カラミティ・レティ
前藤たんか
プロローグ 凪の風来坊
世界が腐って五年が経った。
いや、世界が腐るのに五年が必要だった。そう言った方が正しいだろうな。
「……チッ」
二階建ての、古臭い木造建築だった。階段は狭く急こう配で、あのサイレント・デイ以来電気も通らなくなった放棄地区にある家の中は昼間だってのに薄暗れェ。大げさに持ち上げたつま先で闇の中を探り、一段一段登っては、近付いてくる二階から香る〝腐臭〟をじっくりと嗅ぎ分ける。
「どうか、どうか供養してやってください。あんなになっても旦那なんです。お金も何もありはしませんが、なんでもします。どうかあの人だけは、ちゃんと成仏させてやってください……」
「うっせェな、泣きてェだけならついてくんな。ただでさえ狭ェのに」
もうしばらく〝腐徒殺し〟として育ててきた嗅覚が、二階の寝室に閉じ込められているという年寄りの男の腐徒の気配を掴む。
随分と腐敗が進んでやがる。年も年で、寝てた時に急死した挙句に腐徒になり、このババアはなんとか南京錠で扉を施錠したって話だが、それも最近の話じゃねェんだろう。
階段の途中で足を止めると、ついてくるババアの肩を押し返した。
「邪魔だ、下がってろ」
「そんな、この年まで寄り添って来た旦那なんです。どうか最期だけでも……」
「腐徒は怪物だ。てめェの旦那の最期はとうに終わってる」
そう言うと、ババア、もとい依頼人の婆さんは目を窄めて涙を溜めた。言葉を失っている。
肩を押し返した手で、その頭をわしゃりと撫でる。
「だから任せろ。オレは葬儀屋じゃなくて殺し屋だ。死んだヤツの供養は専門外だが、死人の身体に入り込む腐徒っつう怪物の駆除なら、得意分野だ」
婆さんを宥める右手首には、いつも巻いている包帯がある。
「下がってろ、ちゃんと綺麗に殺してやるからよ」
そうして婆さんを階段において二階に上がると、寝室の扉の前に立った。扉の向こうからは腐徒が暴れる気配がする。隙間風ばかりが入ってくる壁や天井が、奴が暴れる度に軋んでいる。
腐徒。人だったモノ。この国が静まり返ったサイレント・デイ以降、死んだ人間が怪物になる怪奇。
死者を冒涜する、悪。
あの日以来世界は壊れた。円環大陸の東西南北をそれぞれ治める四大領国はそれぞれが天変地異の如き大災害に襲われて分断され、この東方領国の首都である聖濫はたった一週間で陥落した。
腐徒災害。そう呼ばれる大災害がこの東方領国を襲って、もう五年になる。人々はそれぞれの街に引き籠り、インフラは廃れ、腐徒に襲われない為に息をひそめて生きる様になった。
だから、全てが始まったあの日。腐徒災害がおこり、パニックになった国民がヨウナ教皇を処刑して、その遺体が腐徒へと転じて聖濫が陥落した日は、サイレント・デイと呼ばれている。
人々がそれぞれの街を出て出歩くことは無くなり、国が凪いだ日。
オレはそれを新聞で知った。
家に届いた新聞じゃない。夜が明けて何時まで経っても牛乳が届かず、山を下りて尋ねた牛乳屋で初めて腐徒を見て、そんな牛乳屋のポストに突き刺さっていた新聞を読んだんだ。
そうして薬も届かなくなって、唯一の家族だった〝らしい〟妹は、大好きなホットミルクを飲むことも出来ずに死んだ。
その日以来、オレは腐徒を殺して生きている。
そっと撫でた寝室の南京錠は冷たく、硬い。だが鍵など婆さんから預かってねェ。
ぐっと南京錠を握り込むと、手首に巻いた包帯が黄金の輝きを帯び始めた。何も怪我をしているから巻いているわけじゃねェんだ。
この包帯こそが、オレの武器だ。
包帯の力によって筋力が活性化すると、まるで発泡スチロールでも握り潰す様に容易く南京錠が砕けた。
「よお」
扉を開いた先に立っていた腐徒に声をかける。階段と同じ様に暗い寝室は滅茶苦茶だ。ベッドはひっくり返され、引き裂かれたシーツから零れた安っぽい綿が埃の様に舞っている。壁際にあったであろう箪笥も引き倒され、棚は全て粉砕され、恐らく棚の上に飾られていただろう夫婦の写真も踏み割られていた。
そしてそんな写真を、わけもわからず枕を噛みながらこちらを振り返った腐徒が、踏みつけている。
薄暗く、汚く、荒れ果てた部屋。腐肉が壁や天井に張り付き、鼻が曲がる悪臭が立ち込める。
そんな部屋の中に……されど光が満ちる。
黄金色。オレの右手首から放たれた神秘の輝きだ。相変わらず清らかで、聖臭くてオレには合わねェとつくづく思う。
「言い残すことはあるか?」
尋ねると、腐徒は生きた人肉を目の当たりにして狂喜し、齧っていた枕を捨てて襲い掛かって来た。
中空を飛ぶそんな奴を眺めて、鼻を鳴らす。
「ハッ、ちゃんと死んでんな」
そうして腐徒だと識別すると、ぼろぼろの床板を踏み鳴らしながら腰を落とし、光り輝く包帯に包まれた右肘を背の方に引き絞った。
「じゃあ一思いに、ぶっ殺してやンよッ!」
涎をまき散らし、腐った肉体の随所から骨すらも見せる腐徒の頬目掛けて拳を振り抜く。すると容易く頬肉は抉れ、頭蓋骨は砕け、顔の半分が吹き飛んだ腐徒は床に叩きつけられた。
「グォッ!!」
ただし相手は腐徒、元から死体だ。そもそも死んでいるからこそ、身体的欠損でくたばるわけがねェ。だから厄介なんだ。
ただの武器で殺すのは。
「〝締め上げろ〟」
唱えると、腐徒を殴り飛ばしたと同時に綻んで宙に舞っていた包帯の先端が、見る見るうちに伸縮と分裂を始めた。蕾が花開くようにぶわりと風をきって、薬品臭い清潔な香りを放つ。
すると次の瞬間、幾筋にも分かたれた包帯の束が竜巻にでも攫われたように渦巻き、起き上がろうとした腐徒の身体に巻き付いた。どれだけ腐徒が暴れようとも、手を付こうとすれば肘や手首を縛り上げ、踏ん張れないように足を持ち上げ、叫ぼうとする口にも猿轡を噛ませるように巻き付く。
雁字搦め。ミイラの様になって動けなくなった腐徒を見下ろすと、包帯に縛り上げられてもまだどたばたともがいている。
「元気な奴だな、ったく」
そうして腐徒の肩元に膝を付く。すると改めて床に落ちていた婆さんとこの旦那の写真が目に付き、拾い上げる。
仲睦まじい老夫婦だ。淡い青色のおそろいのセーターを着ていて、山の様にでかい大聖堂を背に微笑み合っている。壁は白く塗られていて、ヨウナ教が掲げるシンボルである銀の真円が空まで届きそう尖塔の上で輝いていた。
きっとまだ健康だった頃の聖濫で撮ったもンだろう。ただし、先ほどまで踏みつけられていたせいで汚れている。
右手首の包帯でその汚れを拭うと、着古したブルゾンのポケットに写真を押し込んだ。
「ババアにも言ったが、悪ィな。オレは僧侶でもなけりゃ医者でもねェ、ただの殺し屋だ。これも薬じゃなくて包帯。傷や病を治す為のモンじゃねェ」
未だもがき続ける腐徒に言い聞かせる。こんなことに意味がないことは分かっている。腐徒は怪物だ。人間じゃねェ。
だが、誰かの遺体であることに変わりはない。
「コイツは、これ以上てめェが毒されねェ為のモンだ」
包帯で包まれた腐徒の額に手のひらを置くと、再び唱えた。
「〝飲み干せ〟」
すると次の瞬間、腐徒を包む包帯が一際眩く明滅した。
◇ ◇ ◇
「あ、あの……あの人は」
またあの狭くて急こう配な階段を下りていくと、すぐにババアが駆け寄ってきた。何もないリビングだ。戸棚には埃しか入っておらず、ガスコンロは錆びている。シンクは物置と化し、口にできるものと言えば台所の脇に置かれた古臭い水瓶の中の水か、家の前の小さな畑で採ったらしいざるの中の小ぶりなジャガイモくらい。事実、ババアはがりがりに痩せていた。
「ん」
そんな彼女にポケットから取り出した写真と、サッカーボール程度の大きさの包みになった包帯を押し付ける。
「遺骨だ。壺に入れて墓に入れるなり、畑に撒くなり好きにしろ」
するとババアは膝から崩れ落ちた。胸に抱えた旦那の骨と一枚の写真が重すぎるみたいだ。
「ありがとうございます……ずっとどうすればいいかわからなくて……そ、そうだ、お代を」
「いらねェよ、金勘定できねェし。そもそも喝陽銅鑼に行く途中に、たまたま通りかかって気まぐれでやっただけだ」
するとババアは、どっかから切り取って来た様な台詞を言った。
「せめてお名前だけでも!」
ただオレは答えなかった。いや、正確には答えられなかったって所だな。
名前なんざ、随分昔に忘れちまった。
それだけじゃねェ。家も、夢も、何もかも。
帰るところなんざ、ない。
外に出ると、強烈な日差しが目を刺してきた。アスファルトが罅割れていたり、大破した車が転がってばかりの幹線道路の上では陽炎が踊っている。忌々しいほどの晴れ。周囲を見渡すと、左手には荒廃した商店街があり、右手には幹線道路や市役所を示す傾いた道路標識がある。
都会という程ではないが、街の中。蝉の声が煩い。でも、静か。まるで鍋を空焚きしているみたいだ。ただ、じりじりと。
「あちィ」
風すらも吹かない、夏。
嵐の前の静けさ。それがずっと続いているような五年間。
終わりを待つ人間を、オレはまた一人殺した。
妹を、殺した様に。
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