第八話 - 新しい約束と、最初の武器
親戚のおじさんとの一件が片付いた翌朝。
食卓の空気は、昨日までとはまるで違っていた。長年、俺たちの心を覆っていた分厚い雲が、嘘のように晴れ渡っている。
母さんは、久しぶりに、心からの笑顔で朝食を食べていた。
その笑顔を見られただけで、俺の二度目の人生には、もう十分すぎるほどの価値があった。
「…それで?」
食後のお茶を飲みながら、母さんが、少しだけ真面目な顔で切り出した。
「これから、どうするの?あのお金…」
その問いに、俺は待ってましたとばかりに頷いた。
ここからが、俺の、二番目の“仕事”だ。
俺は、34歳の魂が導き出した、完璧なプランを、母さんの心に寄り添いながら、一つずつ、丁寧に解きほぐしていく。
「まずさ、母さん」
俺は、できるだけ優しく、柔らかい声で言った。
「パート、減らさないかな?」
「え…?」
「いや、急に全部辞めたら、逆に落ち着かないだろ?だから、まずは夜の食堂の仕事だけ辞めてほしいんだ。昼間のスーパーの仕事も、もしよかったら、週5日から、週3日くらいに…。俺、もう、母さんの疲れた顔、見たくないんだよ」
それは、命令ではなかった。
ただ、息子の、心からのお願いだった。
母さんは、何も言えなかった。ただ、その瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「…うん」
母さんは、涙を拭いながら、何度も、何度も、静かに頷いた。
それは、俺と母さんが交わした、新しい人生の、最初の約束だった。
「それとさ」俺は続けた。「もう一つ、必要なものがあるんだ」
俺は、カバンから一枚の紙を取り出した。
図書館で調べておいた、携帯電話のカタログだ。
「携帯、契約しに行かないか?俺と、母さんの二台」
2005年当時、携帯電話はまだ、誰もが持つものではなかった。特に、俺たちのような家庭では、月々の支払いを考えれば、夢のまた夢だった。
「でも、高いんでしょう?」
「大丈夫。これからさ、色々と連絡しなきゃいけないことが増えると思うんだ。母さんにも、俺にも。あった方が、絶対安心だから」
◇
その日の午後、俺と母さんは、駅前の携帯ショップにいた。
きらびやかな店内に、母さんは少しだけ気圧されている。
俺は、34年分の未来知識で、当時最強だった機種と、最も合理的なプランを、迷いなく選んだ。
「お客様、こちらの機種ですと、二台で…」
店員の提示する金額に、母さんが息を呑む。
俺は、その手をそっと握り、笑顔で言った。
「大丈夫。お金のことは、もう心配しなくていいんだよ。これからは、母さんには楽してほしいから」
数時間後、俺たちの手には、初めての携帯電話が握られていた。
折り畳み式の、少し分厚いガラケー。
だが、今の俺にとっては、世界と繋がるための、最強の“武器”だった。
◇
その日の夜。
俺は、自分の部屋で、真新しい携帯電話を、じっと見つめていた。
アドレス帳を開く。
そこに登録されている名前は、まだ、母さんだけだ。
(ヒナ…ハル…)
指が、自然と二人の名前を打ち込もうとして、寸前で、止まる。
何を、話せばいい?
「よう、俺だけど」?
違う。
「今、何してる?」?
もっと、違う。
公園で会って、くだらない話で笑い合った、ほんの数日前。
あの時、俺たちの世界は、まだ同じだった。
だが、今は、違う。
ヒナやハルが見ているのは、夏休みの宿題と、次のゲームの発売日。
俺が見ているのは、数年後の株価チャートと、世界の再編計画だ。
この、あまりに巨大な“ズレ”。
その事実が、見えない壁となって、俺とあいつらの間に横たわっている。
公園で笑い合っていた、あの瞬間ですら、俺は心のどこかで、孤独だった。
この秘密を、この重圧を、この興奮を、世界でたった一人で抱えている。
その事実が、少しだけ、怖かった。
(…まだ、ダメだ)
今の俺が、あいつらを巻き込むわけにはいかない。
まずは、俺が、この非日常を、完全に手懐けなければ。
母さんを守るための、揺るぎない城を創り、未来へ向かうための、最初の道を切り拓く。
そして、その全てが完成した、その日に。
俺が、お前たちの隣に、胸を張って立てるようになった、その日に。
お前たちにも、最高の武器を、俺がプレゼントしてやる。
それは、ただの携帯電話じゃない。
俺が創り上げる、新しい世界への、招待状だ。
そして、三人で、また、あの頃のように…。
いや、あの頃以上に、面白いことを、始めよう。
俺は、感傷を振り払うように、一つの番号をプッシュした。
机の引き出しから取り出した、一枚の名刺。
「天王洲総合法律事務所 事務長 白石龍之介」。
コール音が、数回鳴る。
『――もしもし、白石です』
電話の向こうから聞こえてきたのは、あの日の、静かで、知的な声だった。
「どうも、蓮です」
俺は、ニヤリと笑った。
「龍さん。早速だけど、次の面白いこと、始めないか?」
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