第5話
獣の咆哮が、夜の町外れに響き渡った。聞いた者の背筋を震わせ体を硬直させるような低音。
だがその咆哮を受けても、リディアは冷静に相手を見据え、体に震えは見えなかった。
——大したものだ。
俺は関心しながらリディアと鉄顎狼の戦いを見守る。
リディアもとてもいい剣を振るうようになってきてはいるが、剣を振るう腕が一瞬遅れれば、牙が肉を裂く。足さばきに迷えば、そのまま押し倒され喉笛を嚙みちぎられる。すべてが死と直結する世界だ。もちろん、全て上手くいくとは思っていない。
それでもこの実践を通して、木刀での訓練では得られない実践の呼吸を掴んで欲しいところだ。
鉄顎狼が地を蹴った。低い姿勢のまま、一気に距離を詰める。目にも止まらぬ速度で間合いを奪い、牙を閃かせて襲いかかる。
リディアは反射的に剣を横薙ぎに振るった。金属と牙がぶつかり、火花が散る。受けはしたが、受け切れてはいない。衝撃で彼女の腕が痺れ、追撃を防ぐために後退を余儀なくされる。
「リディア様!」
町人の誰かが声を上げる。その声に応えるように、彼女は踏み止まって再び構えた。
だが、鉄顎狼は容赦しない。爪を振るい、尾で体勢を崩し、執拗に死角を狙ってくる。人間とは違う予備動作。意識したときには次の攻撃が迫っている。
リディアは必死に剣を合わせるが、次第に押し込まれていった。剣筋が乱れ、呼吸が荒くなる。訓練場での滑らかさは消え失せ、動きは鈍く、ただ必死に命を繋ぐために剣を振るうだけになっていった。
最初、町人たちは息を呑みつつも「おお!」と声を上げていた。
少女が鉄顎狼の牙を防ぐたび、勇気づけられるように拍手まで飛んだ。だが押されるごとにその声は消え、顔色は青ざめていく。
「もう持たないぞ……」
「騎士様、助けてくれ!」
俺に縋る視線が集まる。だが俺は動かなかった。
ここで介入すれば、すべてが無意味になる。まだリディアの実力ならば耐えられるはずだ。それにリディアはまだ虎視眈々と攻勢の隙を狙っていた。
ついに町人の半分が耐えきれず、町へ走り戻った。増援を呼ぶためだ。残った者たちは恐怖を押し殺し、鍬や槍を手にリディアの援護に飛び込む。
これは不味い、下手に場に入りこんでも邪魔になるだけだ。
「やめろ!」
リディアが叫ぶ。だが彼らは止まらない。
鉄顎狼の尻尾が町人の男たちを薙ぎ払い、宙を舞わせた。弾き飛ばされた町人らは、土に転がる。爪の攻撃でなかったことにより命は救われたが全員気絶しているようで次の致命傷になる攻撃を防ぐことが出来ない。
「くっ……!」
リディアは転がった町人の前に飛び込む。気を失った彼らを庇うように剣を構えたがリディアの体勢が整っていない、その隙を鉄顎狼は逃さなかった。
獣がもらったとばかりに咆哮し、爪が閃く。リディアは辛うじて剣で受け止めたが全身に衝撃が走り、地面に膝をつく。
鉄顎狼が低く身を伏せた。次で決める気だ。
そろそろか、あそこで町人が無謀にも突出しなければ勝利の道も僅かにあったとは思うがこうなってはリディアの命が危ない。
鉄顎狼が跳躍した。夜空を切り裂き、巨大な影がリディアを覆う。牙が、爪が、迫る。
——が、そんなことは俺がさせない。
鉄顎狼の巨大な影がリディアを呑み込まんとする瞬間、その軌道を読み切り、体を滑り込ませる。牙が俺の肩先を掠めるほどの至近。爪の風圧が頬を裂く。死と紙一重の距離。全身の血が逆流するような圧迫感。だが俺は息を止め、視線を逸らさず、ただその瞬間を待つ。
——今だ。
刹那、俺の刀が月光を反射し、一直線の光を描く。振り抜いたのは最短の軌跡。鉄顎狼の首筋を狙った、高速の居合い。
丸太のような太い首ではあったが紙でも切っているようにすっと刃先が入ると骨までもこの一刀で断ち切り、血飛沫が宙を舞った。
狼の巨体が俺の横を通り過ぎる。そのまま数歩、よろめくように前へ進んだ。まだ自分が切られたことを理解していないのだろう。ぐらりと揺れ、足を取られるように膝を折り、重々しい音を立てて地に沈んだ。
俺は刃についた血を払うと鞘に納める。そして、体には返り血は一滴もかかっていない。攻撃をかわし、刃を抜き、仕留めるまでの全てが、ほんの瞬きの間だったからだ。
「……」
リディアが膝をついたまま、呆然とその巨体を見上げ、顔についた血しぶきを拭っている。
遅れて町人たちの怒号と足音が近づいてきた。増援を呼びに行った連中が、増援を連れて駆け戻ってくる。
「やったぞ!」
「鉄顎狼が倒れてる!」
「リディア様がやってくださったんだ!」
勝手に高揚した声が広がる。
剣を抜いておらず、傷もなく返り血も浴びていない俺。それに鉄顎狼の死体の側に立つのは剣を抜き、返り血を浴びているリディア。彼女と俺の姿を見比べれば、町人たちがそう思うのも無理はない。
「さすがだ、リディア様!」
「騎士様は見ていただけか!」
俺に向けられる視線には、賞賛よりも失望が混じっていた。剣を抜いていたことにすら気付かれていない。
だが、構わない。俺は英雄になんてなる気はないし、なれるような人間ではないと分かっているからだ。
そして、リディアに近づき今回の実践で俺が見ていて思った反省点を伝えようとしたがどこか様子がおかしかった。
死の恐怖にとらわれてしまったのかとの考えが頭をよぎったが、その瞳を見るとそういったものより悲しいという感情があふれ出しているように見えた。
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