第9話 空虚を埋めるもの
授業を受けながら問題集を解き進める。
俺の予想が正しければ今日、このページが宿題として出される。
「今日の授業はここまで。宿題は24ページ。忘れないように。」
俺の宿題終了。これで気兼ねなくのんびりできる。
手早く荷物をまとめて調理室に向かう。
その入り口を前にしてツムギと一緒に来ればよかったと今さらになって思った。
目の前の扉が開き、ルリ先輩と目が合う。
「おー、君か。随分と早いお出ましだね。」
「ルリ先輩、別に教室に長居する理由もないので。」
「そうか。まぁ、入れ。お茶を入れよう、部活開始までまだ時間がある。」
先輩は慣れた手つきで茶葉を急須に入れ、電気ポットでお湯を入れる。
2つの紙コップに注ぎ入れ、こちらに持ってきてくれた。
「お待たせ。火傷しないようにな。」
「ありがとうございます。いただきます。」
熱めのお茶を啜って一息つく。
「何かお茶菓子も出せたらよかったんだが、すまないな。」
「いえ…あ、これはどうですか?」
俺はバッグからお魚ピーナッツを取り出す。
「これは…ふふ(笑)、懐かしいな。」
先輩が笑う。小袋を開けて一つまみ、口に入れる。
「幼い頃、よく食べていたよ。あの時と同じ味だ。」
先輩の横顔は穏やかだった。長い黒髪、前髪には瑠璃色のヘアピンが蛍光灯の光をキラリと反射していた。
「先輩はすごいですよね。何でもできて、頼りがいもあって、皆の模範になってる。」
俺にはできないし、する気もない。
それでも…だからこそだろうか、混じり気もなく尊敬できる。
「急にどうした?…久々だね、そんな風に言われたのは。」
「普段から言われてますよね?」
「そんなことないさ。他者は常に『それ以上』を求めるからね。別に褒められたいわけじゃないが、基準が『模範』であれば、褒められるために満たす条件も多く、難しくなる。無論、私はそんなにできた人間じゃない。」
先輩はそう言って紙コップに口をつけ、ゆっくりと傾ける。
どこか飲みにくそうに、何テンポか遅れて喉が鳴る音が聞こえる。
「でも、先輩はちゃんと『模範』です。」
俺は事実を言う。先輩が微笑む。
「もし、そうじゃなかったら?」
微笑みに少しだけ影が落とされたような気がした。
「と言いますと?」
先輩はお茶を飲み干し、調理台に置く。
「君に問うが、わが校の校則は生徒の頭髪についてどのように定めている?」
「頭髪?たしか、染めるのとツーブロックが禁止でしたっけ?」
「…50点だな。だが、欲しい答えは言ってくれたから良しとしよう。」
そう言って先輩は見せつけるように長い髪をかき上げる。
黒に混ざって一筋に鮮やかな青色が見えた気がした。
「先輩、髪が…」
「気づいたかい?私だって、遊びたいんだよ。」
先輩はにやりを笑って、髪を手から離す。
インナーカラーってやつだろうか、表面からは見えない。
何もしなければ、その長い髪に完全に埋もれてしまっている。
放課後のチャイムが鳴る。
「そろそろ時間だね。」
先輩はそう言って立ち上がる。
「今日のことは2人だけの秘密だよ。」
俺の耳にそう囁き、ホワイトボードの前に立つ。
扉が開き、調理部員が続々と入ってくる。
「ハルキくん!先に行くなら言ってよ!」
ツムギが怒りながら近づいてくる。
「ごめんごめん。」
俺は適当に謝り、その場を収束させる。
文化祭で出す品は、昨日シオリが好きだと言っていたあのシンプルなクッキーになった。
俺の隣でツムギがわかりやすく不貞腐れている。
部活が終わった後、教室でしばらくの時間、ツムギを慰める羽目になった。
*
「で、今日遅くなったんだ。」
シオリが不機嫌そうに言う。
「別に時間の約束はしてないだろ?」
来るのがいつもより遅くなったのは事実だが、別に時間の約束をしていたわけじゃない。
「そうだけど…私が退屈じゃん!」
「えぇ…困ったなぁ…。」
そんなことを言われると返す言葉がなくなってしまう。
良心が痛むせいか、だんだんと自分が悪かったのではないかという錯覚に陥っては、そんなことないと言わんばかりに戻ってくる。
「それに、一緒にクッキー作ったって子、女子じゃん!聞いてないんだけど!」
「聞かれてないからな。」
「ふーん…ふーーん!そういうこと言うんだ!」
シオリは次々と口にクッキーを放り込み、ボリボリと音を立てては飲み込んで、また頬張る。
ほっぺを膨らませて、頬張ったまま睨んでくる。口をもぐもぐさせながら。
遅くなったお詫びにクッキーを全部あげたものの、シオリの機嫌は直る気配がない。
「共学の学校だし、文化部はほとんど女子だから自然とそうなるよ。」
言い聞かせるようにシオリに言う。
「…それ本当?」
少し考えるように間を置いてからシオリが言う。
「本当。」
「うーん…じゃあ、仕方ないか。」
ようやくシオリの機嫌が直ってきてくれた。
先輩といい、ツムギといい、シオリといい、今日はやけに振り回されているような気がする。気疲れとでも言うのだろうか。よくわからない疲労感がいつの間にか体の隅々まで満たしていた。
「…ごめん。」
シオリがポツリと謝る。
「別にいいよ。遅くなったのは俺も悪かったし。」
それに、シオリも嫉妬というか、感情を表に出せるのだとわかって少しだけ嬉しかった。無論、それは黙っておいた。
「私には…寂しさを埋めてくれるのは、君しかいないからさ。」
椅子の上で膝を抱えたシオリがポツリポツリと言う。
歯切れの悪さと寂しそうな表情が、その言葉が本音であることを証明しているようだった。
別に悪いことをしたわけじゃない。でも、少しだけ反省せずにはいられなかった。
俺は塀の上に仰向けに寝転ぶ。
夜空になりかけの空にはまだ数えられるくらいの星が見えていた。
今日はもう少しだけここにいることにしよう。
星が数え切れなくなるまで。
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