断罪から始まる、悪役令嬢と魔猫の契約
蝋燭澤
第1話 拍子木のあとで、猫は笑う
第1節 断罪の広間
高窓から落ちる白い光が、磨かれた石床を大きな鏡にした。旗は揺れない。壁の紋章は無言で見下ろしている。昼なのに冷たい景色だった。
中央に王太子。背に教師。脇に庶民上がりの“聖女候補”。輪の中心は、涙の光で守られている。外側のざわめきは紙の擦れる音みたいに薄い。
カタリナ・フォン・ローゼンベルクは、赤い薔薇の刺繍リボンを胸に、顎を上げて立っていた。視線は落とさない。声は出さない。出しても役に立たないと知っているからだ。
「——静粛に」
司書官の低い声。羊皮紙の端が光を弾く。
「カタリナ・フォン・ローゼンベルク。王太子殿下は婚約の破棄を通達なされる。貴女の言動は学内秩序を乱し、庶民出の聖女候補を誹謗中傷した罪——」
人々の息が揃って細くなった。
聖女候補はハンカチで口元を押さえる。涙は落ちない。睫の先で止めたまま、同情の手を待っている。輪は広がり、重なり、床の上に見えない網を編む。
カタリナは、その網の外に立っている。
薔薇の赤だけが味方だ。踏みにじられても色は抜けない——そういう種類の赤。
右手の指先に力が入る。爪が手袋の布を押し、薄く跡をつけた。
背筋の線は真っすぐで、視線は王太子の瞳にかかっている。反論すれば、言葉は切り取られて別の意味にされる。ここで出す言葉は、敵にとって都合のいい形にしかならない。——だから出さない。今はそれが、最も高価な沈黙だ。
輪の外から、細い囁きが刺さる。
「やりすぎたのよ」「でも相手は庶民なんでしょう? 可哀想に」
誰が言ったのか分からない声ばかりが残り、顔はない。顔のない声ほど、後から強く残る。人は自分の言葉に顔をつけないでいたい時がある。それは責任の形に似ている。
王太子の青が、ほんのわずかに厳しくなる。
彼は、ここで優しさを見せるわけにはいかない。王太子は個人ではなく、制度であるべきだ。制度は涙を見ない。数字を見る。秩序を見る。
彼の頬に当たる光が角度を変え、金の髪が白く艶を増す。飾り羽根のように整った横顔。美しい形は、正しさの顔をして人々の目に映る。
聖女候補は、首をすこし傾けただけで、周囲の空気を味方に変えた。
ハンカチの縁は新しい糊が利いている。布が折れる音がかすかに鳴り、それが“場を守る音”のように聞こえた。
彼女の睫の先で止められた涙は、落ちないぶん、見る者の想像に仕事を与える。落ちる前の涙は、落ちた後よりも物語を生む。人は物語に同情する。だから、落とさない。
カタリナは、喉の奥で息を束ねて、胸の内側に押し戻した。
肩は動かない。顎は上がったまま。
赤い刺繍の薔薇は、胸の鼓動に合わせて微かに揺れる。糸の光沢が、彼女の努力の時間を反射する。
礼法の本をめくった回数。夜明け前に姿勢を整えた回数。発声の練習で舌の根が痺れた回数。——数えていなかった数が、たしかにここに縫い込まれている。
壁の紋章は動かない。
動かないものに囲まれると、人は自分だけが動いているように感じる。
その錯覚が、足から体温を吸っていく。石床は容赦がない。容赦のなさは、今の真実に似ている。
広間の隅で、小さな影が丸くなっている。
椅子の脚の陰。黒の毛並み。半分だけ開いた目。
その黒猫は、じっと舞台を見ていた。退屈そうな、しかしどこか楽しんでいるような目だ。口元に薄い笑みの形が残る。尻尾がゆるく左右に揺れる。
名はミラ。——いまは、まだ呼ばれていない。
司書官は文言を区切り、羊皮紙を持つ指を動かした。
文字は黒い。黒は便利な色だ。何にでも似合うし、何にでも混ざる。
黒い文字が白い紙に刻むのは、ここでの「正しさ」だ。正しさは、こうして形にされる。形にされると、もっと正しい顔をする。
ざわめきが、一斉に細る。
王太子が息を整え、前へ半歩。
靴の踵が石を打ち、響きが梁まで上がってから、降りてくる。
彼の口が開く直前に、誰かがスカートの裾を引いた。細い指。緊張した音。教育係だろう。彼は顔をこちらに向けず、ほんのわずかに頷いて合図を解いた。
次の瞬間、広間の空気は、結果の手前まで来た。
「本件は——」
王太子の低い声が、簡潔に枠を描いていく。
「私情ではない」「秩序のため」「やむを得ない」。
正しい言葉は短い。短い言葉は、嵐の前の杭のように地面に深く刺さる。抜けない。抜かない前提で打ち込まれる。
誰かが小さく頷いた。別の誰かが目を伏せた。
動作は小さいのに、結論だけが大きくなっていく。
結論は、こういう時ほど“足”を生やす。あちこちに歩いて広がる。
明日には、別の調子の言葉で語られる。後悔や、賛同や、軽い好奇心と手を組んで。
聖女候補は、胸に当てていたハンカチの角を少しだけずらした。
そこに、光が落ちて、布目が細かいことがわかった。端はすべて手縫いだ。針目が小さい。均等。——手間のかけ方を知っている人の布だ。
庶民出であるはずの彼女が、どうやってこの布を手に入れたのか。どうやって、どのタイミングでここまで整えてきたのか。
考え始めると、いくつもの「どうやって」が背後に並ぶ。並んだところで、今は意味を持たない。意味を持つのは、ここにいる人々が“見たいもの”だけだ。
カタリナは、視線を伏せない。
——伏せた瞬間、勝手に物語が書かれる。
彼女はそれを知っている。だから、目を逸らさない。
視線が痛む。眼窩の奥が軋む。
でも、痛みは彼女の言い訳にならない。痛みはただの感覚だ。
彼女はそれを“情報”としてだけ受け取り、肩の角度をほんの少しだけ正した。
すぐそばの列の端で、ひそひそ声が交差する。
「ほんとうにやったの?」「いいえ、でも、ほら……」
具体がない噂は、具体のある噂より早い。
それは形がないから、どんな器にも注げる。
器を選ばない液体のように、狭い隙間に入り込む。
王太子の声が止む。
司書官が軽く合図を送り、侍従が拍子木を持ち上げた。
木と木が触れ合う直前の静寂は、刃物に似ている。触れれば切れる。誰も息をしていないみたいだ。
刃が落ちた。
——乾いた音が梁に弾け、視線は一斉にカタリナから離れた。
人々は、彼女を見ないことで、結論を完成させる。
見るべき対象から目を外す。その仕草が、ここでは「決まりました」の合図だ。
彼らの靴は整然と向きを変え、導線を開ける。王太子の前に道ができる。
道ができるのは、誰かが進むからではない。誰かに進んでほしい者が、先に道を作るからだ。
輪は、輪の形を保ったまま移動を始めた。
中心にいる少女は、守られて移動する。
守られている姿そのものが、彼女をさらに守る。
守る人が多いほど、守られる人は、正しく見える。
正しく見える人は、間違いにくい。
間違いにくいと、人は安心する。
安心した人は、見ない。
退場の列にいる教師のひとりが、わずかに口を開きかけ、すぐ閉じた。
言いかけた言葉は、空気に吸われていった。
吸ってくれる空気があるうちは、人は沈黙する。沈黙は、責任がないからだ。
床の上に、赤いものが落ちていた。
薔薇の花弁。誰かの胸飾りから落ちたのだろう。
小さな靴が通りすぎ、花弁はかたちを崩す。
かたちを失っても、色は残る。
赤は、負けない色だ。負けても、目に残る。
カタリナは、その赤から目を外し、まっすぐ前を見た。
視界の端に、椅子の脚の陰がある。黒い毛がゆっくり動いた。
猫の尻尾。
黒猫は、丸くなった体勢をほどいて、前足を伸ばした。
その目は細い弧を作り、口元にゆるい線が残る。
笑いの形だと分かるほど、大きくは動かない。けれど、そこに在る。そういう種類の笑み。
——まだ、何も言わない。
音がすこし遠のき、光だけが場を満たした。
光は、感情の代わりにはならない。
けれど、照らし方で味方を選ぶ。
いまは、彼女の肩に薄い縁取りを落とし、輪郭をはっきりさせている。
“立っている”という事実を、誰よりもはっきりと示していた。
王太子が踵を返す。
彼の歩幅に合わせて、侍従が半歩後ろへ。教師が二歩分の間隔を保つ。
儀礼は、感情の代わりを務める。人は、儀礼に身を入れることで、感情の始末を先延ばしにできる。
それが王都の作法であり、学園の作法であり、ここに集う者たちの安全装置だ。
背後で、扉の金具が微かに軋んだ。
開く前の音。
音には、順番がある。開く音の前には、開く準備の音が鳴る。
準備の音は、なぜかいつも誰にも聞こえない。
聞こえない音こそ、物事を決める。
カタリナの足裏は、石の硬さをはっきりと覚えた。
石は動かない。動かないことが、いまの安定だ。
彼女は一度だけ瞬きをし、涙を戻した。
涙は、ここでは、彼女のために働かない。
だから、戻す。戻せるうちは戻す。
それが今日の勝ち目だった。
視界の端で、黒猫が耳の後ろをかいた。
かゆみをとる仕草に見えるが、合図にも見えた。
合図の中身は分からない。分からないままでいい、と彼は思っている。
——いまは、まだ。
扉が開いた。
冷たい外気が、ほんのわずかに入り込んだ。
それは風と呼ぶには弱すぎる。
けれど、埃だけは素直に反応した。
光の柱の中で、金色の粒がふっと流れ、また落ち着いた。
“風は正直”という言葉が、どこかで生まれる準備をしていた。
「以上だ」
王太子の短い結び。
短い言葉は、とどめの役目を負う。
長い言葉は、余地を残してしまうからだ。
人々は、余地を嫌う時がある。
余地があると、自分で考えなければならないからだ。
だから、短い言葉を好む。
今日の広間は、その性質でいっぱいだった。
司書官が、巻物の端を揃え、革紐をかける。
紐が鳴る小さな音が、やけに耳に残った。
耳は、こういう時、細かい音にしがみつく。
大きな結論が通り過ぎる時、細かい音に救いを求めるのだ。
黒猫は、椅子の脚の影から半歩だけ出て、また止まった。
その目は相変わらず細い。
口元のゆるい線は消えない。
尻尾が、一定の間を置いて左右へ揺れる。
彼は、舞台の片付けを見物する客のように、ただそこに居る。
居ることだけで、充分な役割を果たすことがある。
いまは、たぶん、それだ。
床の中央あたりで、誰かが小冊子を落とした。
ぱらぱら、という紙の端の音。
拾い上げる手があわて、ページが逆にめくれ、物語の終盤が冒頭へ戻った。
意味のない偶然。でも、偶然は比喩の顔をして近づく。
戻ったページは、始まりの言葉で、今日の終わりを塗りつぶした。
カタリナは、目を閉じなかった。
閉じるのはこの場が終わってからだ。
終わりは、いつだって誰かが決める。
けれど、目を閉じるタイミングくらいは、自分が決めていい。
彼女は、背筋の角度をもう一度だけ正した。
それで、前半の終わりに十分だった。
拍子木の音が梁でほどけ、壁に触れて薄くなって消えた。
消える音を追うように、足音が扉へ向かう。足音は最初、点。やがて線。最後は流れ。
流れの中に、感情は混ざらない。混ざりそうになると、靴底が石に押し戻す。
輪の中心にいる聖女候補は、肩に手を置かれた姿勢のまま、うなずきを配っていた。
配られたうなずきは、受け取った人の心を落ち着かせる。落ち着いた心は、疑わない。疑わない心は、善良だ。
善良であることは、ここでは勝利に似ている。
「お気の毒に」「どうかお気持ちを強く」
かけられる言葉は柔らかい。柔らかい言葉は、硬い事実を丸く見せる。
丸く見える事実は、角で人を傷つけない。
傷つかないことで、人は安心する。
安心は、ここでは正義だ。
教師の列にいた男が、ほんの一歩だけ遅れた。
彼は、口の端を動かしたが、音にはしなかった。
合理の顔の裏で、私情の影が揺れる。
その影は、この場では無意味だ。
無意味な影を抱えたまま、彼は列の速度に合わせた。
扉の前には、礼を整える空間がある。
礼を整えると、人は自分を整えた気になる。
気になれば、整ったことになる。
整ったことになれば、問題は片付いたことになる。
——そういう順番が、王都にはある。
最後尾に近い若い令嬢が、こちらを見た。
見て、すぐに目をそらした。
目が合ったことにならない速度だった。
合わなかったことにするための速度、とも言える。
彼女は、その速さを知っていた。
カタリナは、頬に触れた微かな熱を、意識の隅へ押しやった。
熱には名前をつけない。
名前をつけると、そこに形が生まれる。
形が生まれると、崩すのが難しくなる。
いまは、壊しやすいまま持っていたい。
床に落ちた薔薇の花弁が、靴の下で擦れた。
擦れる音は、小さな悲鳴のようにも、ため息のようにも聞こえる。
花弁には声がない。声がないものは、見られているときだけ生きている。
見られないと、存在は薄くなる。
それでも、色は残る。
残る色は、意思に似ている。
広間の隅の黒猫が、体勢を整えた。
背を伸ばし、肩甲骨の線をゆっくり動かし、前足を交差させてから、また戻す。
それはしなやかな動きだった。
しなやかさは、力がある者だけの贅沢だ。
力を見せびらかさないで、ただ“ある”ことを示す贅沢。
口元に薄い笑みの線が残る。
線は、声にしない笑いの形だ。
彼は、まだ黙って見ている。
黙っているくせに、存在感は薄れない。
むしろ、黙っているほど、彼の輪郭は濃くなる。
——そこに、皮肉の種がある。
聖女候補が、最後に一度だけこちらを見た。
その目には、憐憫が浮かんでいた。
憐憫は、与える側にとって快い感情だ。
快い感情は、正しい行いの証拠に見える。
証拠に見えれば、ますます快くなる。
そうして、輪は太る。
“輪”は、今日だけのものではない。
寄進者。教会。教師。王太子に近い家。
見えない糸は、すでに長い時間をかけて編まれている。
誰が編んだのかは、誰にも分からない。
分からない糸の網ほど、破れにくい。
司書官が、拍子木を二度目に鳴らした。
それは“本当に終わりです”の合図だ。
二度目まで数えるのが、この学園の流儀。
流儀があると、人は安心する。
安心した人は、次のことを考えない。
次が来るまで、何もしない。
扉が閉まった。
金具の音が、重く、長く、細く伸び、最後に小さく切れた。
切れた音のあとに残ったのは、光と、石と、三つの存在だけ。
カタリナ・フォン・ローゼンベルク。
黒猫。
赤い花弁。
静けさが、ゆっくり近づいてくる。
静けさにも歩幅がある。
早足の静けさは、驚かせる。
遅い静けさは、沈める。
今日の静けさは、遅かった。
沈める方だ。
カタリナは、胸の前の薔薇にそっと指を置いた。
刺繍の糸は固い。固いのに、光る。
固さと光は、矛盾しない。
硬いものほど、光をよく跳ね返す。
それが、彼女にふさわしい気がした。
呼吸をひとつ。
吐く息は短く、吸う息は長く。
順番を間違えると、涙が紛れ込む。
涙は、ここでは禁物だ。
禁物のリストは、頭の中に整然と並んでいる。
その先頭に、涙がある。
黒猫が、一歩、音もなく近づいた。
足裏の肉球が、石の冷気を奪う。
奪った冷気は、彼の体温に溶ける。
溶けて、なくなる。
なくなることは、彼にとって重要ではない。
重要なのは、いま、ここに居ることだ。
彼の目が細くなる。
目は、笑う前にも、怒る前にも、真剣になる前にも細くなる。
いまの細さは、どれなのか。
カタリナには、まだ分からない。
分からないままでいい。
——いまは、まだ。
壁の高いところで、光が角度を変えた。
太陽がほんの少し動いたのだ。
時間は、動く。
動いているのに、ここは止まっている。
止まっている場所で、動き続けるのは、意志だけ。
意志は、見えない。
見えないのに、ある。
彼女は、顎をわずかに引いた。
誰にも分からないほどの角度。
それだけで、次の場面に入る準備は整う。
場面は、誰かの合図で変わるものではない。
自分で決めて変えるものだ。
少なくとも、彼女はそうしてきた。
黒猫の尻尾が、短く右へ。
間を置いて、左へ。
それだけで、空気が少し緩んだ。
緩んだ空気は、彼女の肩にとって、ちょうどいい重さだった。
——このあと、彼は喋る。
けれど、いまはまだ要らない。
ことばは、最初の一言で関係を決める。
最初の一言は、軽くていい。
軽いのに、よく届く言葉。
それが彼に似合う。
だから、彼は、もう少しだけ黙っていた。
彼女の背筋が、最後にもう一度だけ伸びるのを、見届けるために。
光は、背中をまっすぐに描いた。
影は、足もとに短く落ちた。
石は、冷たいままだった。
冷たいままでいい。
冷たいままでも、立てる。
その確信だけが、場に残った。
そして、次の音が、静けさの底から上がってくる。
それは、猫の喉が鳴る音でも、拍子木でもない。
誰の所有でもない、小さな、はじまりの気配だった。
広間の扉の向こうで、遅れてきた風が、ほんの少しだけ動いた。
旗は揺れない。
けれど、埃は正直に流れた。
正直に流れた埃の軌跡が、彼女の足もとへ伸びて、そこで消えた。
——ここまでが、断罪の広間。
ここから先は、彼女と猫の番。
紙も、印章も、紋章も、拍子木も、何もいらない。
ただ、名前だけがあればいい。
ミラは、もう一歩だけ近づき、口元の線を薄くした。
笑いの線は、まだある。
でも、その奥で、次の言葉が形になっていた。
彼は、喋る。
そして、物語は、動く。
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