二章 英霊庭園と華麗なる銀角獣

幕間

 あれは、まだ物心ついたばかりの頃。


 世界の色んなものが大きくて、お父さんに手を引かれて歩いていた。木が清らかな風でそよぎ、そんな風が運んでくる花の甘い匂いが思い出として心に根を張っている。


 匂いっていうのは、記憶と深く結びついているものだと私は思うの。これまで体験してきた色んなものに匂いが染みついている。幼い頃に、お母さんと叩いたカスタネットの匂いはペンキと木の匂いで、今でもその二つの匂いを嗅ぐと、その時のことを思い出す。そんなことが沢山ある。


 同じ様に、花の匂いを嗅ぐとあの日の事を思い出す。


 英霊庭園レテ・ビリス。腐徒災害が起こるよりずっと前、まだこの国が平和だった頃。お父さんに連れられて山奥の花畑にやって来た。

 一面に広がる色とりどりの花と、なだらかな稜線を描く丘の数々。それらの豊かな緑の胸では無数の墓石が眠っていて、丘を舐め上げる微風が吹くたびに七彩の花の匂いがする。墓地だというのに色鮮やかで、天国というのはこんなものなんだと思ったこともよく覚えている。


 そして、そんな朧げな記憶の中でいつも輝くものがあった。

 花の匂いを嗅いだら思い出す、銀色の美しい獣。遠くの丘から見守ってくれる清らかな青い眼差し。


「あれ、なに?」


 尋ねると、父は微笑んで答えてくれた。


「境界器と言ってね、この世の外にある悪いモノから、この庭園を護ってくれているんだ」

「この世の外にある悪いモノ……?」


 当時の私は世界の事を何も知らなかった。そんな私の眼差しを受けて、お父さんは大きな掌で頭を撫でてくれた。


「そのうち蓮子にも教えるよ。さあ、行こう」


 そうして、お父さんに手を引かれるままに歩いていく。花畑の合間に、毛細血管みたいに細く刻まれた道を、その銀色の獣が待つ丘に向けて。


 じっと、彼は待っていてくれた。


 記憶が霞む。思い出せない。その銀色の獣がどんな形をしていたのか。どれだけ大きかったのか。ただ、私は確実に彼の前に辿りついて、その青く揺らめく瞳を見上げた。

 すると、銀色の獣は青い目を細めて、そっと頭を垂れた。獣とは思えない程理性的でいて、静かな所作。おもむろに手を伸ばしてそんな獣の首筋を撫でると、熱くて、清らかな匂いがした。


 ただ、そうして彼を撫でる指先がでこぼことした何かに触れる。

 訝しんで手元を覗き込むと、そこには見たこともない文字列が刻まれていた。

 ただ、不思議と読めた。


「……クークゥ?」


 その文字を読むと、お父さんが驚いたように目を見開いた。同時に、銀色の獣も瞳の青色を燃え上がらせて、じっと私を見つめた。

 そんな彼を見上げて、私は思わず笑った。


「可愛らしい名前ね。好きよ、私」


 すると銀色の獣は再び頭を垂れて、私の手の甲にキスをした。

 それが、私が覚えている中で一番古い記憶。

 華麗なる銀角獣の、記憶。

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