君を守るための嘘
志乃原七海
第1話
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### 緑ヶ丘総合病院
バタバタと慌ただしいナースステーションの喧騒が、ようやく夜の静けさに包まれ始める。緑ヶ丘総合病院、外科病棟。山本あづさ(24歳)は、最後にもう一度カルテのチェックを終え、ほっと息をついた。私立高校から看護学校へと進み、憧れだった看護師になって二年。真面目な仕事ぶりは評価されているが、彼女には一つ、大きな悩みがあった。
内気で、人に強く言えない性格。それが災いしていた。
「山本さん、お疲れ様。この後、駅前で軽く飲まない?」
着替えを終えて廊下に出たあづさを呼び止めたのは、研修医の田中だった。彼の隣には、同じく医師の佐藤もにこやかに立っている。この手の誘いは、今週に入って三度目だった。
あづさは困ったように眉を寄せ、小さく首を横に振る。
「あの……明日も日勤で早いので!すみません、困ります」
精一杯の拒絶の言葉。だが、彼らには通用しない。
「なんだよ、俺たちだって早いんだって。外科医だぞ?たまにはいいじゃないか」
「そうそう、付き合えよ」
半ば強引に腕を取られそうになった瞬間、低く、温度のない声が響いた。
「――何をしている」
声の主は、外科医の高橋佑樹(28歳)だった。180センチの長身に、引き締まった体躯。日焼けした肌と、鋭い眼光が彼の特徴だ。高橋は、物事の筋が通らないことや、曖昧な馴れ合いを何よりも嫌う。その厳しい性格は、患者にとっては最高の執刀医であることを意味したが、同僚にとっては少し近寄りがたい存在でもあった。
田中たちが、ぎくりと体をこわばらせる。
「た、高橋先生……。いえ、山本さんを労おうと……」
「彼女が『困る』と言っているのが聞こえなかったのか」
高橋の視線は、言い訳をする田中たちを通り越し、怯えるあづさに注がれる。
「山本。お前も、嫌なら嫌だと、相手の目を見て言え。それができないなら、さっさと帰れ。業務に支障が出る」
それは、助け舟のようでありながら、あづさ自身を叱咤するような厳しい言葉だった。しかし、その言葉には不思議な力があった。高橋の言う「正しさ」が、あづさに小さな勇気をくれる。
「……申し訳ありません。お先に失礼します」
あづさは深々と頭を下げ、高橋の背後に隠れるようにして、その場を足早に立ち去った。気まずい沈黙の中、高橋は冷たく言い放つ。
「お前たちも、彼女の勤務状況くらい把握しておけ。プロ意識が低いぞ」
ぐうの音も出ない研修医たちを残し、高橋もまた夜の廊下へと消えていった。
***
その数日後。
夜勤を終え、疲労困憊で通用口へ向かっていると、自販機の前で缶コーヒーを飲んでいる高橋の姿があった。あづさは、先日の礼を言わなければと、意を決して近づく。
「あの、高橋先生」
「……山本か。お疲れ」
彼は一瞥しただけで、また自販機の方へ視線を戻してしまう。
「先日は、ありがとうございました。助かりました」
「別に。俺は間違ったことが嫌いなだけだ」
素っ気ない返事。だが、あづさは知っていた。高橋は口ではそう言っても、弱い立場の人を放っておけない優しさを持っていることを。患者に見せる顔が、それを物語っていた。
「……先生は、どうしてそんなに、強くいられるんですか?」
思わず、心の声が漏れた。
高橋は少し驚いたようにあづさを見つめ、ふっと口元を緩めた。彼が笑ったのを、あづさは初めて見たかもしれない。
「強くなんかない。ただ、守りたいものがはっきりしてるだけだ。患者の命と……まあ、目の前で困ってる奴くらいは、助けてやらないと寝覚めが悪い」
そう言って、彼は空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。
「お前も、断る練習くらいしておけ。また何かあれば……まあ、俺に言え」
「え……」
「聞こえなかったか?行くぞ」
ぶっきらぼうにそう言って歩き出す高橋。あづさは慌ててその後を追った。駅までの道、二人の間に会話は少なかったが、気まずさはなかった。高橋の大きな背中が、あづさをあらゆるものから守ってくれる盾のように思えた。
「じゃあな」
駅の改札で短く告げ、去っていく高橋。
その日から、あづさの世界で「高橋佑樹」という存在は、ただの『少し怖い外科医』から、『不器用で優しい、特別な人』へと変わり始めていた。彼の鋭い言葉の裏にある温かさに触れるたび、あづさの心はゆっくりと、でも確かに惹かれていくのだった。二人の距離が縮まるまで、そう時間はかからないだろう。
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