第2話/蠱交わりて仇をなす
研究室の蛍光灯は、午後の光を残しながら微かにちらついていた。机の上には、八幡の藪知らずで発掘された青黒い壺が置かれている。その周囲には、複数の古文書と巻物が並べられ、静かな緊張感を漂わせていた。
斎藤真奈は手袋をはめ、息を整える。壺は見た目には小さいが、どこか威圧的な存在感を放っていた。無傷の封印はしっかりと閉じられ、手で押してもびくともしない。
「……想像以上に固いな」高橋直樹が眉を寄せる。竹の棒で軽く叩くと、硬質な音が響き、壺の底から冷たい空気がわずかに流れ出すような錯覚を真奈は覚えた。
佐倉美咲が巻物を整理しながら、言葉少なに指摘する。
「上部に和紙が何枚も貼られていますね……呪言のような文字が書かれている。蜜蝋で丁寧に固定されているみたい」
藤原翼が興味津々で壺に手を伸ばす。
「え、これって剥がしても大丈夫なんだよな? 本当に開けるのか?」
真奈は息を呑む。確かに好奇心はある。しかし、列車の中で感じた得体の知れない気配が、脳裏で警鐘を鳴らしていた。
山下雄介が手元を確かめ、封印解除の手順を慎重に確認する。
「一枚ずつだ。焦るな。これを無理に剥がせば、封印の力を乱すことになるかもしれない」
真奈は手袋越しに和紙を触る。紙は古く、触れるだけで微かにざらつく。蜜蝋で貼られている部分は硬く、慎重に指先で温めながら剥がさなければならない。和紙には小さな虫のような記号、縦横に走る呪言の文字が隙間なく刻まれていた。
最初の一枚を剥がした瞬間、微かな羽音が耳の奥で響く。真奈は息を止め、周囲を見回す。誰も異変を口にせず、空気は平静を装っている。しかし、壺の上部から漏れる冷気は、確かに何か“生きているもの”の存在を示していた。
二枚目、三枚目……と剥がすたびに、文字の力がじわりと伝わるような感覚が真奈の手に走る。和紙は古色を帯び、文字の墨も黒々としており、単なる装飾ではない重みを持っている。
藤原が少し声を震わせる。
「……これ、なんか喋ってるみたいじゃないか?」
直樹は眉をひそめ、耳を澄ます。室内の静寂は変わらない。しかし、真奈には、和紙に刻まれた呪言が微かに空気の振動として響いているように思えた。
山下が指示する。
「最後の一枚まで気を抜くな。壺の封印は一度に崩すものじゃない」
慎重に、しかし確実に、一枚ずつ和紙を剥がしていく作業は、時間と集中力を必要とした。手のひらに汗が滲み、指先が少し冷たくなる。壺の青黒い陶肌は、剥がされた和紙の下でわずかに光を反射し、まるで中から何かが息をしているかのように見えた。
真奈は最後の一枚に指先をかける。息を整え、心の中で小さく祈る。
「お願い……何も起きないで」
しかし、その瞬間、室内の蛍光灯が一瞬だけちらつき、微かな羽音のような音が再び耳の奥で響いた。壺はただ静かに、しかし確実に、その存在感を主張していた。
真奈は深呼吸し、最後の和紙を慎重に剥がす――封印解除のその瞬間、研究室の空気が微かに変わったことを、5人の誰もまだ気づいていなかった。
最後の和紙を指先で慎重に剥がし終えると、壺の上部に覆いかぶさる陶製の蓋が姿を現した。青黒く光沢のある壺肌とは微妙に色味が異なり、厚みのある陶器が、長い年月を経ても微動だにせずそこに鎮座していた。
真奈は息を呑む。和紙の呪言がすべて取り除かれたことで、封印の力が視覚的にも直感的にも、はっきりと感じられるようになった。蓋の縁には微細な装飾と、わずかに刻まれた文様があり、ただの陶器ではない重みと圧力を暗示していた。
「……これが、最後の障壁か」
真奈の声は小さく、しかし室内の静寂に吸い込まれるように響いた。
藤原翼は少し後ずさり、手を擦り合わせながら呟く。
「……お、おい、これ本当に開けるのか?」
直樹は眉を寄せ、冷静に真奈の肩を軽く叩く。
「慎重にやるんだ。焦るな。これが封印の核心だ」
佐倉美咲は文字通り息を詰め、巻物をそっと机の端に置いた。視線は蓋に釘付けだ。彼女の表情には興奮と恐怖が混じり、普段の淡々とした面影は消えかかっている。
山下雄介は腕を組み、警戒する目で蓋を睨む。元自衛官として、危険の予兆を身体で感じ取る能力が働いた。
「……油断するな。これを動かした瞬間、何かが起こるかもしれない」
真奈は手袋の指先を蓋に近づける。陶器は冷たく、滑らかな表面が手のひらに伝わる。しかし、指先には、わずかに振動するような微細な感覚が走った。蓋がただ静かにあるのではなく、内部の何かが息を潜め、こちらを待っているかのような気配。
息を整え、ゆっくりと手を蓋の縁にかける。手のひらが触れた瞬間、微かに冷気が指先から腕に伝わり、身震いが走る。真奈は深呼吸をし、心の中で小さく呟いた。
「……大丈夫……まだ……大丈夫……」
周囲の4人も無言で見守る。室内には机の上の文献や壺から放たれる静かな圧迫感が漂い、蛍光灯の光がわずかにちらつく。呼吸音、手袋越しの指先の感覚、陶製の蓋の冷たさ……すべてが、この先に何が起きるのかを予告しているかのようだった。
真奈の手は蓋の縁に確実にかかり、緊張の一瞬が室内を支配する。これまでの和紙の封印を一枚ずつ剥がす慎重な作業の延長として、今、最終段階に差し掛かったのだ。
蓋の向こうに何が待っているのか――誰も知らない。
真奈はゆっくりと手のひらで陶製の蓋を押し上げた。
その瞬間、研究室全体の蛍光灯が一斉にちらつき、次の瞬間、電源が落ちた。
机の上も棚の奥も、瞬く間に闇に沈む。電子機器のディスプレイが暗転し、冷蔵庫や照明も静まり返った。わずかに外から差し込む夕暮れの光が、薄暗く研究室をかろうじて照らす。
「……うそ……」藤原翼の声が、低く震えた。普段の軽薄な口調は消え、顔には初めて本気の恐怖が滲む。手元の資料を見ようとしても、文字は見えず、視界に映るのは壺の青黒い光沢だけだった。
高橋直樹も無言で立ちすくむ。眉が寄り、唇を強く噛む。理論や科学で説明できる状況ではない。普段冷静で合理的な彼の目に、はっきりと動揺が映っていた。
佐倉美咲は机の端に手を置き、静かに呼吸を整える。
「……落ち着いて……まだ、何も……」
彼女の声も震え、普段の淡々とした口調は微かに揺れていた。視線は壺に釘付けだ。
山下雄介は腕を組んだまま、ゆっくりと周囲を見渡す。暗闇に包まれた研究室は、普段の安心感を奪い去り、僅かな物音さえも過敏に反応させる。金属の机の角に指先を擦り合わせ、呼吸を調整する。
真奈も肩の力を抜けないまま、目を壺に向ける。蓋を開けたその瞬間、冷気が手のひらを伝い、指先から胸に広がる。息が詰まりそうになる。部屋の闇は、壺が放つ気配を強調する舞台装置のように感じられた。
だが、静まり返った研究室に、特別な現象は何も起こらなかった。壺の中は見えず、ただ青黒い陶器の内部に暗闇が潜んでいるだけである。音も、光も、微動すらもない。
しばらくの沈黙の中、5人の顔に恐怖の色が滲む。心臓の鼓動が耳に響き、呼吸が乱れる。何も起きない――それが逆に不安を増幅させる。壺は静かに、しかし確実に、何かを待っているような圧力を放っていた。
藤原が小さく息を吐く。
「……あれ? え、何も……」
しかしその声は、確信ではなく、むしろ恐怖の確認作業に過ぎなかった。直樹がゆっくり頷く。
「……落ち着こう……何も起きていない」
それでも、真奈の胸の奥には、列車の中や藪の中で感じた違和感が、静かに、しかし確実に重くのしかかっていた。
部屋は暗いまま、沈黙が支配する。誰もが口を閉ざし、壺の存在に視線を絡める。封印を解いた瞬間、世界が動くかと思われたが、今はまだ、何も起こっていない。
しかし、確かに、何かが、息を潜めて、そこにいる――5人の心は、それを否応なく感じ取っていた。
暗闇の中で沈黙が支配する研究室。蛍光灯がまだ復旧せず、窓から差し込む夕暮れの光だけが室内を微かに照らしていた。
真奈がゆっくりと陶製の蓋を持ち上げると、壺の内部が姿を現した。青黒い陶器の内側に暗い影が満ちており、内部の形状までははっきりと見えない。しかし、微かな湿った匂いと、土器の奥から漂うカビのような匂いが、確かに存在を告げていた。
藤原翼が目を輝かせ、手元の小さなピンセットを取り出す。
「うわ……これ、めちゃくちゃ面白そうだ」
高橋直樹もそっと覗き込み、眉を寄せる。
「慎重にな。中身を乱暴に扱えば、壺の中のものが崩れたり、変化したりするかもしれない」
佐倉美咲は巻物を片手に、もう一方の手で手袋をはめた指先をピンセットに添える。
「……本当に中身があるんですね。ずっと封印されていたはずなのに」
山下雄介はやや距離を置きつつ、警戒する目で室内を見渡す。壺の中身に興味はあるものの、何かが潜んでいる気配を感じ、手はすぐには伸ばさなかった。
藤原が最初のものを取り出す。小さな、干からびたカエルだった。手のひらに乗せると、ひび割れた皮膚と硬直した足が、長い年月を経た存在感を示す。
「うわ……すげえ……本当に乾燥してる」
直樹が慎重に観察する。
「保存状態は驚くほど良い。何らかの保存処理がされていた可能性がある」
続いて、小さな蛇の干物が取り出される。真奈の指先にも、冷たさと僅かな湿気が伝わり、思わず身震いする。さらに、様々な虫――甲虫、蜘蛛、細長い幼虫のようなもの――が次々とピンセットで取り出され、皿の上に並べられた。
その光景を見つめながら、真奈の胸に、ある奇妙な既視感が走る。なぜか、この並びに意味があるような気がした。単なる標本の集まりではない。規則性と目的が、壺の中で微かに語りかけているような……。
ふと、彼女は口を開いた。
「……蠱毒って、知ってる?」
一瞬の沈黙。藤原も直樹も、美咲も山下も、怪訝そうに首を傾げる。
「蠱毒……?」
皆、首を横に振った。
真奈は、壺の中で見た異様なものたちと、古文書の文字を思い合わせる。干からびた生き物たちは、単なる標本ではなく、呪術の目的で意図的に組み合わせられた存在であることを悟り始めていた。
その瞬間、研究室の空気が再び重く沈む。暗闇の中で、壺はただ静かに、しかし確実に、何かを待つように存在している。
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