第31話 男慣れ・女慣れ
夜の繁華街は、昼とはまるで別の顔をしていた。
瓦礫を片づけていた職人たちの掛け声も消え、代わりに酒と笑いの匂いが漂ってくる。
薄暗い路地を抜けると、ネオンのように灯されたランタンが揺れ、甘ったるい香が鼻をくすぐった。
「……おい、カイ。本当にここか?」
低い声で問うのはガルドだ。
目に見えて緊張しており、無骨な手で帯をいじる仕草が落ち着かない。
「そうそう。安心しろ、健全な店だよ。少なくとも、入場料を払えば出られなくなるような店じゃない」
カイは悪びれもせず笑い、軽く肩を叩いた。
その笑みはどこか兄貴分めいている。
「お前、ずっと真面目すぎるんだよ。もうちょっと“男”として慣れておかないと、この世界じゃ拗らせるぞ」
「……“男”として、か」
ガルドの声が低く落ちた。
外見は筋骨たくましい騎士だが、その中身は――この世界に来る前は女性だった。
ようやく慣れてきてはいるが、夜、鏡を見ればまだどこか他人のように感じる。
それでも戦場では身体が勝手に動く。現実感を保つためにも、考えすぎないよう努めていた。
「俺は……別に、慣れる必要は……」
「はぁ? 自分の体が男なのは事実なんだぜ? 女の時の記憶があるなら、余計に変なバランスになるぞ」
「バランスの問題じゃないだろう。俺は――」
「ほらほら、硬いこと言わずに。ちょっと一杯だけ」
有無を言わせぬ勢いでカイはガルドの腕を引いた。
そのまま暖簾をくぐると、艶やかな笑い声と笛の音が一気に押し寄せてくる。
店の中は、薄暗いランプが天井から吊るされ、壁際の卓では色とりどりの衣装を纏った女たちが客に酒を注いでいた。
踊り子上がりの看板娘がステージでゆるやかに腰を揺らし、香水の匂いが漂う。
客たちは皆、楽しそうに笑っており、戦場の殺伐とは別世界だった。
「いらっしゃい、お兄さんたち。二人席でいいよね?」
カウンターの奥から、陽気な女性が笑顔で手を振る。
カイは軽く手を上げて応じ、ガルドを半ば押し込むようにして席につかせた。
「おい……ここ、完全に……」
「いいんだって。ほら、飲め。エール一杯目は俺の奢りだ」
木製のジョッキが手元に置かれる。泡の弾ける匂いに、ガルドの眉がわずかに動いた。
久しぶりの酒だ。
口に含むと、喉を焼くような熱が広がり、体の奥から力が満ちてくる気がした。
やがて、一人の娘が隣に腰を下ろした。
赤い髪を三つ編みにした、褐色の踊り子だ。
軽く手を振り、微笑む。
「初めて? 顔が固いよ、お兄さん」
「……あ、ああ」
「名前は?」
「が、ガルド……」
「ふふ、いい名前。強そうで可愛いね」
その言葉に、ガルドの耳がみるみる赤く染まった。
カイは横で笑いを堪えながら、わざとらしく咳払いをする。
「な? 悪くないだろ。こういう店も」
「黙れ……」
だが、少しずつ肩の力は抜けていく。
踊り子が注ぐエールを飲み干す頃には、ぎこちなかった仕草も自然になり、声にも柔らかさが戻っていた。
女性としての記憶が遠く霞み、男としての感覚が身体に馴染んでいくような、不思議な感覚だった。
「……あんた、笑うと優しい顔するね」
踊り子がぽつりと呟いた。
ガルドは不意を突かれ、視線を逸らす。
「そ、そうかな……?」
「嘘。女の子が近づいても、手を出してこないでしょ?」
柔らかな声に、何かが胸の奥で弾けた気がした。
――ああ、俺は本当に男として見られてるんだ。
笑い声、笛の音、暖かな灯り。
不思議と、嫌悪も恐怖も湧いてこない。
むしろ、ようやくこの身体で“自分”を受け入れ始めているのかもしれない――そう思った。
しばらくして、二人は店を出た。
夜風が火照った頬を撫で、遠くで犬の鳴き声が響く。
ガルドは少し俯き、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう、カイ。少しだけ、肩の荷が下りた気がする」
「だろ? 人間、息抜きも必要だって。
なあに、あれくらいで罪悪感持つことない。こっちの世界じゃ、男女なんて結構変わった奴がいるんだ」
「そう、だな……」
小さく笑い、空を見上げる。
見慣れない星空が、どこまでも澄んでいた。
けれど、その胸の奥には――確かに、何かが変わり始めていた。
一方その頃、拠点の宿舎。
セレスたちはテーブルを囲み、食後の茶を飲みながらカイとガルドの不在を話題にしていた。
「……で、二人がまだ帰ってこないと?」
ヴァレリアが呆れたように腕を組む。
「うん。カイが“ちょっと息抜き”って言って、ガルドを連れ出したみたい」
リオナが冷たい声で言う。
その眉間の皺が物語っていた――女の勘が、あまり良くないことが起きていると告げている。
エレナは溜め息をつきながら頬杖をつく。
「男って本当に……どんな状況でもそういう店探すのね」
「……男共は、懲りないな」
リオナの声が冷ややかに響き、場が一瞬凍る。
そんな中、ヴァレリアだけが苦笑しながら肩をすくめた。
「ま、いいんじゃない? ガルドもいろいろあるでしょ。
元が女ってこと、あの体じゃ気にして当然だし。カイのやつ、案外気ぃ利くじゃないの」
「気が利きすぎてるんですよ……」
リリィは露骨に顔をしかめ、両手でマグを抱いた。
紅茶の湯気の向こうで、口元がむすっと歪む。
「そもそも……女性のいるお店、不潔ですっ!」
あまりに真っ直ぐな言葉に、場の空気が一瞬止まり――次の瞬間、ヴァレリアが盛大に吹き出した。
「ははっ! リリィ、あんた、まだまだ清純ねぇ!」
「し、清純とかじゃなくて! そういうのは、だめなんです!」
顔を真っ赤にして抗議するリリィ。
セレスは笑いながらも、どこか胸の奥がざわついていた。
(……カイの気持ちは分かるんだよ。ガルドがこのまま殻に籠もれば、戦場で命取りになる。でも……なんでだろう。素直に笑えない)
“僕”はガルドの状況を十分に理解していた。
しかし“私”――セレスとしての心は、どこか釈然としない嫉妬にも似た感情を抱いていた。
その微妙な違和感を自分でも持て余しながら、セレスは静かにカップの湯気の向こうを見つめて続けていた。
***
翌朝。
工房街の一角では、リリィが腕を組み、鬼の形相で待ち構えていた。
背後にはリオナとエレナ。三人揃って、まるで査問会のような空気を漂わせている。
「……おはよう。ずいぶんご機嫌な朝だな」
入り口から顔を出したカイは、わざとらしく明るい声を出した。
その後ろには、やや気まずげな顔のガルド。服の裾を整える仕草が妙にぎこちない。
「お、おう……みんな、早いな」
「早いじゃなくて――“遅い”です!」
リリィが机を叩いた。小柄な身体から放たれる迫力に、さすがのガルドも思わずたじろぐ。
「みんな心配してたんですよ!」
その言葉に、リオナが冷ややかに続ける。
「しかも、よりによって“そういうお店”にね」
「……情報が早すぎないか?」
カイが苦笑を浮かべると、エレナが腕を組み、眉を吊り上げた。
「この街、情報伝達が異常に早いのよ。酒場で見られてたら一晩で広まるわ」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は別にやましいことはしてないぞ」
ガルドが慌てて両手を上げる。
だがリリィは容赦ない。
「女の人と一緒にお酒を飲んで、肩を抱かれて、笑ってたって――!」
「そ、それは……」
否定の言葉が喉でつかえる。
実際、あの夜は踊り子の笑顔に救われた。何も起きていないとはいえ、否定するのも嘘になる。
そこに割って入ったのは、アルディスだった。
手に持っていた鉄槌を置き、腕を組みながら言う。
「まあまあ、落ち着け。カイのやつも悪気はない。ガルドのやつ、色々複雑な事情があるんだ。ああいう場所で軽く飲むくらい、男には必要な――」
「――なるほど、“男には”ね?」
リオナの目が細くなり、冷気のような声がアルディスに突き刺さる。
エレナが肘をつきながら呟く。
「言葉選びを間違えたわね。今の一言で敵を増やした」
「ま、待て待て! 俺は別に、女性を軽んじてるわけじゃ――」
「じゃあどういうわけなんですか?」
リリィが詰め寄る。
あまりの迫力に、鍛冶場の主であるアルディスが後ずさった。
彼ほどの豪傑が押されている光景に、カイが思わず小声で呟く。
「……あんなアルディス初めて見た」
焦ったアルディスは、唯一の頼みの綱へ視線を向けた。
「なあ、セレス。お前も少しは――」
しかし、その頼み先の魔法師は、珍しく沈黙していた。
セレスは茶を口にしながら、視線を逸らす。
「……私も、ちょっとコメントしづらいかな」
淡々とした声。
それは中立を装っていたが、どこか釈然としない感情が滲んでいた。
“僕”なら理解できたはずだ。だが“私”としてのセレスには、この件を笑って流す気分にはなれなかった。
(――わかってる。カイの判断は悪くない。でも、なんで胸の奥がざらつくんだろう)
自分でも答えが出せないまま、セレスは静かに息をついた。
「……おいおい、味方ゼロかよ……」
アルディスは頭を抱え、いつもの堂々たる声も小さくなっていく。
そのとき、ヴァレリアが立ち上がった。
両手をぱん、と鳴らして場の空気を切る。
「はいはい! もういいでしょ。別に誰が傷ついたわけでもない。ね?」
明るく笑っているが、その声には微妙な疲れが混じっていた。
それでも彼女は続ける。
「息抜きの一つや二つ、仕方ないじゃない。
……それに、ガルドは“男としての訓練”ってやつでしょ?」
その一言で、場がようやく緩む。
リリィはぷいと顔を背け、エレナは肩をすくめ、リオナもため息をついた。
三者三様の反応だが、怒気はようやく薄れていく。
アルディスは胸を撫で下ろし、ヴァレリアへ頭を下げた。
「助かった……本気で怖かった」
ヴァレリアは苦笑しながら背中を軽く叩く。
「でもさ、アルディス。ああいう時は“女の気持ちもわかるように頑張る”って言っときなさい。それだけで印象変わるんだから」
「……覚えとくよ」
彼の答えは、とても小さかった。
しばらくして、空気がようやく和む。
リリィはむすっとしたまま、ガルドの隣に座る。
「できれば、もう行かないでくださいね?」
「……善処する」
その曖昧な返事に、セレスは思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
そして――少しだけ、胸のもやが軽くなった気がした。
自嘲気味に笑い、セレスは小さく首を振った。
それを見たヴァレリアが、からかうように言う。
「なんだ、セレス。あんたもお姉さんみたいな顔になってるよ」
「……そう見える?」
「うん。ちょっとだけね」
焚き火の煙が漂い、笑い声がようやく戻ってくる。
アルディスはまだどこか落ち着かない様子で頭を掻きながら、ぼそりと呟いた。
「……俺、悪くないよな?」
それを聞いたカイが肩を叩く。
「安心しろ。悪くない。ただ――地雷を踏んだだけだ」
「……それが一番きついんだが」
鍛冶師の嘆きに、場の誰もが吹き出した。
こうして“夜の小騒動”は、少しの火傷と多くの冷や汗を残して、なんとか収束を迎えたのだった。
【あとがき】
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
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