第十話 契約結婚
邸宅に戻ったフェデリカは、即座に養父に手紙を認めた。舞踏会での顛末を記し、アンヌンツィアータ家から勘当する形で、貴族籍から抜けたいと願い出た。大学の費用は1年ごとの返金額を取り決め、必ず返すと約束した。
――しかし翌々日伝書鳩が運んできた手紙には、ならぬ、とだけあった。
理由は分からない。しかし書かなかったということは、書くに値しない、或いは書けないのだと理解して、それ以上の説明は求めなかった。
かくなる上は何かしらの病の捏造か。不妊の疑いがあれば一番だが、月のものはきっかり1か月置きに来ているので難しいだろう。他で婚約を拒むほどの重病ともなれば、大学の在籍も危ぶまれるかもしれない。ついでに医学専攻の者たちから解剖の申し出が殺到することも目に見えている。
――どうしたものか。
婚約は家同士の繋がりを強固にするもの。他所の婚約に口出しすることは基本的には禁じられているから、貴族議会の助けも見込めない。精々フェデリカが身の程知らずだと叩かれる程度だろう。
国外逃亡や偽装死も考えたが、そうすると大学は除籍になってしまう。折角の研究や論文を置いていくのはあまりにも惜しい。アンヌンツィアータ家にも迷惑がかかるのでやめた。
八方塞がりだ。かくなる上は、王弟に動いてもらうしかあるまい。
王弟からの手紙が届いたのは、舞踏会から3日後のことであった。邸宅への呼び出し命令に、フェデリカは速やかに応じた。
「――王弟殿下に拝謁致します」
「堅苦しい挨拶はいい。顔を上げてくれ」
たった3日しか経っていないのに、王弟はいくらか窶れて見えた。
「......済まない。王命を覆すこと、叶わなかった」
息が止まった。かろうじて表情を取り繕うことには成功する。
「アンヌンツィアータ当主から辞退の申し出があったが、陛下はそれを黙殺された。
「......左様でございますか。では、婚約者としてよろしくお願いいたします」
王弟は驚いたように目を見開いた。構わず言葉を続けた。
「王命を覆すことが叶わないのであれば、白い結婚を理由とした婚姻の無効の申し立てを願います」
「......なるほど、承知した」
婚姻の無効はある程度神殿から批判を受ける。許可されて安堵した。
「王位を継ぐのはすぐではありませんよね。王弟妃、王太子妃という立場になるという理解でよろしいでしょうか」
「あぁ。必須公務には参席してもらわなければならないが、それ以外の期間は大学に戻って構わない」
「よ、よろしいのですか!?」
フェデリカは声を弾ませた。休学せねばなるまいと覚悟していただけに、その言葉は何よりも甘美な響きをしていた。
「ああ。陛下の我儘に巻き込んでしまったのだから、これくらいはさせてほしい」
「しかし、殿下の負担が増えてしまうのでは」
「構わない。研究のことを話している時の令嬢は、随分生き生きしているからな。普段の凍り付いた表情よりも、ずっと好ましい」
フェデリカは意表を突かれて目を見開いた。そんな風に見えていたのだろうか。気恥ずかしいような決まり悪いような気持ちに襲われて、ありがとうございますと頭を下げた。
「婚姻の無効後も、不自由なく暮らせるように手配しよう。現段階でも何か叶えたいことがあればできる限り叶えると約束する」
フェデリカは首を横に振った。元々己が立てた計画の余波でこのような事態になっているのだ。研究継続も認めてもらえたのに、これ以上を望むわけにはいかなかった。
契約書を作成し署名すると、沈黙が落ちた。供された紅茶はすっかり冷めきっている。
「――非礼を承知で尋ねる。令嬢に、想い人はいないのか」
おもいびと、という単語を理解するのに一拍の間があった。
「おりません。愛や恋は、私の理解の範疇の外にあります」
母のことは覚えていない。父は家を空けることが多く、どこか距離があった。貴族学園の友人とは親しくしているが、愛かと言われると戸惑う。大学の知り合いは、いい意味で頭がおかしい。
「そうか......私もだ」
フェデリカは目を瞬いた。確か王弟は、既に亡くなった人に心を捧げているのではなかっただろうか。フェデリカの困惑が伝わったのか、ああ、と王弟は苦笑する。
「好いた人が死んだというのはでまかせだ。縁談が鬱陶しくてね。誰かを好きになったことはないよ」
「左様でございますか」
なら良かった。少しそれが気にかかっていたから。
「――3年と少しの間、よろしく頼む」
差し出された手を、フェデリカは握り返した。
***
フェデリカは婚約手続きの為、王宮に参内していた。辺境伯家当主の署名がある書類を提出し終わったので、あとは神殿に行けばおしまいだ。
足取りも軽く正門に向かっていると、不意に前方から喧騒が聞こえた。大陸共通語ではなく、海上諸国の言葉だ。
——紫の瞳の、海の王国の男。
避けよう、と判断を下したのは一瞬のことだ。曲がり角で右に曲がり、庭園に降りる。奇しくもかつて訪れた迷宮庭園だった。あの時からもう2か月経っている。咲き誇る花々は随分様子を変えていた。
適当にやり過ごそう、と花の迷路に足を踏み入れた途端、視界が暗くなった。衝撃があって、誰かとぶつかったのだと理解する。
「わぶっ」
「申し訳ない。大丈夫だろうか」
「いえ、私も前方不注意でした——」
謝罪しかけて、フェデリカは絶句した。
褐色の肌。光沢のある白い髪。筋骨隆々な体つき。こちらを見下ろす瞳の色は——紫。
「もしや、デアンジェリス令嬢だろうか。物理学の」
「え......あ、はい。アンヌンツィアータ家の養子となり、大学以外ではアンヌンツィアータを名乗っておりますが」
大学で初めて共著者になった時はまだデアンジェリスを名乗っていたので、大学では未だにデアンジェリスで通っている。
「ああ、そうであったか。失礼した。プロヴェンツァーレ令嬢から話は伺っている」
あぁ、と呟いて男は一礼する。学者らしからぬ、騎士のような振る舞いだった。
「名乗りもせず失礼した。私は海の王国エスピノサ領主が息子、ベルトラン・ラミロ・デ・エスピノサ。以後よしなに」
——あなたに似ているの。
ペネロペの言葉が頭に浮かんで消えた。
***
『こちらにおいででしたか、エスピノサ様!』
侍従の安堵した声が背中に掛けられる。早く国王陛下の元へ、と急かされながら、ベルトランは先程までこの場にいた令嬢を思い起こしていた。
——フェデリカ・ヴェルディアナ・ディ・デアンジェリス。いや、アンヌンツィアータか。
大学合同研究会の後、ついでに王宮に行ってくれ、と言われて引き受けたのは、彼女が大学か王宮のどちらかにいるからというところが大きい。一度、見てみたかった。父から、物理学専攻の友人から聞いた彼女を。
——随分と、絶望的な顔をしていたが。
同じ紫色の瞳。国外に出た経験が少ないせいもあろうが、ベルトランは己以外でその色を見たことがなかった。しかし黒い髪と白い肌、それだけで随分と印象が変わるものだ。
ベルトランは前方から早足でやってくる男を認めて目を細めた。
「この度は突然の訪問にも関わらず歓待していただき、誠にありがたく存ずる——王弟殿下」
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