第22話 貧民街を視察
アブリルがその財力と技術力の粋を集めて作り上げた地下アジトは、快適そのものだった。
清潔な空気、快適な温度、そして豪華な食事。
物質的には、何一つ不自由はなかった。だが、アデルにとっては、日に日に息苦しさが増していくばかりの鳥かごでしかなかった。
過保護な教え子たちに四六時中その行動を監視され、本人の意思とは無関係に反乱組織の総帥に祭り上げられる。
彼のささやかな願いは、常に誰かの「先生のため」という善意によって握り潰されてきた。
ある日の朝食後、アデルは淹れたての珈琲が揺れるカップを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「少し、外の空気が吸いたい」
その一言で、場の空気が凍った。即座に反応したのはカイネだった。
「危険です、先生! 地上は敵の目もございます! 万が一、先生の身に何かあっては…!」
「お庭でしたら、この地下に作ることもできますよ?」
アブリルがこともなげに、しかし真剣な表情でとんでもない提案をする。
「太陽光の再現から、そよ風の強弱、小鳥のさえずりに至るまで、完璧な環境を構築いたしますが?」
「外の空気など、魔法で再現できますわ」
チナツは表情一つ変えずにカップを置き、淡々と告げた。
「成分、温度、湿度、寸分たがわず。ご希望であれば、森の香りや潮の香りも付与できます」
三者三様の、しかし完璧にアデルの自由を封殺する提案に、彼は深いため息をつきたくなるのをこらえた。
その息苦しい空気を破ったのは、テーブルの脚に寄りかかって腕を組んでいたシエルだった。
「ったく、お前らは…鳥かごで鳥を飼う気かよ」
呆れたような声に、三人の視線が突き刺さる。
「シエル! 先生の御身を案じての発言です!」
「ですが、カイネさんの言う通り危険なのは事実ですわ」
「合理的判断です」
「人間、たまには陽の光を浴びて、土を踏まねえと腐っちまうんだよ」
シエルはアデルに向き直り、ニッと笑った。
「だろ、先生? 俺がついてってやる。この辺りの案内も護衛も、そこらの騎士様よりよっぽど役に立つぜ」
「しかし…!」
なおも食い下がろうとするカイネたちを、シエルが鋭い視線で射抜く。
「俺がついてて、何か問題あるってのか? それとも、なんだ。俺が信用できねえと?」
「そ、そういうわけでは…!」
渋々ながらも引き下がった三人に、シエルは勝ち誇ったように笑い、アデルは安堵の息を漏らした。
こうして彼は、ほんの束の間の自由を手に入れたのだった。
シエルに案内され、アデルは初めてアジト周辺の貧民街をその目で詳しく見て回った。
アジトに運び込まれた当初は疲労困憊で、周囲の様子を窺う余裕などなかったのだ。
そして、彼が目の当たりにした光景は、想像を絶するものだった。
舗装されていない道には汚水が澱み、鼻をつく悪臭を放っている。
家々は今にも崩れそうなほどに朽ちており、隙間風を防ぐために汚れた布が詰め込まれていた。
だが何よりアデルの胸を抉ったのは、そこに住む人々の姿だった。
誰もが土気色の顔で、その瞳からは生気が失われている。
痩せこけた子供たちが、食べられるものはないかとゴミの山を漁り、道端に座り込んだ老人たちは、壁に寄りかかったまま虚空を見つめている。
すれ違う者たちの誰もが、猜疑心と諦めに満ちた目でアデルたちを一瞥し、すぐに視線を逸らした。
「……ひどいな」
アデルの口から、絞り出すような声が漏れた。
「これが…王都の、一部だというのか」
「ああ。これが、この国の現実だよ、先生」
隣を歩くシエルが、静かに答える。
「王城や騎士団の詰め所からじゃ、こんなもんは見えねえさ。見ようとしなけりゃ、な」
アデルは唇を噛みしめた。自分は聖騎士として、教官として、この国に貢献してきたつもりでいた。
王都の平和と秩序を守っていると、そう信じて疑わなかった。
しかし、その輝かしい功績のすぐ足元で、こんなにも多くの人々が人間らしい生活さえ奪われ、ただ息をしているだけの毎日を送っていたのだ。
罪悪感と、どうしようもない無力感が鉛のように彼の心を沈ませていく。
「俺は…聖騎士として、一体何を見てきたんだろうな…」
「あんた一人のせいじゃねえよ」
シエルは吐き捨てるように言った。
「王族も貴族も、見て見ぬふりをしてるだけだ。自分たちの豪華な暮らしが、こいつらの犠牲の上に成り立ってるなんて、考えたくもねえのさ」
その言葉は、何の慰めにもならなかった。
むしろ、アデルの胸に深く突き刺さるだけだった。
重い足取りでアジトに戻ったアデルの目に、ダイニングの隅に無造作に積まれた食材の山が飛び込んできた。
それは、昨夜の豪華すぎる晩餐で使い切れなかった猪の丸焼きの残りや、カゴに山盛りになったジャガイモやタマネギだった。
それを見た瞬間、アデルの中に一つの衝動が生まれた。
先ほど見た、生気のない瞳。ゴミを漁っていた、小さな背中。それらが脳裏をよぎり、彼を突き動かした。
「シエル、みんなを集めてくれ。これで、炊き出しをしよう」
「…は?」
アデルの唐突な提案に、集められたカイネたちは目を丸くした。
「なっ…!? 炊き出しですと!? 先生、何を考えておられるのですか! これは我々の貴重な兵糧です! 民に分け与えるなど、軍略の基本が…!」
「衛生的ではありません。調理環境も、配給時の管理も、食中毒のリスクを考慮すれば許可できません」
チナツが冷ややかに分析する。
「もっと効率的な食糧配給のシステムを構築しますが? 個体識別によるカロリー管理と、栄養バランスを最適化したレーションを開発し、各戸に…」
「議論は無用だ」
アデルは、アブリルの壮大なプランを遮り、低いが、有無を言わせぬ強い声で言った。
「腹を空かせた子供たちがいた。力なく横たわる老人がいたんだ。俺は、それを見て見ぬふりはできない」
彼は、教え子たち一人一人の顔をまっすぐに見据えた。
「いいから、やるんだ。困っている人がいるのに、背を向けることなど俺の信条に反する。…これは、総帥命令だ」
初めてアデルが使った「総帥命令」という言葉に、少女たちの動きがぴたりと止まった。
いつも穏やかで、彼女たちに振り回されてばかりだった男の瞳に宿る、決して揺らぐことのない真剣な光。
その気迫に、誰も逆らうことはできなかった。
「…総帥命令と、あらば」
最初に折れたのはカイネだった。
「…了解。衛生管理は、私の魔法で完璧に行います」
チナツが静かに頷く。
「分かりました! でしたら、私が最高の調理器具と熱効率を誇る魔導コンロを準備いたします!」
アブリルが目を輝かせた。
不承不承ながらも、やるからには全力。
それが彼女たちだった。
シエルだけが、その様子を面白そうに、そしてどこか誇らしげに見つめていた。
アジトの地上出口の前に、アブリルが持ち出した巨大な寸胴鍋が据えられた。
カイネが手際よく猪肉を捌き、アデルとシエルが山のような野菜の皮を剥いていく。
チナツが魔法で水を浄化し、アブリルが「熱効率300%アップですわ!」と叫びながら魔導コンロの出力を上げた。
やがて、猪肉と野菜がたっぷり入った栄養満点のスープが煮え立ち、食欲をそそる香りが貧民街に漂い始めた。
しかし、その匂いに誘われて顔を覗かせた住民たちは、遠巻きにこちらを眺めているだけだった。
彼らの瞳には、好奇心よりも深い猜疑の色が浮かんでいる。
「…また貴族の気まぐれか」
「どうせ後でとんでもない金を請求されるんだ」
「毒でも入ってるかもしれねえぞ…」
ひそひそと交わされる声が、アデルの耳にも届く。
彼らはこれまで、何度も気まぐれな慈善に裏切られ、踏みにじられてきたのだ。
タダで温かいものが食べられるなど、信じられるはずもなかった。
アデルは鍋の前に立つと、穏やかな声で呼びかけた。
「さあ、みんな、遠慮しないで食べてくれ! 温かいスープだ。腹の足しにしてくれ!」
彼の飾り気のない、誠実な声。しかし、それでも人々の足は動かない。
その時、一人の幼い子供が、母親の制止を振り切って、おそるおそる空の器を手に近づいてきた。
アデルは屈み込むと、子供の目線に合わせて微笑んだ。
「坊や、一番乗りだな。熱いから、気をつけてな」
アデルは、なみなみとスープを注いでやった。
子供は、周囲の大人たちの視線を浴びながら、恐る恐るスープを一口啜る。
そして、目を大きく見開いた。次の一口、また一口と、夢中になってスープを啜り、やがてその小さな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……おいしい」
そのか細い一言が、引き金だった。
堰を切ったように、人々が器を手に集まってきた。
「お、俺にもくれ!」
「こっちにも!」
「ありがとう、ありがとう…!」
アデルたちは、休む間もなくスープを配り続けた。
「まったく、非効率な…! ほら、並んでください!」
カイネは文句を言いながらも、見事な手際で人々を整列させる。
「塩分濃度、許容範囲内……」
チナツは冷静に分析しながら、正確にスープを注いでいく。
温かいスープは、人々の冷え切った体を温め、空腹を満たした。
だが、それだけではない。長年の不信と絶望で凍てついていた彼らの心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていった。
人々はスープを飲み終えた後もその場を去らず、アデルたちに深々と頭を下げていく。
その表情には、ほんの少しだが、確かに生気が戻っていた。
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