第4節 猫の第一声
沈黙は伸びて、細い糸になった。
光の筋の中で埃がまっすぐ並び、糸が張りつめたように見える。張りすぎた糸は、やがて誰かが切る。切るのが彼女なら、それは決意と呼べた。だが、その糸を先に噛み切ったのは——椅子の影にいた黒猫だった。
「泣いてるんだ。……へえ。あんた、そういう顔は似合わないのに」
声が落ちた場所で、空気の温度がわずかに変わった。
冬の室内に差す日だまりみたいな温度だ。冷えた背筋の上をするすると滑り、肩甲骨の奥をゆるめる。
カタリナ・フォン・ローゼンベルクは、反射で顔を上げた。
瞳孔がきゅっと絞られる。胸の中心が一度だけ強く脈を打ち、指先の血の気が引くのが分かった。思考は三拍遅れてついてくる。目の前で現実が別の形に折りたたまれ、さっきまでの“正しい広間”が、見たことのない部屋に見えた。
「……誰?」
言ってから、自分で苦く笑った。猫に尋ねる言葉ではない。
けれど、口が先に動いたのだ。驚きに正しい手順はない。
「名前、呼んでたよね。ミラ。あんたがくれたやつ。けっこう気に入ってる」
椅子の影から出た黒猫は、尻尾をゆっくり振った。口元に、癖のような緩みが残っている。笑いと呼ぶには薄い線だが、その線のせいで、彼はいつも余裕のある顔に見える。
声は軽い。成人した耳にしか届かない、湿度の低い響きだった。からかい半分、慰めは少し。重さは最小限。
「似合わないって言ったのは、泣き顔のこと?」
「そう。睨んでる顔の方が、あんたには似合う。……今日みたいな日は特に」
中性的で、やわらかい調子。重くならないところが、妙に頼もしい。
だが、頼もしさより先に来たのは、単純な驚愕だった。
彼女は、驚きを飲みこむ動作を忘れた。喉が硬くなる。呼吸が浅く、短くなる。
視界の端で、広間の輪郭がゆっくり遠のき、逆に猫だけが近くなる。猫は黒い。瞳は暗い宝石みたいで、ふちだけが淡く光っている。見慣れた毛並み。見慣れた大きさ。見慣れた、いつもそこにいる存在。
その“見慣れたもの”から、知らない声が出ている。その事実が、彼女の体の中でうるさい。
掌が汗でしっとりした。手袋の中の布が、皮膚にすべる。
耳が熱い。耳殻の薄いところが脈を打つ。頬を伝っていた涙の温度が、そこだけぶり返した気がした。
膝の裏は軽く痺れている。崩れたら、二度と立てない——そう思って、踵に重心を寄せる。石の硬さが頼もしい。
猫が、歩幅を合わせるように一歩前へ。
足音はない。毛の下の筋肉がしなやかに動き、肩がわずかに波打った。
尻尾が左右へ一度だけ。気楽な動きだ。からだの力みをほどく手つきにも見える。
「……どうして、喋るの」
問いは素直だった。飾りも皮肉も混ぜなかった。
声は少しかすれて、最後だけ上ずる。自分でも驚くほど、弱い音になった。
「どうして、は後でいいんじゃないかな。いまは、泣き止むかどうかの話だよ」
黒猫——ミラは、あくまで軽い。
軽さは無責任とも違う。薄く張られた氷の上で、慎重に体重を分散しているみたいな調子だ。沈ませないように、でも、前には進む。
カタリナは、喉の奥で乾いた音をつくってから、息を入れ直す。
胸の刺繍の薔薇が、呼吸に合わせてわずかに上下した。
彼女は、視線だけで猫の動きを追いながら、記憶の抽斗が勝手に開いていくのを感じた。
——幼いころの中庭。背の高い草の匂い。
雨上がりの石段で、濡れた子猫が丸まって震えていた。
髪に結んでいた赤いリボンをほどき、細く裂いて、子猫の首に輪をつくって遊んだ。
名前を、どうでもいいみたいに口にした。「ミラ」——ただ響きが好きだった。鏡の前で笑っていた自分の顔を、角度を変えてもう一度見る、そんな軽さの名前。
大人に叱られて、すぐに忘れると思っていた。忘れて良いことにしていた。
それが、いま。
「ミラ……」
つぶやくと、舌の上に名前の音の輪郭が戻ってきた。
輪郭は、思い出よりも生々しい。呼べば、返る。返った声が、自分の胸の内側を叩く。
「うん。その呼び方で合ってる」
猫の口元の緩みが、ほんの少しだけ薄くなる。
薄くなった分だけ、目の光が濃く見えた。
何かを計るでもなく、責めるでもなく、ただ確かめるような目だ。
驚きは、すぐには消えない。
消えない驚きを抱えたまま、彼女は立っている。
驚きの形は、次第に細かく解け始めた。大きな塊が、思考の粒に分かれていく。
——なぜ今まで喋らなかったのか。どういう仕組みで喋っているのか。誰かに聞かれる心配はないのか。
問いは多い。けれど、すぐに答えは要らない。今、必要なのは“切り替え”だ。
「……似合わない、ね」
「うん。泣いてる顔。似合わない。あんたは、噛みつく顔の方が似合う」
「噛みつく顔、なんてしていないわ」
「さっきまで、してたよ。目で」
ミラの声には、笑い声の音が混じらない。
ただ、言葉の端に少しだけ遊びがある。その遊びが、彼女の強ばった心拍をゆっくり落ち着かせる。
笑いを大きくしないで、余白だけを作る喋り方だった。
カタリナは、指先をそっと握り、また開いた。
手袋の縫い目が皮膚に触れる。整った感触は、姿勢と呼吸を整える目印になる。
息は、もう浅くない。
不意に、さきほどの言葉が気になった。
「……『名前、呼んでたよね』って、どういう意味?」
「そのまま。呼ぶから、届く。届くから、返せる。名前は、そういうふうにできてる」
「呪文みたいに言うのね」
「呪文ほど便利じゃない。けど、名前には、紐の役目がある。結び目にすると窮屈だから、ぼくは嫌いだけどね」
“結び目”“紐”——軽い言葉の中に、手触りのある比喩が混じる。
彼は契約を好まない。縛りを嫌う。そのくせ、名前のことだけは否定しない。
名前を与えたのは彼女。与えられたのは彼。
いつか軽い遊びのつもりで口にした音が、今、細い紐になって二人の間をゆるく繋いでいる。
彼女は、胸の赤い刺繍に目を落とし、すぐに戻した。
刺繍の色は、踏まれても残る色だと、さっき学んだばかりだ。
名前の紐も、同じかもしれない。引っぱらなければ、窮屈にはならない。ただ、ここにあると知らせるだけ。
「わたし、今まで……あなたが喋れるなんて、一度も考えたことがなかった」
「考えなくてよかった。知らない方が、いい場面もある。今日までのあんたには、いらなかった」
「今日は、必要だと?」
「いるかいらないか、決めるのはあんた。ぼくは、声を出すだけ。選ぶのは、いつだって、あんた」
軽い。だが、逃げてはいない。
彼の声は、責任の所在をそっと返してくる。押しつけずに、返す。
広間で散った視線や、輪の中心で誰かが抱えていた“善意”とは、別の種類の手触りだ。
彼女の驚きは、ようやく輪郭を持った。
猫が喋っている。
幼い日に名前を与えた、その猫が。
驚きの中央に、ほとんど可笑しさに近いものが生まれて、すぐ消えた。
——こんな時に、救いに来るのが、よりによって“あなた”なのね。
「……ミラ」
「うん」
「泣いてはいないわ。泣きかけただけ」
「そうだね。落ちる前は、まだあんたのものだ」
落ちる前の涙は、世界のものではない。
落ちてしまえば、誰かが意味を与える。落ちる前に留めたのは、自分だ。
その事実が、胸の奥で静かに重くなる。重いのに、不思議と背筋は軽くなった。
広間の天井の梁に、午後の光が薄く移動する。
光は、感情に与しない。ただ、その場所のかたちを正直に撫でる。
“風は正直”という言葉が、さっきから繰り返し心に浮かぶ。風も、光も、言い訳しない。
「……どうして、今、喋ったの?」
「喋るべき時だと思ったから。糸、切れそうだったし」
「糸?」
「静けさの糸。あんたが首に巻いてたやつ。締まりすぎると、良くない」
ミラは、するりと彼女の足もとを回った。
すれ違いざま、足首のすぐ外側に、距離だけで気配を置く。触れない。けれど、触れたみたいに近い。
その近さは、慰めを装わない。装わないぶん、ありがたかった。
「それで……あなたは、これからどうするの?」
「どうもしないよ。あんたがどうするか、見てる。必要なら、少しだけ手を貸す。必要じゃないなら、見てるだけ」
「頼りないわね」
「頼られるのは、あまり得意じゃない。でも、呼ばれたら、たぶん応える」
“呼ばれたら”。
“名前を”。
さっきから彼の言葉は、同じ場所を回っている。軽いのに、輪郭の残る言い回しだ。
カタリナは、ほんの少しだけ目を細めた。
視界の中で、猫の黒がくっきりする。
彼女の心拍は落ち着いた。驚きは、もう彼女を攫わない。
代わりに来たのは、選択の番だ。選択は苦い。けれど、それは彼女の得意分野でもある。
「さっき、わたし、名前を呼んだの?」
「呼んでたよ。声にしなくても、呼ぶことはできる。あんたは、それを知ってる人だ」
「知っているかどうかは、分からないけれど……『ミラ』でいいのね?」
「うん。ぼくは、それで動く」
“動く”。
はっきりした言葉が、軽い声で置かれた。
それは約束ではない。誓いでもない。
ただ、彼の側の準備の宣言だ。
名前を、合図に使う。その程度の“紐”。結び目にはしない。
彼女は、胸の薔薇から指を離し、両手を体側に落とす。
肩の力を抜いた姿勢は、凛として見えた。
泣き顔より、たしかに似合っている。自分でも分かる。
「ミラ」
「うん」
「泣かない。……立っているわ」
「そうだね。じゃあ、次にいるのは、足だ」
「足?」
「ここから、出る足」
言われてはじめて、扉の方角に意識が向く。
敷居のわずかな段差。境界としての陰影。
越えられないほど高くはない。だが、越える前の呼吸がいる。呼吸は整った。——なら、足だ。
ミラは、椅子の脚にもたれ、目を細める。
口元の緩みは、やはりそのままだ。
彼が笑っているのか、癖なだけか、もうどうでも良かった。そこにいる。そのことだけで、十分だった。
「……ありがとう」
「礼は、あとでまとめてでいいよ」
「今、言いたいの」
「そう。じゃあ、受け取っておく」
軽い受け答えが、重さを均す。
重すぎる言葉は、今の彼女には向かない。軽い返事が、足の裏に血を戻してくれる。
「ミラ」
「うん」
「あなた、ずっと黙っていたのに、よく今まで我慢できたわね」
「我慢じゃないよ。喋るのは、喋るべき時に。ね?」
「ずいぶん、賢い猫ね」
「たまたま、ね」
彼は、そこで初めて、口元の緩みをほんの少しだけ深めた。
それでも、笑い声は出さない。
静かな広間に、音は必要ない。言葉だけで足りる。今はそれでいい。
高窓の光が、彼の背を細く縁取り、毛並みの艶を浮かび上がらせた。
黒は光を吸う色だと誰かが言っていた。けれど、彼は光を返している。黒の上に、細い白の線が走る。その線が、彼の輪郭をくっきりさせた。
「じゃあ、出ようか」
「そうね」
「ぼくは後ろを歩く。あんたの足音の邪魔はしない」
「勝手に喋るようになったくせに、気遣いはするのね」
「するよ。気に入ってるから。——名前を」
彼の視線が、一瞬だけ彼女の口もとに落ちた。
カタリナは気づかないふりをした。
気づかないふりをするのは、礼儀の一つだ。いまは、それが似合う。
扉の方角に、ほんの少しだけ風が通る。
旗は揺れない。埃だけが、正直に動いた。
驚きは、もう彼女の足を縛らない。
名を呼べば、返る。返るなら、いる。
その当たり前が、今は何より強かった。
彼女は、敷居へ向けて、足をわずかに送った。
まだ踏み出さない。踏み出す前の一拍。
その一拍の上に、言葉がそっと積み重なる。
「ミラ」
「うん」
「行くわ」
「そうだね」
軽い返事が、背中に置かれる。
置かれた重みは、ごく薄い。けれど、確かだ。
それで足りた。
——ここまでが、驚きの整理。
次は、出る番だ。
カタリナの耳の奥では、まだ心臓の音が残っていた。
だが先ほどまでの刺すような脈拍ではない。少し重みを帯びて、胸の底に落ち着いている。驚愕から整理への過程は、確かに進んでいた。
「……本当に、ミラなのね」
「うん。ほかに誰がいるのさ」
軽い答え。
その軽さに、逆に確信を与えられる。思い出の中の小さな子猫が、確かに今ここに繋がっている。
「ずっと黙っていたのに」
「喋らなくても、あんたは勝手に話しかけてくれてたよ。名前でね」
「子供のころの……わたしが?」
「そう。名前は、呼ばれた分だけ残る。だからぼくは、消えなかった」
ミラの瞳は細く、石床に反射する光をすくい取るように輝いた。
笑っているのか、それとも真面目なのか。判別できない。だがその中庸が、彼の特徴でもあった。
カタリナは、思わず指先を唇にあてた。幼いころの記憶は曖昧だ。だが今、声として返ってくるなら、それは嘘ではない。忘れたつもりでも、名前は残っていた。
「……信じられない」
「信じなくてもいい。けど、目の前で声を聞いてるだろ?」
「……ええ」
短い肯定。唇がわずかに震えた。
冷えた広間で、唯一温かいのは、自分の声と猫の声。たったそれだけで世界の形が変わってしまったように感じる。
ミラが、近づいた。
爪を立てない足音は静かだ。毛並みが擦れる音さえ聞こえない。ただ、気配だけが迫る。
やがてカタリナのスカートの裾に鼻先が触れそうな距離まで来た。猫特有の呼吸が布をかすめ、体温が伝わる。
その小さな温もりは、孤立の冷たさをじわじわと押し返す。
「……近いわよ」
「嫌?」
「……別に」
唇が乾いていた。答える声の端がわずかに湿って、吐息に混ざる。
微かな音だが、ミラには届いたらしい。彼の口角が、またゆるく上がった。
「ならいい。そういう顔の方が似合う」
「どういう顔?」
「今の顔。少し意地を張って、少しだけ緩んでる。あんたらしい」
からかわれているのに、不思議と悪い気はしない。
むしろ、目元に熱が戻り、重くなりかけた瞼を持ち上げる力になる。
ミラの尻尾が、彼女の足首のすぐ近くをかすめた。直接触れたわけではない。だが空気を動かすほどの近さは、肌の感覚を鋭敏にする。
背筋に一瞬だけ走った震えは、恐怖ではなかった。別の、もっと複雑な感覚だった。
「……こんな時に喋るなんて、意地悪な猫」
「意地悪じゃないさ。だって、あんた、泣いた顔を見せるより、睨んでる顔を見せる方がずっと綺麗だからね」
「……!」
カタリナは、心臓を鷲掴みにされた気がした。
褒められたわけでもない。慰めでもない。だがその言葉は、頑なだった誇りに、思わぬ光を差し込んだ。
「な、何を言っているのかしら」
「思ったことを言っただけ。あんたの名前を呼んでるぼくに、隠しても無駄じゃない?」
「……っ」
顔をそらす。
けれど耳朶は熱く、呼吸は落ち着かない。
黒猫は、それ以上追い詰めない。ただその場に座り込み、尻尾を石床に打ち付けるように揺らす。軽い音が、鼓動と重なる。
「……これからどうすればいいのかしら」
思わず零れた本音。
プライドを守るために沈黙を選んできたカタリナにとって、それは初めての弱音に近かった。
「どうするかは、あんたが選ぶ。ぼくは見てるだけ。……それが契約みたいなものだね」
「契約……?」
「本当の契約なんてごめんだけど。名前だけで繋がるなら、それで十分じゃない?」
皮肉混じりの軽い声。
けれどその軽さは、どこか優しさを滲ませていた。
カタリナはその言葉を胸の奥に沈めた。名前を呼べば、返ってくる。そこにあるだけの紐。それは束縛ではない。けれど孤独ではない証拠だ。
「……不思議な猫ね、ミラ」
「不思議なのは、あんたが泣きかけたこと。ぼくからすれば、その方が意外だ」
「……そうね。泣いてなんか、いないわ」
「うん。そういう顔でいればいい」
黒猫の瞳に映る自分の姿を、カタリナは見返した。
涙の痕はまだ頬に残っているはずだ。だがその顔を「似合わない」と笑った存在が、いま目の前にいる。
その事実が、彼女の足に再び力を与えていた。
広間の扉の方で、わずかに風が揺れた。
旗は動かない。けれど埃の流れだけが、正直に方向を示す。
「……立ち上がらないとね」
「そうだね。倒れないあんたが、いちばん似合う」
その声に背を押され、カタリナは足を一歩前へ進めた。
重いはずの石床が、不思議と軽やかに響いた。
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