第14話 カイネ、暴走

国境警備隊の砦の一室。

起き上がれるまでに体力が回復したアデルは、窓辺に立つ教え子、カイネの背中に向かって必死に言葉を紡いでいた。


「カイネ、頼むから早まるな。君の気持ちは、本当に嬉しい。だが、国を相手に事を構えるなんて、無謀すぎる。それに、君や君の部下たちを反逆者にするわけにはいかない」

「……」

「まずは、国王陛下に書状を送ろう。私が健在であること、そして全てが一部の者たちの策略であったことを伝えれば、きっと誤解は解ける。話せば、きっと分かってくれるはずだ」


アデルの懇願に、カイネはゆっくりと振り返った。

その美しい顔には何の感情も浮かんでいない。

彼女はアデルの傍らの机に歩み寄ると、広げてあった地図をトン、と指で叩いた。


「先生。腐敗した組織の上層部に話し合いは通用しません。それは、先生が戦術論の授業で、最初に教えてくださったことではありませんか」

「そ、それは軍略の話であって、政治とは……!」

「同じです。彼らが理解できる言語は力だけ。戦場における鉄則ですよ」


彼女は地図の上、王都へと続く最短ルートを指でなぞりながら淡々と続けた。


「それに、これは無謀ではありません。勝算は十分にあります。先生は、私が無策で動くとお思いですか?」


その瞳には、一切の迷いも揺らぎもなかった。

アデルは言葉に詰まる。目の前にいるのは、かつての教え子であると同時に、数百の部下を率いて幾多の死線を越えてきた歴戦の指揮官だ。


「だが、しかし……!」

「先生、お疲れでしょう。もっと休んでいてください。顔色がまだ優れません」

「いや、そういうことではなくてだな!」

「喉が渇いていませんか?新しい水を持ってこさせます。それとも、温かいスープの方がよろしいですか?」


カイネはアデルを気遣う優しさを見せながらも、巧みに話を逸らしていく。

その瞳の奥にある鋼のような意志は、アデルの言葉をことごとく跳ね返していた。

彼女はすでに、全てを決めていた。




アデルが為す術もなくベッドに腰掛けている間に、砦の中は王都へ向かうための準備でにわかに活気づき始めた。

窓の外から聞こえてくるのは、兵士たちの力強い掛け声、武具が擦れ合う金属音、そして馬のいななき。


カイネは、自身の直属の部下である精鋭部隊三十名を選抜し、出撃命令を下していた。

彼らはカイネが育て上げた、一騎当千の兵たち。

カイネの命令であれば、たとえそれが国家への反逆であろうと、一切の疑問を抱かずに従う、狂信的なまでの忠誠心を持っていた。


「おい、馬の蹄鉄は確認したか!これから長旅になるんだ、念入りにやれ!」

「兵站部隊!荷物は最小限に絞れ!我々に必要なのはスピードだ!」

「スターロ閣下のための馬車も用意するか?」

「いや、カイネ隊長のご命令だ。最高の軍馬を用意しろと。閣下は我々と共にあることをお望みのはずだ!」


兵士たちの会話が断片的にアデルの耳に届く。

その全ての動きはあまりに効率的で、無駄がなく、まるで長年かけて準備してきた作戦を実行に移しているかのようだった。


アデルは、その光景を呆然と眺めることしかできなかった。

止めようにもカイネは聞く耳を持たない。

逃げ出そうにも砦の出入り口は屈強な兵士たちに固められており、そもそも衰弱した体ではどうしようもなかった。


そこへ、カイネの副官らしき若い兵士が、アデルの武具一式を手に部屋へ入ってきた。


「スターロ閣下。ご準備を」

「……君たち、本気なのか?これは反乱だぞ。分かっているのか」

「反乱ではありません。これは、正義を取り戻すための戦いです」


兵士は、何の悪気もなく、純粋な尊敬の眼差しでアデルに微笑んだ。


「先生は、我々が責任を持ってお守りします。あなたは、ただ玉座に座っていてくだされば良いのです」

「玉座だと……?」


アデルはめまいがした。

自分がいつの間にか、革命のシンボル、いわば神輿として担ぎ上げられている。

その事実に、胃がキリキリと痛んだ。




出発の時刻が来た。

アデルはカイネに促されるまま、立派な鞍が置かれた純白の軍馬に乗せられた。

周囲には、完全武装したカイネの精鋭部隊が整然と隊列を組んでいる。


彼らは皆、アデルに対して、尊敬と崇拝に満ちた眼差しを向けていた。


「あれが、あのカイネ隊長を育て上げた、伝説の教官……」

「おお……なんと威厳のあるお姿だ……」

「あの方のためなら、この命、惜しくはない!」


彼らにとってアデルは、腐敗した王国を正すために現れた救世主だった。

その熱のこもった視線がアデルの背中に突き刺さる。


カイネは、自らの黒馬をアデルの隣につけると、抜き身の剣を天に掲げ、全軍に向かって号令をかけた。


「目標、王都!我らが師、アデル・スターロ閣下の名誉を回復し、この国に真の正義をもたらす!出陣!」


「「「オオオオオォォォッ!!」」」


大地を揺るがすような雄叫びが荒野に響き渡る。

その凄まじい士気にアデルは思わず身をすくませた。もう、後戻りはできない。


アデルの意思とは全く関係なく、カイネ率いる小さな反乱軍は、王都へ向けて進軍を開始した。

馬上で揺られながら、アデルは何度も深いため息をついた。一体、どうしてこんなことになってしまったんだ。


道中、アデルは諦めずにカイネに話しかけた。


「カイネ、本当に考え直してくれないか。君たちの未来を、俺のために潰してほしくないんだ」

「先生。我々の未来は、先生をお守りすることにこそあります」

「そんなことはない!君たちには、もっと明るい未来があるはずだ!」

「先生のいない国に明るい未来などありません。価値もありません」


会話は常に平行線だった。

彼女の純粋すぎる忠誠心と過激な正義感が、アデルには眩しくもあり、恐ろしくもあった。




数日後、一行は王都の城壁が見える丘の上まで到達した。

眼下には、自分が追放されたばかりの見慣れた街並みが広がっている。


カイネは馬を止めると、王城を真っ直ぐに見据えた。

風が彼女の髪をなびかせる。その横顔は、決意に満ちて、美しくさえあった。


「先生。もう少しです」


彼女は、アデルの方を振り返り、静かに微笑んだ。


「あの城にいる愚か者どもに、本当の力というものを見せつけてやります。先生から教わった、本物の戦い方を」

「カイネ…やめて…」


絞り出すようなアデルの声は、風にかき消された。

彼の脳裏には、これから王都で繰り広げられるであろう、血なまぐさい戦闘と混乱の光景が浮かんでいた。


平和的に解決したい。

ただ、それだけを望んでいるのに事態は最悪の方向へと突き進んでいく。


そして、その中心に自分がいる。

力づくで、すでに歴戦の猛者となったカイネを止めることはできないだろう。


この状況を誰か止めてくれ。

アデルの心の叫びは誰にも届くことなく、王都へと続く丘に虚しく響いた。

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