第十七話 帰宅の最中

 さて──決まったな。もう今日は帰るか。

 ピザバーの残り香が漂う部屋を見回しながら、肩をぐるりと回す。今日は妙に長い一日だった。


「助かった、チップは後は好きにしてくれ」


 俺の言葉に、ドクターが片眉を上げて見上げてくる。


「……いいのか? 俺は助かるが、お前さんにとっちゃ武器になるかもしれねぇ代物だろう」


「ああ、構わんさ」


 俺は軽く手を振って笑う。必要になったら、また“用意できる”からな。 

 ドクターは大げさにため息をつき、白衣の裾をひらつかせながら肩をすくめる。


「はぁ……お前さんはまったく、適当っていうか豪気っていうか。羨ましい限りだぜ」


 やれやれと手を上げて首を振る仕草が妙におっさんくさい。

 その姿でやるなよ、笑えてくるだろ。


「で、この後はどうすんだ? 飯でも食っていけよ。ソリスも喜ぶぜ」


 俺は首をフルフルと横に振った。


「いや、今日はもう疲れた。顔見せたら、たぶん捕まるしな」


「全く……ソリスが泣くぜぇ。たまにゃ構ってやれよ」


 えー、嫌だよぅ。今日はもう帰るんだって。

 俺の嫌そうな顔を見て、ドクターも提案を引っ込めた。


「ま、強制はしねぇさ」


 ドクターがひらりと手を振る。


「じゃ、裏口から出た方が早えな」


 その背中を追いながら私室を出て診療室へと進む。向かった先には、入ってきたドアとは別のドアがあった。

 他の設備に比べると古びた印象で、幅も狭い。大人ひとりが通るのがやっと。チープなパネルがかろうじてセキュリティを主張しているが、緊急脱出用の経路だからこんなもんだろう。


 ドクターがドアロックのレバーをぐいと引くと、ガコン、と低い音を立てて扉が開いた。

 中は暗く、狭い。床らしきものもなく、下を覗き込むと、黒い空洞がどこまでも続いているように感じる。


 ……相変わらず、どっからどう見てもダストシュートだ。速いのはいいが、最初にここを使ったときは心底肝が冷えたもんだ。


「それじゃ、またな」


 そう言って俺は一瞬の躊躇もなく、その闇に身体を預ける。


「気をつけろよぉー」


 ドクターの気の抜けた声が、風切り音にさらわれるように遠くへ流れていく。

 俺は重力に身を任せ、風を切って暗闇を滑り降りていった。




 * * *




 ドスン、と鈍い音が響いた。

 それほど派手な衝撃じゃないが、狭い空間だから反響してやけに耳に残る。舞い上がった埃が鼻に入り、思わず軽く手で顔を払った。


 ……毎度のことだが、ここの着地は慣れん。


 周囲を見渡す。明かりはなく真っ暗だが、壁の隙間から洩れるネオンの光がぼんやりと差し込み、輪郭くらいは見て取れる。

 ひしゃげたテーブルに、用途不明のボックス類、そして"どう見てもゴミだろ"って代物の山。──まぁ、ここは《ノクターン・ヴェール》の倉庫だ。

 不自然に見えないよう、着地地点には緩衝材が敷いてある。


 見上げると、さっきまで落ちてきた穴がぽっかりと口を開けている。事情を知らないやつが覗けば、ただの通風孔にしか見えんだろう。


 さて、と……。

 何事もなかったかのように埃を払って倉庫を抜ける。従業員エリアが近づくにつれ、匂いが変わる。スパイスと油の香り──ああ、確かこの辺り、キッチンがあったな。腹も減ったし、何か貰って帰るか。


 そう思った矢先、通路で鉢合わせた若い従業員に声をかけられた。


「あ、あんた、こんなとこで何を──っ!? って、旦那じゃないですか! え、どっから入ったんです?」


《お、おいマジかよ、なんでこんなとこに!? いや、旦那くらいの人ならいても不思議は……いやでも……ま、怒られはしねえ、かなぁ》


 内心が顔に出まくってる。まあ俺のことを知ってるなら話が早い。


「んー、裏の様子をちょっと見に来ただけさ。悪いな、オードブルセットでも持ってきてくれねぇか?」


「は、はいっ! すぐに!」


 慌ただしく駆けて行ったかと思えば、すぐにパッケージを抱えて戻ってくる。律儀に外まで案内までしてくれるもんだから、端末でチップを転送してやると、満面の笑みで腰を何度も折って礼を繰り返してきた。


 ……こういう地道なことが、あとで生きてくることもあるからなぁ。人付き合いで金払いを惜しまない。

 金の切れ目が縁の切れ目ともいうしな。


 従業員用の勝手口から外へ出ると、入口付近はさらに人でごった返していた。俺が入る前よりも盛況だ。

 ふむ、儲かってるようで何より。


 愛車に近づくと、ガードが二人ついているのに気づく。店側の気遣いらしい。軽く手を上げ、二人にもチップを渡してやると、これまた深々と頭を下げられる。


 運転席に乗り込み、バタンとドアを閉める。音に気づいたのか、VIP入口で客を捌いていた大男がこちらを振り返った。俺の姿を見て、慌てて動きかけるが、すぐ次の客が来たせいで、あっちを見たりこっちを見たりと忙しなくワタワタしている。


 にやり、と笑ってエンジンを吹かし、窓越しに軽く片手を挙げてやる。男は観念したように、ペコリと頭を下げてから、VIP客の応対に戻った。


 俺はそれをバックミラー越しに流し見しながら、街の車の流れへと溶け込んでいく。



 * * *



 下層へのゲートは、この時間だと限られてくる。

 二十四時間稼働のゲートもあるにはあるが、そこまで回り道する気にはならない。今いる位置から最も近く、まだ開いているゲートの場所を頭に描きながら、車を走らせていた。


 《ノクターン・ヴェール》のある地区はもうとっくに抜けている。ここは昔の工業地区──今では使われなくなった倉庫や工場が点々と残るだけの荒れ地みたいな区画だ。

 ぽつりぽつりと照明灯が立つだけで、人影はない。郊外の廃工場地帯に夜中ひとり迷い込んだような、そんな気配。


 後方をちらりと見れば、遥か彼方にビル群の輝きが霞んで見える。ネオンの海を背に、今この道を照らしているのは、愛車のヘッドライトだけだ。

 正直、この辺りが一番平和なんじゃないか──そう思った瞬間だった。


 バックミラーに、不自然な光が点いた。


「……あ?」


 一瞬にして数が増える。二つ、三つ……いや、もっとだ。

 ヘッドライトがこちらをロックオンした獣の目みたいにギラギラと輝き、猛然と迫ってくる。


 俺の車も既に時速百キロは出している。にもかかわらず、あいつらはあっという間に距離を詰めてきた。


 なんだ、走り屋崩れか……?


 そう思ったのも束の間。暗がりに紛れた車体の天井から、黒光りする“長物”がせり上がった。銃口だ。


「チッ──!」


 反射的にハンドルを切る。

 直後、背筋を逆撫でする轟音。


 ズドドドドド!


 青白い閃光が、さっきまで俺のタイヤが走っていたアスファルトを薙ぎ払う。プラズマ弾だ。地面が抉れ、火花と煙が舞い上がる。

 ハンドルをこじる腕に力を込め、暴れる車体を無理やり押さえ込む。腹の底から嫌な汗が噴き出した。


「おいおい……大盤振る舞いじゃねえか!」


 だが、終わりじゃない。ミラーに映る二台目、三台目の車体。その屋根からもガトリング砲がせり上がり、ぎゅるぎゅると回転を始める。

 回転数に比例するように、緑青色のエネルギー火花が散り、夜闇を塗りつぶす閃光が、俺めがけて解き放たれた。


 空気が焼け、風切り音に混じってプラズマ弾が唸りをあげる。

 後ろから追ってきた連中の銃火が、工業地帯の寂れた夜を一瞬で戦場に変えた。

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