異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~
九泉
プロローグ
第1話 黄昏のシーカー
コンクリートと黴の匂いが混じり合う独特の空気が、神谷蒼介の肺を満たしていた。
ここは東京第二ダンジョン「旧都庁地下」の第7層。蛍光灯の名残のような発光性の苔が、湿った壁をまだらに照らすだけの薄暗い世界だ。かつては巨大都市のインフラだった通路は見る影もなく崩れ、今では低級モンスターの巣窟と化している。
(……三匹。右手前方、瓦礫の影に二匹。左手の通路の曲がり角に一匹)
蒼介は息を殺し、崩れた柱の影に身を潜めていた。目を閉じれば、脳内に直接、周囲の立体的な地図が描かれる。生命反応を示す赤い光点が、彼の意識の中で明滅していた。体内に巡るナノマシンが生み出すスキル、【
赤い光点が示すのは小鬼。この階層の主戦力であり、知性は低いが群れでの連携を得意とする厄介なモンスターだ。一体一体はEランクシーカーでも対処できる雑魚だが、数で押されると格上でも足をすくわれる。
蒼介は腰に提げたショートソードの柄を、使い慣れた手つきで静かに握りしめた。彼のランクは
彼の武器は、徹底した状況分析と、最小のリスクで最大の結果を得るための知恵。そして、ここぞという瞬間にすべてを賭ける覚悟だけだ。
(まず、左の一匹を潰す)
蒼介は足元の小石を一つ拾うと、右手側の通路の奥、暗がりへと力任せに投げつけた。カラン、と乾いた音が響き渡り、瓦礫の影に潜んでいた二匹の小鬼が即座に反応する。ギィ、と警戒音を発し、音のした方へ注意を向けた。
その隙は、ほんの一瞬。
蒼介は地面を蹴った。スキル、【
ナノマシンが神経伝達を強制的に加速させ、彼の体感時間を引き延ばす。周囲の景色がスローモーションのように流れ、小鬼たちの鈍重な動きが手に取るように分かった。心臓が早鐘を打ち、筋肉がきしみを上げる。この超高速行動が可能になるのは、わずか数秒。代償として訪れる急激な疲労は、使いどころを間違えれば命取りになる。
蒼介は引き延ばされた時間の中を駆け抜け、左手の通路の角に潜む小鬼の背後を取った。警戒心のすべてを仲間が反応した物音に向けていた小鬼は、背後に迫る死の気配に気づくことすらなかった。
刃が肉を断つ鈍い感触。苦鳴を上げる間もなく、小鬼は崩れ落ちた。蒼介は即座にその死体から魔石を抉り出すと、止まることなく反転し、残る二匹へと向かう。
「ギィッ!?」
ようやく仲間の死と侵入者に気づいた小鬼が、錆びた剣を振りかぶる。だが、すでに遅い。蒼介は一体目の小鬼の懐に潜り込むと同時に、その体を盾にして二匹目の攻撃を防いだ。骨を砕く衝撃が、盾にした小鬼の体を通して伝わる。
蒼介は眉一つ動かさず、盾にした小鬼の心臓部へ、背後からショートソードを突き立てた。そしてそのまま、渾身の力で体を押し出す。
「ギ、ギギ……」
二匹目の小鬼は、仲間の体ごと串刺しにされた蒼介の剣を見て、怯えの声を漏らした。その瞳に映る恐怖を真正面から見据えながら、蒼介は冷静に剣を引き抜く。噴き出した血が彼の頬を汚したが、気にする素振りも見せない。
最後の一匹が恐慌状態に陥り、背を向けて逃げ出そうとする。蒼介はその背中に、腰のホルダーから引き抜いたコンバットナイフを正確に投げつけた。短い悲鳴を上げて小鬼が前のめりに倒れる。
静寂が戻った通路に、荒い呼吸の音だけが響いた。蒼介はゆっくりと歩み寄り、残りの魔石を手際よく回収すると、ふぅ、と短く息を吐いた。ナノマシンの《自己修復》機能が、戦闘で負った浅い切り傷や打撲を、かすかな痒みと共に癒していく。これもまた、シーカーであることの恩恵の一つだった。
(今日のノルマは達成、か)
これ以上深追いする気はない。深層へ行けばより等級の高い魔石が手に入るが、その分リスクも跳ね上がる。彼は常に自分の実力とリスクを天秤にかけ、決して無理のない範囲で稼ぐことを信条としていた。上昇志向という言葉は、彼の辞書にはない。
ダンジョンの出口ゲートを抜けると、東京の喧騒と湿った夏の空気が蒼介を迎えた。夕暮れのオレンジ色の光が、高層ビル群のガラス窓に反射してきらめいている。ダンジョン内部の無機質な静寂とのギャップに、彼はいつも少しだけ眩暈を覚えた。
シーカー協会の支部ビルへ向かい、受付カウンターに回収した魔石を無造作に広げる。
「本日の換金、お願いします」
職員は手慣れた様子で魔石を鑑定機に乗せ、表示された金額を端末に打ち込んでいく。
「神谷蒼介さん、B-ランクですね。本日は合計で18万4千円になります」
「どうも」
電子マネーカードに金額がチャージされるのを確認し、蒼介は軽く会釈してカウンターを離れた。ロビーでは、高揚した顔の若いシーカーたちが今日の武勇伝を語り合っている。新種のモンスターが出ただの、Aランクの誰それが何層を突破しただの、そんな話題には少しも心が動かなかった。
(これで家賃と食費、次の装備メンテナンス代は確保できたな)
彼の思考は、常に現実的で、地に足が着いている。大金を手にして豪遊するわけでもなく、ただ、明日を生きるための糧を得る。それが彼のシーカーとしての日常だった。
帰路、雑踏に紛れて歩く。行き交う人々は、彼がほんの数十分前までモンスターと死闘を繰り広げていたことなど知る由もない。普通の会社員と何ら変わらないその姿は、完全に都会の風景に溶け込んでいた。だが、蒼介自身は、自分がこの社会から少しだけ浮き上がった存在であることを自覚している。一般人ではない。しかし、トップランカーのような特別な存在でもない。中途半端な境界線の上を、ただ歩き続けている。
彼が住んでいるのは、都心から少し離れた私鉄沿線の、築30年を越える古びたアパートだった。オートロックもエレベーターもない、階段を上るたびに軋む音がするような場所だ。
鍵を開けて部屋に入ると、がらんとしたワンルームが彼を迎えた。必要最低限の家具しかなく、生活感は希薄だ。戦闘で汚れたタクティカルスーツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。熱い湯が、体の芯に残った緊張をゆっくりと解きほぐしていくようだった。
シャワーから上がると、コンビニで買ってきた弁当を電子レンジで温める。テレビをつけると、ちょうどダンジョン関連のニュースが流れていた。
『……本日未明、新たに東京湾に出現したダンジョン、『エリア・アクア』の攻略に、Sランクシーカーの『雷帝』が名乗りを上げ、大きな注目が集まっています……』
華々しい活躍を見せるトップランカーの姿を、蒼介は感情の映らない瞳で眺めていた。羨望も、嫉妬もない。まるで、違う世界の出来事を見ているかのようだ。
「すごいねぇ……」
他人事のように呟き、彼は黙々と箸を進めた。
食事を終え、空になった容器をゴミ箱に捨てる。やるべきことは、もう何もない。ベッドに身を投げ出し、シミの浮いた天井を見つめた。
ナノマシンを体に打ってシーカーになったあの日から、もう何年経っただろうか。捨て子だった自分が、こうして自分の力だけで生きている。それだけで十分じゃないか。面倒な人間関係も、背負いきれない責任もない。高みを目指せば、失うものも増えるだけだ。過去に失ったものの大きさを、彼は今でも忘れることができない。
だから、これでいい。
現状維持。平穏な日常。それ以上は望まない。
蒼介はゆっくりと目を閉じた。
都会の喧騒が、遠くで子守唄のように響いている。
明日もまた、今日と同じ日が繰り返される。彼はそれを退屈だとは思わなかった。むしろ、それこそが、彼が戦い続けることでようやく手に入れた、何よりの報酬なのだから。
黄昏色の空が完全に夜の闇に塗りつぶされる頃、シーカー神谷蒼介の一日は、静かに終わりを告げた。
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