墓場だと言った」


「そう、墓場だよ。だから、安心できる」


トマスは、洞窟の奥を指した。壁に浅い窪みが並んでいる。ひとつひとつが寝台のようで、薄い布が掛けられている。布の下には誰もいないように見えた。彼は窪みのひとつに腰をおろし、わたしの方に空いた場所を示した。


「君は、ここで少し眠るといい」


「眠ったら、起きられない気がする」


「起きなくていい眠りもある。小さな死が重なって、大きな死をあまり怖がらなくて済む」


言葉を交わすうち、トマスの声が洞窟の石に吸われ、ずいぶん遠くから聞こえるようになった。わたしは窪みに手を触れた。冷たくはなかった。砂の色をした石は、長い時間、人の体温を忘れないのだろう。布をたくし上げると、下に古い木札が置いてあるのが見えた。木札には釘の先のようなもので名が刻まれていた。


――アシース・ヤマガタ


わたしは目を伏せた。ヨハネスがわたしを呼ぶときの妙な発音。あれは、わたしに与えられた修道名だったのか。いつ、誰が。胸の底に、ひやりとした水がしみ込んでくる感じがした。指先の皮が乾いて、木札のざらりがよくわかる。刻まれた線に指を沿わせると、さっきから感じていた「味のなさ」が、舌ではなく指の腹にまで広がっていく。


「君、ここを訪ねたのは初めてじゃないよ」


トマスが笑った。笑うと目尻に皺が寄るはずなのに、そこは影になって見えなかった。


「昼間、あそこで会ったとき、君は砂の上に自分の影が落ちていないことに気づいていた。気づいて、見ないふりをした」


わたしは息を吸い込もうとしたが、吸い込むべき空気の重さがわからなかった。代わりに、遠くで鐘が鳴った気がした。僧院の鐘か、それとも骨の中で鳴る小さな鐘か。


「ヨハネスは、こういう時、うまく導く。彼は生者と死者の両方に礼儀正しい。君の名を呼ぶとき、彼はいつも二度呼ぶ。ひとつはここで、ひとつは外で」


トマスは自分の木札を示した。その表面は指の油で黒光りしている。わたしの木札は乾いたままだった。


「ここでは、眠り方を学ぶ。砂漠は昼も夜も眠っている。目を開けたまま」


わたしは立ち上がろうとした。だが膝がわずかに遅れて動いた。身体が、土壁と同じ材料でできているかのように重い。入口の方に目をやる。誰かが立っている。ヨハネスだ。手には細長い布を持っていた。布は白く、縁だけが光にほどけるみたいに薄い。


「アシース・ヤマガタ」


彼はやはり二度、名を呼んだ。わたしは返事をしたつもりだったが、洞窟は音を飲み込んでしまった。


「これを肩に。夜は冷える」


ヨハネスは布をわたしの肩にかけた。布は軽いのに、かけられた場所から体温が抜けていく。布の端に、小さな結び目がひとつあった。わたしはそれを指でほどこうとした。ほどけない。結び目は、ほどくより早く、砂に埋まっていくようだった。


「眠りましょう」


彼はそう言って、わたしの木札を布の端にくくりつけた。わたしは抵抗しなかった。抵抗する理由が思い出せなかった。布の匂いは、僧院の礼拝堂と同じ香の匂いがしたが、もっと薄く、ほとんど記憶だけで嗅いでいるようだった。


「トマスは――」


言い終える前に、トマスの姿が遠くなった。彼は「また明日」と言った。明日は来るのだろうか、と考えるのが急におかしくなって、わたしは笑った。笑うと、砂がわたしの口の中で小さく鳴った。


その夜、僧院では遅くにもう一度、短い祈りが捧げられたという。夜番の若い修道士は、遠くの丘から誰かが戻ってくる影を見たと証言した。影はひとつきりで、門の前まで来ると消えた。砂の上には足跡が片道分しか残っていなかったから、皆、不思議がった。


翌朝、祈りの席で、ヨハネスは亡き者の名を読み上げた。古くからの名に続けて、聞き慣れない名をひとつ、慎重に発音した。


「アシース・ヤマガタ」


彼は二度、ゆっくりと呼んだ。そのたびに、壁の土がわずかに鳴いた。旅人用の小部屋には、折り畳まれたコートと、砂で重くなったノートが残されていた。ノートの最終ページには、拙いコプト文字で同じ名が練習帳のようにいくつも書かれている。筆圧はどれも弱く、ところどころ、砂の粒が線の間に入り込んでいた。


洞窟の奥では、薄い布がひとつ、結び目を内側に向けて静かに置かれている。布の下の石は、長い時間、人の体温を忘れない。砂漠の風が入口を撫でるたび、布はかすかに鳴いて、眠りの方へ、眠りの方へと、音のない合図を送るのだった。

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