第36話 猫じゃないニャ!
「悪くない酒だ……。」
レイモンドさんはテーブルの上にあったワインボトルをつかむと、そのまま口をつけてラッパ飲みした。
ごくごくと喉を鳴らし、ひと息ついたあと、眉間に皺を寄せながら深緑色の瓶をじっと見つめている。
私はお酒を飲まない。
この世界では15歳を過ぎれば成人扱いだけど、興味本位で一度だけ口にしたきりだ。どうしても美味しいと思えなかった。
「意外なくらい良い暮らししてますね?」
室内をぐるりと見渡して、思わず口にする。
人里を遠く離れた盗賊たちのアジトだから、もっと荒れ果てた粗末な場所を想像していたのに、ここはまるで普通の村の家と変わらない。
いや、今まで訪れてきた村々より裕福さを少し感じる。
家々に水路が引かれて、水洗トイレと浴場を備え付けられている。家具も立派で、掃除が行き届いていた。
もっとも、その掃除も、調理も、洗濯も。結局は捕らえられた女性たちがやらされていたのだけれど。
「見ろ」
「ええっと……。そのジョッキが何か?」
レイモンドさんはテーブルの上に置かれていたジョッキを取り上げ、私の目の前に突き出してきた。
けれど、私の目には、それはレイモンドさんがさっき飲んでいたワインを、この家の盗賊がただ使っていただけの、ありふれた木のカップにしか見えない。
「分からんか? よく出来ていて、新しいだろ?」
「はぁ……。」
正直、違いなんて、やっぱり私にはよく分からない。
でも、レイモンドさんが身の回りの品から建物まで品質の良し悪しに詳しいのは知っている。
だから、レイモンドさんがそう言うなら、きっと間違いないのだろう。
「特注でもない限り、商人はこういった生活雑貨は運ばん。元職人がいるのだろうな」
「じゃあ、家具も?」
「南の菜園もだ。元農夫がいる。
これがどういう意味か、分かるか?」
「えっと……。実はエキスパート集団?」
私は頭を捻ってみたけれど、他にうまい答えは浮かばなかった。
その答えを聞いて、レイモンドさんは鼻で笑った。
「違う。手に職をもち、真っ当に生きられたのに、あえて楽な道に流れたということだ」
その言葉に胸がちくりと刺さり、私は思わず黙り込んでしまった。
何となくレイモンドさんが言いたいことが分かった気がする。
滑稽で、けれど残酷な、あの鬼ごっこ。
疲れ果てた盗賊たちの脱落者が次々と出始めた頃、私は思い切ってレイモンドさんに降伏勧告を提案した。
そして、レイモンドさんはそれを渋々ながら受け入れてくれた。
でも、降伏条件には、きっちりと『貯めこんだ財貨をすべて差し出せ』という一声が添えられていた。
当然、私は反対した。
『盗賊たちとそのアジトの件は冒険者ギルドに報告して、その沙汰に任せるべきだ』と強く訴えたけれど、レイモンドさんは聞く耳をもってくれなかった。
言うまでもなく、盗賊たちのボスや幹部連中は『冗談じゃない!』と叫んで徹底抗戦を訴えた。
けれど、下っ端たちが次々に降伏していくと、最後には彼らも観念して頭を垂れるしかなかった。
今では、盗賊たちは降伏の証としてパンツ一枚にされ、デスナイトやスケルトンたちの監視のもと、貯め込んだ財貨をアジト中央の広場へと運んでいる最中だった。
その間、私とレイモンドさんは、捕らえられている人たちを探すために、アジトの家々を一軒ずつ確認して回っていた。
「ふん! 次に行くぞ!」
「はい……。」
短く返事をしたけれど、胸の奥はまだざわついていた。
家を出ていくレイモンドさんの背中を追いながら、私は視線を落とし、トボトボとついていった。
「んっ!? この小屋だけ閂が……。怪しいな。おい、やれ!」
「はい……。」
隣の家というより小屋の前に立つと、レイモンドさんに呼ばれた。
私は剣を抜き、扉を閉めていた閂を一気に断ち切る。
「くっくっ……。ここは宝物庫に違いない!」
扉の前で立ち止まっていた私を、レイモンドさんがぐいと押しのける。
嬉々として両開きの扉を引き開けたその瞬間。
「むあっはっ!?」
「ニャ?」
レイモンドさんは顔を大きく仰け反らせて、素早く一歩後ろへ引いた。
その勢いのまま、バタンと大きな音を立てながら扉を閉めた。
「ど、どうしたんですかっ!?」
普段なら絶対に見せない狼狽ぶりに、私は思わず息を呑む。
あのレイモンドさんがこんなに動揺するなんて、まさか扉の向こうには惨い光景が広がっていたのだろうか。
「こ、ここは止めだ。ね、猫が……。よ、用を足している」
「猫? にゃんこ? 私にも見せて下さい!」
「ば、馬鹿! や、止めろ!」
今度は、私がレイモンドさんを押しのける番だった。
勢いよく扉に手をかけ、一気に引き開ける。
「キャっ!?」
「ニャ?」
悪臭の壁が、真正面から私に襲ってきた。
扉を閉める余裕もなく、思わず十歩ほど駆け離れる。
「臭っ!? 臭あっ!? ……ごほっ!? ごほっ!? へくちんっ!?」
だけど、鼻の奥に焼きつくような臭いがへばりつき、涙がにじむ。
咳き込み、ついにはくしゃみまで飛び出した。
「ち、違うニャ……。ち、違わないけど、違うニャ!
それにニャーは虎ニャ! 猫なんかじゃないニャ! ニャニャニャニャーーーーーーっ!」
肩を震わせ、涙をポロポロとこぼしながら、汚物まみれの『何か』が這い出してきた。
その嫌悪感しかない姿に、背筋をぞわりと悪寒が走る。
「何が猫ですか!」
「ニャーニャー言っとるだろうが!」
「ニャーー! 待つニャーー!」
私とレイモンドさんは顔を見合わせ、即座に全力で逃げ出した。
でも、臭いはまだ鼻に残っていた。
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