第29話 魔力徴収

──工房街・夜半。


 煤けた梁の下で、セレスは広げた羊皮紙に細い影を落とし、術式の線を一本ずつ重ねていた。

 遅延式の大魔法――詠唱を先に封じ、合図ひとつで解き放つ仕組み。戦線が伸び、味方と敵が入り乱れるほど、即応ではなく“遅れて炸裂する”大出力が必要だ。分かっている、分かっているのに、線を結ぶ手はそこで止まる。


(……この規模だと魔力が、持たない)


 試験詠唱を二度。どちらも展開は安定しているのに、起動の直前で魔力が尽きて紐がぷつりと千切れる。

 炎の熱で乾いた喉が鳴った。体の限界は、正直だ。


「セレス、顔が怖いよ。もう寝る?」


 背後でヴァレリアが肩を回しながら笑って、湯気の立つ木椀を差し出す。薄い塩味のスープが鼻先をくすぐった。


「……もう少しだけ。ありがとう」


「無理はしないこと。いいね?」


 彼女が離れると、工房は再び静けさを取り戻した。炉の奥で鉄が収縮する微かな金切り音。遠くで見張りの掛け声。

 セレスは羊皮紙の「遅延式広域炎陣」を指先でなぞり、別の紙の「魔力譲渡」の構文に視線を落とした。


 “譲渡”。

 二者の間に道を作り、位相を合わせ、渡し手の余剰魔力を受け手に渡す。

 ゲームでは軽いやり取りだったそれが、この世界では違った重みを持つ。

 何度も何度も、リリィと手を握って回復詠唱を整えた日の体温が、手に残っているような気がする。


(なら、魔力を渡してもらえないときは、どうすればいい?)


 炉の熱がふっと和らいだ。換気の隙間から夜気が差し込んだのだろう。

 その瞬間、火の粉でも埃でもない、青白い微粒がゆら、と空中を漂うのが見えた。

 目の錯覚。そう思いかけて、セレスは無意識に指を伸ばす。指先にぞわりと鳥肌が立つ。詠唱の前触れに似た、極薄い抵抗。


(……環境の、魔力の、残滓)


 白昼夢のように、過去の戦闘が脳裏に重なる。

 魔物が倒れたあと、空間にとどまる不可視の波。回復の後に水面の皺のように残る律動。それはずっと“ある”のに、意識して掬ったことがない水だった。


「セレスさん……起きてる、かな」


 工房の仕切りの隙間から、そっと顔を覗かせたのはリリィだった。寝間着に外套を羽織って、両手で湯の入ったカップを抱えている。


「ごめん、起こしちゃった?」


「ううん。……セレスさん、また“遅延術式”ですか?」


 頷くと、リリィの視線は自然と机上の二枚へ落ちた。「遅延術式」と「魔力譲渡」。

 彼女は躊躇いながらも、譲渡の紙の中央――“位相同期”の陣に指を置く。


「これ、さっき、セレスさんと髪を結ってた時にも思ったんです。ふたりの呼吸が合ってると、魔力の流れが、とても滑らかで……。

 でも、“ひとり”だと、どうしても途切れる。だから――」


「――外から持ってくればいい」


 言葉が自然に出た。驚くほど、自然に。

 リリィが目を見開く。


「外、って……誰かから、じゃなくて?」


「いや、“環境”からだよ」


 セレスは立ち上がり、炉の手前で指を開いた。

 火の温度差で生まれる乱流の上に、先ほどの青白い微粒がふわりと浮かぶ。

 それを示しながら、羊皮紙の余白に三つの小さな円を描く。


「入口(インレット)。整流(レクティファイ)。貯蔵(リザバー)。――“譲渡”を改変して衣服に折り込む。渡し手を”人”じゃなく、”環境”にする」


「衣服、に……?」


「ローブの縫い代に、細工を入れる。襟裏で拾って、肩で整えて、背中で溜める。私が詠唱をかえても、術式を維持し続けるように」


 言ってから、セレスは苦笑を漏らした。自分でも唐突だと思う。だが、縫い目に魔力を流したリリィの手つきを見てから、ずっと胸のどこかで燻っていた発想だった。

 リリィはしばらく黙り込み、それから小さく首を傾げた。


「できる、のかな。……“譲渡”は、渡す人がいるから成立する、って教わりました」


「うん。そこが肝だね。渡し手の“意志”の代わりを、術式の自律性で代用する。そうだね、名付けるとしたら『魔力徴収ドレイン』」


 口にして、寒気が背筋を走る。

 徴収――言葉が冷たい。取り立て、巻き上げる響き。

 リリィも、眉尻を不安げに下げた。


「……周りから、取り過ぎたらどうなりますか?」


「分からない。だから最初は“弱く・広く・短く”。炉の熱で揺らぐこの室内で、ほんの少しだけ拾う。人からも取らないようにした方がいいね。魔物の残滓や、術後の余波や自然からかな」


 リリィはほっとしたように胸に手を当て、それでもまっすぐに言葉を継いだ。


「わたし、セレスさんが行き過ぎてしまうなら、止めますからね」


 強情さと幼さが一緒くたになった声音に、セレスは目を細める。

 “僕”は、そう言ってくれる誰かに、どれほど救われてきただろう。


「ありがとう、私の師匠」


 半ば冗談めかして頭を下げると、リリィは慌てて手を振った。頬が紅くなる。


「ち、違いますよ、そんな……! でも、ちゃんと見てますから」


「見てて。ちゃんとした形にする」


 セレスは机に戻り、線を引き始めた。

 襟裏に“焦点”を配置。肩に“整流”の配線。背面中心に“貯蔵”の円環。

 魔銀糸が使い、微弱な魔力に応じる導線として縫い込む。


 胸の底で、何かが“形”になった手応え。


 炉の赤が、羊皮紙の上の新しい術式を照らす。

 外から持ってくる。人からではなく、世界から。

 “理想の魔法師”の仮面は、重い。けれど――仮面の下の“僕”が、その重さを引き受ける覚悟を今、ようやく言葉にできた。


「始めよう。最初の一歩から」


 夜が、少しだけ明るくなった気がした。


***


──翌朝、工房街の外れ。


朝靄が低く漂い、鳥の声がとぎれとぎれに響く。セレスが実験の場に選んだのは、廃墟から少し離れた丘の斜面だった。


「ここなら火と風は試せるね」


 呟きながら、セレスはまず篝火を組んだ。ガルドが手際よく火打石を鳴らし、乾いた薪に火を点けると、ぱちぱちと音を立てて炎が立ち上がる。


 セレスは深く息を吸い、襟裏に仕込んだ術式へと意識を集中させた。衣の縫い目を通じ、微細な抵抗が指先に伝わる。次の瞬間――炎から、見えない糸を手繰るように、魔力が引き寄せられた。


「……来た」


 背後に、確かな重みが宿る。火属性の魔力だ。

 ヴァレリアが思わず身を乗り出す。


「ほんとに……燃えてる火から力を抜いたの? でも……なんか弱まってる?」


 見れば、炎は一瞬小さくなり、煤けた薪が崩れる音がした。だが完全に消えることはなく、やがて息を吹き返すように再び赤々と燃え始める。


「なるほど。徴収した分、火が痩せるんだな。でも時間が経てば、また燃え広がる……」


 セレスは小さく頷いた。

 次は風だった。丘の上、木立の合間に立つと、朝の風が頬を撫でていく。


「じゃあ……風の魔力、どうぞ」


 カイが半ば冗談めかして言うと、セレスは集中を深めた。

 風の魔力が裾から背へと流れ込む。


 その瞬間、木々のざわめきがすっと止んだ。鳥の声も、虫の羽音もない。まるで風が息を潜めたようだった。


「……すげえな。空気ごと止めちまった」


 カイの声が低く響く。

 しかししばらくすると、風は再び吹き抜けた。先ほどまでの静寂が嘘のように、木々はざわざわと葉を揺らし始める。


 リリィは胸に手を当て、ほっと息を吐いた。


「……戻ってきました。環境って……癒えるんですね」


「そうだね。徴収は限界さえ見極めれば“殺してしまう”心配は少ないんじゃないかな」


 セレスは淡々と答えたが、胸の奥では確かな手応えが芽生えていた。


「確認はできた。……徴収した分は時間で回復する。限度を見極めれば、使えるね」


 仲間たちの視線が集まる中、セレスは湖の方角へと顔を向けた。

 そこには、朝靄に沈む大きな湖が広がっている。街から半刻ほど歩けば辿り着ける場所だ。


「次は……あそこでやってみよう。湖の魔力を限界まで徴収して、大規模な水魔法を試してみる」


 その声は静かだったが、確かな重みを帯びていた。

 “理想の魔法師”の仮面を外さずに、限界を見極める。


 ――新しい力の形を、この世界に刻むために。

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