花天月地【第106話 残月に交わす】

七海ポルカ

第1話



「まあ、陸議りくぎさま。よくご無事で戻って来て下さいました」



 館に入ると、徐庶じょしょの母が居間から出て来て迎えてくれた。

 彼女はあまり足の具合が良くないと聞いていたが、今は無理をしている風でもなく安心した。


「母君様、お久しぶりです。お体の具合はいかがですか」


「大丈夫です。定期的にお医者様に見てもらっているので、最近では全く杖は使っていませんの。陸議様こそ、お怪我をなさったと元直げんちょく殿から聞きましたけれど……」


 居間に三人で入って行きながら、徐庶の母は片腕に袖を通していない陸議の体を気遣った。


「はい。少し腕を負傷してしまいましたが、でも大丈夫です良くなっています。

 しばらく腕を使わないようにしていれば治るのですが私も次に、江陵こうりょうに行くことになったので、魏軍総大将の司馬仲達しばちゅうたつ殿からそれまで洛陽らくようでじっくり養生するようにと。

 それで……本来なら養生の場所は軍が用意してくれるものなのですが徐庶殿が、ご実家が洛陽にあるからとこちらで引き受けてくださって。本当に有難いのですが、またそんな理由でこちらに転がり込んだりして少し申し訳なく……」


「まあ……そんなとんでもない。普段はこんな大きな屋敷に客間を持て余して過ごしているのですもの。来ていただいて嬉しいですわ」


 徐庶の母は心から二人の来訪を喜んでくれているのが目を細める笑顔から伝わってきた。


「陸議殿は私より余程年下ですが、責任感のあるしっかりした方です。

 軍でも直接部下に命じることが出来る権限を持っていらっしゃいますし……しかし人前で気を抜くということが苦手な方なので、ゆっくり療養するなら何人もに世話されるよりこういう場所で過ごした方が落ち着けるかと」


 陸議が部下に命令を下す立場だと聞いて、徐庶の母は目を丸くしたようだったがすぐに頷いた。


「私も江陵に行くまで、少々【九条院くじょういん】などで調べ物があります。

 私が留守でもここならば母上がいて下さるので、陸議殿も安心かと」


「庭に面した客間を用意しました。そちらでゆっくりお過ごしください」

「母上、ありがとうございます。陸議殿は……」

「あまりあれこれお世話をしすぎると、気を遣われてしまうのでしょう?

 十分、分かっていますよ。

 貴方も陸議殿も子供ではないのですから何から何まで世話を焼いたりしません」

 何かを言おうとした徐庶を遮って、徐庶の母がつんとして言った。


「お分かり下さっているのならばいいのですが」


 徐庶が自分の髪を軽く掻く仕草を見せた。


「大体なんですか。護衛の方たちと戻って来たならば、少し先に帰還を知らせてもらうくらい出来たでしょう。

 世話は焼かないにしても、久しぶりに戦地から帰還した方をちゃんと出迎えられるように、知らせるくらいは普通するものですよ。急に帰って来て、おかげで立派な食事も出せません」


「いやですから、私も陸議殿も大層な出迎えなどは結構ですので普通の、今日母上が召し上がろうと思っていたもので十分ですよ」


「そういうわけにはいかないことが分からないのですか。

 本当に親心の分からない人だこと」


 徐庶の母は立腹しているようだ。

 ここでは毎日を、衣食住と不自由なく過ごせていることは伝わって来るが、別に日々贅沢三昧で暮らしているわけではないのである。


「今日は手伝って下さる方はもう帰ってしまったのですよ。

 私は米と汁物と漬物を頂こうと思っていましたから……せめて午前中に戻って来てくれたら残って何か作っていただけたのに」


 母の機嫌がなかなか直らないので、どうしたものかなと徐庶は痒くもない首筋のあたりを触って誤魔化している。


 陸家でも、昔は知らせなど送らず戻ると、急に戻られても困るんだという顔を陸家の人々は見せた。彼らが一番困るのは、迷惑な顔を見せても元来家風である生真面目な性質から、出迎えの食事などをそれでも必死にきちんとやろうとする所だった。


 予め戻ると知らせを送れば、万事完璧に整えて全員で当主として大仰に迎えられる。

 有難いが非常に無機質で義務的で、あの感じも陸議は苦手だったのだ。

 知らせを送らなければ大慌てで人が動き始めて、迷惑を掛けているなあと思ってしまうし、どちらもいい具合にならないため、いつしか陸議は陸家に戻っても用事だけ済ませてその日のうちに「時間がないので」と帰るようになった。

 

 夜のうちに発ったり、陸績りくせきとだけ城下に出て食事をして、そのまま蘇州そしゅうを発つようになったのだ。


「ちゃんと出迎えられない」と唇を尖らせた徐庶の母親に、陸議は初めて、ああどこの家でも遠くにいる人が帰る時はちゃんと出迎えたいものなのだなと分かって、少し笑ってしまった。


「申し訳ありません、母君。

 実は私が徐庶殿に頼んだのです。

 私は……幼いころ両親が亡くなったあと、引き取っていただいた家があるのですが、愛情深く育てていただきましたが世話をされるとどうしても申し訳なくなることがあって。 こちらでお世話になるだけでも十分なので、大層に迎えていただくのは気が引けると、徐庶殿は知らせを送ろうとしたのに断ってしまって。

 ですが母君は戦場から戻る御子息をきちんと出迎えたいと思われて、当然でした。

 私がそのことを失念してしまって、申し訳ありません。

 私は本当に気が利かなくて」


「まあ……陸議様。そのように仰らないで下さいませ。

 わたし何も膨れているわけではありませんのよ。

 折角戻られたお二人に豪勢と言わずともそれなりの食事は出して差し上げたかっただけなのです。

 明日、買出しに行こうと思っていたから本当に今日は何もなくて……」


「では、母上。明日に日を改めてきちんとした食事を作るというのはいかがでしょうか。

 母上がこれ以上今日のことを仰られますと、陸議殿がそのうち買出しに行かれてしまいますよ」


 そこまで聞くと徐庶の母はため息をつき、怒りの留飲を下げてくれたらしい。


「仕方ありませんね。そうしましょう。

 私がここで元直殿に腹を立てても、陸議様が困られるのですものね」


「そうですとも」


 ようやく徐庶の母は歩き出した。

「本当に、今日は米と汁物と漬物しかありませんよ」

「とんでもない。我々は遠征軍でしたから、温かい汁物にゆっくり座れる食卓があれば御馳走ですよ」

「またそんな都合のいいことばかり言って……」

 歩き出した母子のやり取りを聞いて、くすくすと陸議は笑ってしまった。

 徐庶が振り返って、苦笑しながら肩をすくめて見せたので、陸議は笑顔で頷いて見せる。


 台所へと二人が入って行くと、陸議は居間を見た。


 暖炉に火が入っていて、すでに側に掛けられた小さな鍋に湯が沸いていた。

 歩いて行って少し湯が落ち着くところに鍋を遠ざけておく。

 振り返ると、暖炉の近くにある椅子には編み物のあとがあった。

 ここは曹操そうそうが命じて用意させた館なので調度品なども高価なものだ。

 しかしそれが乱雑ではなくきちんと過ごしやすいように広く、置かれている。


 前に来た時は庭に紅葉が見えた。

 今は葉が落ちて、しかし冬の花が咲いている。

 綺麗に整えられている庭だ。

 小さな池もあり魚が泳いでいる。



「陸議君」



 庭を見ていた背中に、戻って来て徐庶が呼びかける。

「先に客間に案内するよ。着替えて少し休んでください。

 その間にお茶を淹れて食事の準備をするので」

 申し訳ありませんと陸議はもう言わなかった。


「ありがとうございます。徐庶さん。お世話になります。母君にもどうぞお伝えください」


 深く頭を下げて感謝を示す。

 徐庶はふと微笑んでそう言った陸議の方を見たが、何かを考えるようにしてから「うん」と頷いて小さく笑った。



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