第17話: 違う
中庭は、まるで時が止まったかのように静かだった。
ただ静かで、冷たくて、苦しかった。
――なんで? 何でなの、結月ちゃん……?
鋭い針がいくつも突き刺さったような胸の痛みに声も出せず、私は結月ちゃんを見つめるしかできなかった。
私の評判を落とし、クラスで孤立させようとしていたはずの、私を騙る裏垢。その持ち主が結月ちゃんだなんて、今でも信じられない。……いや、信じたくない。
だって結月ちゃんは、いつも私のことを気遣ってくれて、心配してくれて。この件だって、一番親身になってくれたのは結月ちゃんで、特定にこだわっていたのだって結月ちゃんだった。そんな彼女が裏垢主そのものだなんて、簡単には信じられない。
……でも、さっきの結月ちゃんの発言と、ここまで積み重ねてきた状況証拠が、その事実から逃がしてくれない。
――だったらせめて理由を教えてよ、結月ちゃんっ……!
聞いて納得ができるかはわからない。それで結月ちゃんを許せるのかも、わからない。
でも、私の友達が、何の理由もなしにこんなことをするような人だなんて、思いたくないから。……あの時手を伸ばしてくれた、あの子みたいに。
――あの子……?
まただ。また、何かが私の中で引っかかってくる。ひどいぼかしがかかった光景が、目の前に広がる。……でも、今度はそのぼかしの中に、人影があった。
艶やかで長い黒髪、だけど顔だけはやっぱり見えない。……なのにその瞳が――理知的な青みがかった瞳が、私をじっと見つめていることだけが、わかる。
――何なの? これは一体、何を表してるの?
訳の分からない光景に気を取られた、その時。
「……ごめんなさい」
そんな一言とともに、結月ちゃんが背を向けて走り出した。
「っ!? 待って!!!」
私は慌てて、彼女の後を追いかけた。
――どうして? どうして逃げるの、結月ちゃん……?
走りながら、涙が込み上げてくる。
逃げたってどうにもならないって、結月ちゃんならわかるはずなのに。せめて私と、ちゃんと向き合ってほしかったのに。向き合ってくれるって、信じてたのに。
「逃げないで……! 逃げないでよ、結月ちゃんっ!!!」
私の叫びが彼女に届くことはなく、結月ちゃんは校舎に入って階段を駆け上っていく。私は息を切らしながら、必死でその背中を追いかける。
……そして、その終着点で、足を止めた。
目の前には屋上へとつながる扉。それを前にして、私は硬直していた。
嫌な予感が止まらない。立ち止まっているのに心臓の鼓動は収まるどころか激しさを増していて、口の中が急速に乾いていく。
たまらず、私は明日香ちゃんと琴音先輩にメッセージを送る。二人は、すぐに駆け付けてくれた。
「みおしゃ大丈夫!? ゆづゆづが犯人ってどういうこと!?」
「明日香ちゃん、詮索は後です。……大丈夫ですよ美緒ちゃん、私たちがいますからね」
明日香ちゃんが不安げに私の顔を覗き込み、琴音先輩が私の背中を優しくさすってくれる。それだけで少しだけ、気持ちが楽になった気がした。
「ごめんなさい、もう大丈夫。……それより、この先に結月ちゃんがいるはず」
私は今一度、目の前の扉を見据える。金属製の扉はその材質以上に重厚に、冷徹に見える。
――怖い。でも、行かなきゃ。
脳裏にいつか見た、身を投げる悪夢の場面がよぎる。でも、止まるわけにはいかない。
私はドアノブに手をかけ、その扉をゆっくりと開いた。
目の前に遮るもののない空と、遮蔽物のほとんどないアスファルトの地面が広がる。夏の日差しは分厚い雲に遮られてもなおじりじりと路面を熱していて、立っているだけで汗が噴き出してきそうだ。
そして、その屋上に――結月ちゃんの姿はなかった。
「――っ!!!」
私は全力で駆けだして、フェンスにしがみつき下を覗き見る。……でも、私が危惧したようなものは、そこにはなかった。
「落ち着いて、澪ちゃん。いくら結月ちゃんでも、このフェンスをそう超えられはしません」
しゃがみ込む私に、琴音先輩がそっと肩を叩きながら声をかけてくれる。……そう、だよね。そんなわけ、ないよね。
「みおしゃー! ことちんせんぱーい! こっち! こっち来て!」
不意に、反対側の方から声がする。見れば、明日香ちゃんが大きく手を振って私たちを手招きしていた。
私はよろよろと立ち上がり、琴音先輩の手助けを借りながらそちらへと歩み寄る。
「これ、ここに置いてあったの。なんだろう? うちの部誌じゃないよね?」
明日香ちゃんが指さしたのは、屋上の縁に置かれた一冊の本だった。市販品じゃなくて、紙の真ん中をホチキス止めして二つ折りにし、製本テープで止めたような簡素なものだ。
――これ、って……?
私は吸い寄せられるようにその本を手に取った。表紙には綺麗な字で『春を運ぶ船の航跡』とだけあって、イラストやその他の装飾はない。
「……!!!」
そして、くるりとその本を裏返した瞬間――私は息を呑んだ。
『著・白崎 澪、 佐々木 咲良』
並んでいたのは、著者と思しき二人の名前。一つは私と、もう一つは知らない人の名前。
……そのはず、なのに。
――佐々木 咲良……どこかで、聞いたような……? いや、違う、それよりも、もっと……?
「……っ!? う゛っあ、あ゛あ゛あ゛っ……!?!?!?」
「え? み、みおしゃどうしたの!? 大丈夫!?」
「澪ちゃん!? しっかりっ!」
突然激しい頭痛に襲われて、私は思わず頭を抱えてうずくまる。二人が慌てて寄り添ってくれるけれど、その声も全く耳に入ってこない。
頭を何かに鷲掴みにされて、ぎりぎりと締めあげられるような痛み。それはさながら、その先を考えてはいけないと警告されているかのようだった。
――何? 何なの? 私は何を忘れてるの?
痛みに歪む視界の中で、またあの人影が浮かび上がる。黒く長い髪、青みがかった理知的な瞳。その少女は、いかにも手作りなその本を胸に抱いて、嬉しそうに微笑んだ。
『私、この本、一生大事にする。私と咲良の、初めての共作だもん』
直後、私の中で、何かが弾けた。
今までの痛みが嘘のように消えて、代わりに訪れたのは何年も戒められていた枷から解き放たれたかのような解放感。
……そしてそれと同時に、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような、喪失感。
「みおしゃ……?」
「……澪ちゃん、大丈夫ですか……?」
肩で息をする私に、琴音先輩と明日香ちゃんが心配そうに問いかけてくる。
「……違う」
私はそれに、首を振った。
「……え?」
明日香ちゃんが小さなつぶやきとともに首を傾げ、琴音先輩が怪訝そうに眉を顰める。
私はアスファルトに膝をついたまま、取り落としていた本の裏表紙に記された名前をそっと、指先でなぞった。
「私は澪ちゃんじゃない。……私は咲良。
零れ落ちた涙のしずくが、私の名前を――『佐々木 咲良』の文字を、静かににじませた。
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