第18話 赤点と同位体

「安定を求めて崩壊するって…どういうことですか?」

少し重たくなった口に力を込めて開き、その隙間に滑り込ませるように、時折不自然に勢いづいた口調で先輩に言う。

崩壊というのが、崩れて無くなることを指すのか、別のものに変容することを指すのか。いずれにしろ存在そのものが危ぶまれるのだが、それを確かめずにはいられなかった。

「随分と食い気味だな、どうした?」

先輩は驚いた表情で身体を少しばかりのけぞらせた。

そこで俺は、自分の姿勢が喰いつくようにやや前かがみになっていることに気づいた。

「いえ…少し気になって…」

咄嗟に姿勢を戻し、目線をノートに戻して誤魔化すように言う。


先輩は立ち上がり、部室の出入り口のすぐそこに放置されているホワイトボードを運んできた。

「インクは…まだ出るな。それにしても随分と状態の良いホワイトボードだな。」

先輩は赤→黒→青→緑の順に試し書きをしながら言った。

「ほとんど使ってませんから」

使うとすれば暇つぶしに落書きをするくらい。

実質1人の部活で会議をすることも、その概念が必要になることもない。

「解説に入る前に文芸部部長に1つ交渉したい。良いか?」

先輩は限りなく未使用に近いホワイトボードに指の腹を走らせながら言った。

「はい?」

「このホワイトボードを調理部に譲ってもらいたい。厳密に言うと、交換だ」

「え?嫌ですよ。絶対に状態悪いじゃないですか」

別にこのホワイトボードに愛着も執着もあるわけではないが、この交渉を持ちかけてくる時点で調理部のホワイトボードが粗悪な中古品になっていることは容易に想像ができる。

こちらに損しかない取り引きを二つ返事で承諾するほどのお人好しさは生憎持ち合わせていない。


「まぁ、話を最後まで聞け。無論、アンフェアな交渉を強行するほど我が部は傲慢ではない。ホワイトボードの状態が悪い代わりにオーブンレンジをつけよう」

「オーブンレンジ?」

「我が部で1つ前に使っていたものだが、状態はかなり良い。料理や菓子作りをしないとしても普通の電子レンジとしても優秀だ。悪い条件じゃないだろ?」

どれだけホワイトボードが欲しいのだろうか。

そんな単純な疑問がさも当然かの如く頭に湧いた。

しかし、決して悪い条件ではない。寧ろかなり良い条件だ。

電子レンジがあれば、温かい弁当が食べられる。ホットミルクも作れる。

「…電気ポットも欲しいです」

少し欲を出して言ってみる。本当に言ってみただけ。

「やっぱり君も一国の主だね」

先輩は不敵さを含んだ余裕の笑みを浮かべながら言った。

「歴史が長いだけの島国ですよ」

「大きさだけが強さじゃないさ。君もよく知っているだろう?」

「なかなか良い比喩表現ですね。文芸部はいつでも歓迎しますよ」

「君、なかなかできるね。…交渉成立だ。要望通り電気ポットも追加しよう。備品譲渡の手続きは基本的に私に任せてくれ」

先輩の顔はどこか満足気だった。


「さて、話が横道に逸れたな。君の問いはつまり、安定を求めた崩壊の結末についてと言ったところか。簡潔に言えば、安定した別の物質になる。これは単なる比喩だが、蛹から成虫になるみたいなイメージだ」

先輩が説明しながら板書する。

文字を書いて、イラストを描いて、それを矢印で繋げていく。

道筋を残すように、いつ来ても大丈夫なように。

「蛹から成虫…」

「蛹は、幼虫から成虫になる中間的な過程だ。その内部ではほぼすべての細胞組織が溶解され、やがて成虫の身体に再構築される。すなわち、幼虫という弱くて不安定な身体は蛹の中で崩壊し、成虫という安定体になるわけだ」


胸の奥を内側から鋭利なスプーンで抉られたような気がした。

ずっしりと重くて、ズキズキと痛くて、治まることのない違和感が長く残る。

昔から大嫌いな感覚。


「まず、私は人間じゃない。そして、この身体は凄く不安定なんだよ。」

シオリは言った。この身体は不安定だと。

(ということは…幼虫?)

一瞬よぎった思考をその場で掻き消す。


「物質にはそれぞれ特有の性質を持っている。そして、不安定な状態もある。」

消した思考の隙間を埋めるように続きの言葉が浮かんでくる。

(…不安定な同位体)


「不安定な物質は安定を求めて崩壊する。崩壊ってさ、ある種の開放なんだよ。元々内に秘められていたエネルギーは、崩壊によって解き放たれる。周りの命を貫いては焼いてしまうくらいにね。」

(もう少し先…)


「触れるどころか私に近づくとね、死んじゃうんだよ。死ななかったとしてもただでは済まない。それが私に近づいては行けない理由。私がそれを許さない理由。」

(…)


「…ルリ先輩」

「ん?どうした?」

「不安定な同位体…放射性同位体は、ただ崩壊するだけですか?」

「良い質問だ。だが、名前からして大方察しが付くだろ?」

「…はい」


嫌な思考。それに、辻褄が合ってしまうのも、本当に嫌だ。


「どうかしたか?」

先輩が不思議そうに聞く。

「先輩、それって、例えばどんなものがありますか?」

さほど意味がない質問。

それでも、知らないと気が済まない。この不安を取り除けない。

確信を持ちたい。

気になればわかるまで追求するこの性分が今になって嫌になった。


「私もそんなに詳しくないが、たしか教科書の具体例にはトリチウム、炭素14、それと…コバルト60…だったかな」

先輩はそう言った後、ポケットからスマホを取り出して調べ始めた。

「うん…合ってるな。それにしてもどうした?ここは追試の範囲じゃないだろ?」

「いえ…少し気になっただけです」

「そうか…まぁ、知的探求心を持つことは良いことだ。だが、今は追試対策が優先だ。知りたいことがあるならいつでも聞きに来てくれて構わない」


先輩は再び俺の隣に座る。

そこからは、ひたすら追試対策の授業が行われた。

後になってから気づいたが、ホワイトボードの板書はそのままだった。

後で見返せと言わんばかりに。

それに従うように俺は帰り際に写真を撮った。


忘れてはいけないと思ったから。

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