私の小舟へ。
マグロ解体
第1話_私の小舟へ
私にはよく、こんな錯覚が訪れる。私と母は、一枚の鏡の内と外に生きている人間なのだと。私たちはよく似た動作をし、同じ一枚の水銀に隔てられた空気を吸っているのに、互いの指先に触れることは永遠に叶わない。母はいつも、私への書き置きにこう綴る。「私の小舟へ」。しかし、この私という舟は、とっくの昔に母の港を離れてしまったらしい。ただ「家」という名の一枚の海図だけを頼りに、盲目的に航海を続け、揺蕩い、揺蕩い、岸辺のない海を彷徨っている。
今朝も、同じだった。
七時。設定された電子音が閃光のように鼓膜を叩き、私はプログラムされた反射機械のように手を伸ばしてスマートフォンを掴み、アラームを止めた。寝室は静寂に包まれている。ベッドに仰向けのまま、私は再び瞼を閉じた。あと五分眠りたいわけじゃない。ただ、全ての感覚を聴覚に集中させるため――捉えるためだ。ドアの向こうに存在するかもしれない、ほんの僅かな、どんな些細な物音でも。蛇口が捻られ、そして止められる音。竹編みのスリッパが木の床を擦る、サラサラ、カタカタという音。あるいは、彼女が洗面台の脇に木櫛を戻す、ただそれだけの、カタンという軽い音さえも。
何の音もしなかった。
起きなければ。
カーテンの隙間から陽光が突き刺さり、空気中に光と塵の軌跡を幾筋も描き出していた。でも、彼女がここに来たことはわかっていた。ふわりと漂う梔子(クチナシ)の香り――それが彼女の残した指紋。まるで、昨夜から続く夢のように、そこはかとなく。
裸足でベッドを降り、リビングへ向かう。食卓の上には、温かい茶色の両手付きの椀がガラスの蓋で静かに覆われていた。中身は、刻みネギと肉でんぶが散らされたピータン粥で、隣には小さな一皿の焼き餃子が添えられている。指の腹で椀に触れると、ちょうどいい温度が伝わってきた。それは残酷なまでに正確だった。まるで彼女が、一分一秒の狂いもなく私の体内時計を把握していて、最適なタイミングで朝食を温め、私が目覚めるその一秒前に、玄関のドアを閉めて出ていったかのようだ。箸を取りにキッチンへ行くと、シンクには乾ききっていない水滴が残り、水切りラックの食器もまだ湿り気を帯びていた。
「私の小舟へ。洗濯物を干す時間がなかったから、お願いね」
母の字で書かれたメモが、今日も律儀に冷蔵庫のドアに貼られていた。私はそれを丁寧にはがし、二つに折り、さらに二つに折って、棚に置いてあるクリスマス菓子のブリキ缶にしまった。中には、これまでのメモがぎっしりと詰まっている。もうすぐ、いっぱいになる。
洗濯機のランプはすでに消えていた。ドアを開けると、洗濯洗剤の清々しい香りと湿った布の匂いが鼻をつく。昨夜脱いだ制服と下着はきれいに洗い上げられ、タオルや他の衣類と共に、ドラムの奥で静かに絡み合っていた。まるで、身を寄せ合って暖を取る小動物の群れのようだ。それらを一枚一枚つまみ上げ、広げ、物干し竿に掛けていく。雫が服の裾から滴り落ち、朝の光の中で、一瞬で消えゆく虹を描いた。
部屋に戻ると、机の上に学級費と小遣い用の新札が数枚、本の重石で押さえてあった。隣には来週の遠足の知らせの返信があり、そこには彼女の、流れるように美しい黒インクのサインが記されていた。
サインは、私がイベントに参加する許可をくれた。お札は、私が集団に溶け込むための自信をくれた。それはまるで、食卓の温かい食事が私に満足を与え、ベランダの清潔な衣服が私に心地よい身だしなみを与えてくれるのと同じだった。そうだ。全ては整然としていて、全てが、私が愛されていることの証明だった。
それなのに、もう母の顔が思い出せない。
これは決して大袈裟な話ではない。私の記憶の中で、母の姿はぼんやりとした光の輪か、あるいは長く引き伸ばされた影でしかない。私は彼女の筆遣い(あの流麗なサインを通して)、彼女が好んで使う口紅のいくつかの色(いつも棚に置いてあるから)、彼女のシャンプーの香り(枕に残っている、私のとは違う匂い)、さらには彼女が先の尖った靴でアパートの階段を上って帰ってくる時の独特なリズム(真夜中にふと、その音を聞いたような気がすることがある)まで、細部に至るまで脳内で再生できるというのに。私は彼女の全ての「部品」を持っているのに、一つの完全な、私と視線を交わすことのできる彼女を、どうしても組み立てることができないのだ。
白湯を一杯淹れると、湯気が近眼のレンズを曇らせ、世界は途端に曖昧にぼやけた。時々思う。もしかしたら彼女は人間ではないのかもしれない。この家に住み着いた田螺姑娘(たにしむすめ)か、あるいは昼間は身を潜め夜に活動する精霊か何かが、人間の母親の姿を借りて、壮大な行動芸術のような育児を実践しているのかもしれない、と。
思春期とは、ホルモンと幻想が織りなす迷宮なのだと、先生は言った。クラスメートたちはその迷宮の中で、隣のクラスや他の学校の男女を追いかけ、肌やキスについての拙い憶測を交換していた。一方、私の迷宮はこの家そのものだった。私の幻想は、全て、全て、会うことのできない母へと捧げられていた。
母の部屋は、我が家で唯一の「禁域」だった。母に禁じられたわけではない。私自身が、自分に課した境界線だ。そこに足を踏み入れることは、まるで何かを冒涜するような、神聖な存在を侵すような行為に思えた。いつもドアの前で長いこと躊躇して、ようやくそっとドアを押し開ける勇気を出す。
ハンガーに掛かっている彼女の絹のナイトガウンを羽織ってみる。その生地は氷のように冷たく滑らかで、恋人の愛撫のように優しく、まるで蛇の鱗のように私の体を撫でていく。そこに顔を埋め、残された彼女の香りを貪るように吸い込みながら、本物の抱擁を幻視する。息が詰まるほど優しい腕に、強く抱きしめられる瞬間を。その想像の中では、梔子の香りはもはや空気中に漂う儚い残影ではなく、私の肌に触れ、呼吸に入り込み、全ての感覚を侵食する現実の存在となる。
想像が溶けて消えると、部屋にはまた自分一人が残される。シワを残すのが怖い。彼女に気づかれるのが怖い。そして、彼女が永遠に気づかないままでいることも、同じくらい怖い。
「舟は、苦く塩辛い深淵の上を滑り行く」。私の深淵とは、母の顔のことだ。
暗赤色の口紅の先端は、唇によって磨かれた優雅な斜面を描いている。彼女が鏡に向かってそれを塗る姿を想像する。その時、彼女はどんな眼差しをしているのだろう。私は鏡に向かい、不器用にその赤を自分の唇に乗せてみる。鏡の中の私は、彼女に似てもおらず、私自身でもなく、奇妙な混合体になっていた。模倣によっ神を召喚しようと試みる、哀れな祭司。これが、私が彼女の唇に最も近づける瞬間なのだろうか。舌先を出してそっと舐めてみるが、何の味もせず、ただ虚しさだけが残った。
もうたくさんだ。こんな残り物と中古の香りで繋ぎ止められた関係も、終わりのない一人かくれんぼも、想像力を媒介にした交霊ごっこも!今夜こそ、私の田螺姑娘を、私の夜行性の精霊を、私の母を、捕まえてみせる。
濃いコーヒーを二杯も飲んだ。カフェインが電流のように神経の末端を駆け巡る。もうすぐだ、彼女がもうすぐ来る…彼女は…家に帰ってくる?心臓が太鼓のように鳴り響き、こめかみの脈拍が地震のように私を揺さぶる。汗で手のひらが湿り、冷たい汗の粒が背筋をゆっくりと伝い落ちた。不安で、怖くて、それは故郷を目前にした旅人の心細さに似ているのかもしれない。
私は自分をリビングのソファに「縛り付け」、玄関のドアをじっと見つめた。全ての照明を消し、薄暗い黄色のフロアライトだけを一つ残して、光と影の境界に身を隠す。まるで、最も忠実な衛兵、あるいは――獲物を待ち伏せる狩人のように。
時間は静寂の中で無限に引き伸ばされていく。クオーツ時計の秒針が一つ進むごとに、小さなハンマーが私の心臓の先を無言で叩いているようだった。午前零時四十五分。この平凡な地方都市はすでに深い眠りに沈み、時折、車のライトが暗闇を切り裂き、木々の影を通して、壁に流れ星のような光を散らすだけだ。午前一時四十四分。もはや抑えきれなくなった睡魔が、カフェインの封鎖を破って押し寄せてくる。瞼が鉛を仕込まれたように重い。ソファの上で、鶏が米をついばむようにこくりこくりと舟を漕ぎながらも、必死に手の甲や手のひら、折り曲げたふくらはぎに爪を立てて無数の三日月を刻みつけ、その痛みで意識を保とうとした。
午前二時になった時、聞こえた。鍵が鍵穴に差し込まれる音だ。
極めて静かに、極めてゆっくりと……まるで学校の生物の授業で、玉ねぎの薄皮を破るまいとピンセットで剥がす時のような、ごくごく細やかな手つき。たった一枚しかない、大切なものだから。
ドアノブが静かに回される。「カチャ」。廊下の声控灯の暖かい光がドアの隙間からリビングに差し込み、華奢な影が玄関の床に映し出された。
先の尖った靴を履いた左足が、用心深く中へ一歩踏み入れるのが見えた。そして、もう片方の足も。彼女が入ってきた。
喉は渇ききって痛み、彼女を呼びたいのに、どんな声も絞り出すことができない。まるで喉にざらざらの布切れでも詰められたかのようだ。私は呪いをかけられた童話のお姫様のように、最愛の人を、私を救ってくれる人を目の前にしながら、話す能力を奪われ、体はこわばり、ただただ、朦朧とする頭で苦しみながら見つめることしかできなかった。
彼女は猫のようにしなやかな動作で靴を脱いだ。そして、すっと体を起こし、私が丸くなっている方へと視線を向けた気がした。薄闇の中、ぼんやりとした輪郭が見え、使い慣れたハンドクリームの、あの梔子の香りがした。
今だ。
小舟、今しかない。立ち上がって、歩み寄って、彼女を抱きしめるんだ。
しかし、私の体はついに私を裏切った。
長夜の待ち疲れとカフェインの効力が、この瞬間、奇妙な和解を果たした。抗うことのできない疲労が、津波のように押し寄せて私を飲み込んでいく。眼球が震え、次第にはっきりとしていく彼女の姿と、私の重い眠気との間で、世界は揺れ動く、焦点の合わない光の斑点と化した。
私の最後の意識は、その影が屈み込み、私に毛布を掛けてくれているらしい光景だった。指先が、私の額を掠めるか掠めないかで触れていく。その指は、夜のひんやりとした空気と、タバコの微かな苦い匂いをまとっていた。
そして、全ては暗闇に沈んだ。
次に目を開けた時、空はとっくに明るくなっていた。体にはウールの毛布が掛けられ、食卓には、湯気の立つ、新しい一日の朝食が用意されていた。
全ては、また振り出しに戻っていた。
まるで昨夜の出来事が、あまりにもリアルな夢だったかのように。証拠と呼べるものは二つだけ。白くなるほど強く握りしめた手のひらに残る、無数の三日月形の爪の跡。そして、空気中に漂う、いつもよりずっと濃厚で、まるで嘲笑うかのような、梔子の残り香。
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