第31話 坦懐~それぞれの落ち着く場所

 キングサイズベッドの片側の端に身を寄せて肩を震わせていた私は、くじらさんの呼びかけにほんの少し顔を上げた。息を整えて目を向けた先、私の顔をしたくじらさんは心配げな表情を無理にゆがめ、なんとか笑顔をつくろうとしている。

 あの貌は私にも覚えがある。

 今年の春、二度目の大学受験が失敗に終わった日に母が浮かべていた表情。同じ夜、鏡の前で自分に向けて見せた私自身の貌。不安を隠し、あえて前向きになろうと取り繕う気持ち。

「一ノ瀬さん、会場で自分のブースの様子は見た?」

 私は無言でうなずく。まだ、声は出せない。それでもくじらさんは、満足げな顔で言葉を繋ぐ。

「俺は桃山さんが片付けるとこしか見てないんだけど、あれって凄いことだよね。残り時間はまだ一時間以上あったのに、しっかり完売して店仕舞いできるなんてさ」

 私に向けていた視線を天井に外し、くじらさんは話を続けてくれた。無理に私が応えたりしなくてもいいように。

「桃山さんに聞いたんだけど、用意したの三百冊だって? 壁サー並みじゃん。そんだけ持ってきた勇気も凄いけど、売り切っちゃう人気はもっとずっと凄いよ。俺たちなんて、十冊持ってきて売れたのは桃山さんが義理で買ってくれた一冊だけだし」

「さ、三百って決めたのは、桃山しゃん。わらしは、ご、五十がいいとこ、って思ってら」

「それってさ、一ノ瀬さんにはそのくらい人気があるって桃山さんが信じてたってことだよね。でもって、現実にそれだけの支持者がちゃんといたってこと。お気持ちだけじゃない、自分の財布からお金を出して一ノ瀬さんの本を買うっていう本当の支持者が」

 私は思いだしていた。壁に背をぴったりつけて、ただただ呆然と見つめていたあの時間。私のブースの前に何人もの人が行儀よく並び、その一人ずつが千円札と引き換えに私の本を受け取っていく様子を。

 店頭で座っているときもそうだった。私の不在を残念そうに嘆きながら、それでも私の本を買ってくれた人。ずっと応援しますって伝言を頼んできた読者さん。

「一ノ瀬さんのことだから、派手な告知活動なんかもやんなかったんじゃないかなって思うけど、それでもちゃんと来てくれた。単なる数字じゃない、三百人の読者っていうリアルは本物だよ。そして、心の底からこの成功を信じてくれてた桃山さんって存在も」

 桃山さんと繋がったのは高校一年の冬。学校に居場所のない私が辿り着いた投稿サイト『カクヨム』で連載を始めてしばらくして、なんとなくつくったⅩのアカウントに最初に飛び込んできたメンションポストが彼女だった。


――――

連載、更新通知を見つけたら、すぐに読んでます。

すっっっごく面白い!

そんなみうさん、もとい、みう先生がⅩまで始められたとは!

作品だけじゃなく日常ポストまで垣間見ることができるなんて、これはもうご褒美以外の何物でもないですよ!

無理のない範囲での投稿を、連載ともども楽しみにします❤

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 百四十字を目一杯使って書かれたそのファンレターは、私の胸に深く刻まれている。そうだった。少なくとも『作家』としての私は、この人たちとまだ繋がっていた。

「桃山しゃん、わらしがつぶやいた、ぶ、文フリのポスト、すごく喜んでらった。自分のできることれきるころできたれきたって」

 くじらさんが身体を起こして大きくうなずいた。

「マンガ家さんと一緒にやってるコミックスの方だって、まだまだ続きがありますよね。一ノ瀬さんがこの世界でやるべきことは、まだまだぜんぜんいーっぱいあるんです。だって一ノ瀬さんは、多くの人の楽しみの元なんだから」

 くじらさんは語りを止めて、ヘッドボードのビール缶に手を伸ばす。でもどうやら空っぽだったようだ。未練がましく逆さの缶を口に受けている私の姿は、いじましくてなんか可愛い。まるで、鏡の中で私自身がやってるみたい。

わらしわらしのままでわらし戻ってもろっていいんですかいいんれすか?」

「もちろん! いいに決まってるじゃないですか」

 空き缶を持ったままのが、満面の笑顔でそう答えた。


「俺、この一日でいろいろと気づかされたんだ。ああ、俺は女の子のことをなんにもわかってなかったんだなって。体格や身体の使い方はもちろんだけど、それよりも社会の中での女性の見られ方。正直言って、周囲の関係ない人たちが自分をどう見てるかなんて今まで考えたことも無かった。俺は俺であり、俺を形づくるのにギャラリーは関係ない、なぁんて当たり前すぎて意識すらしたことない。なのに、女の子はぜんぜん違ってた。知り合いでもなんでもない無数の異性や同性の眼によって自分の輪郭を規定され、型にはめようとする圧を常に感じ続けている。そのための自衛やアピールが日常の行動の中に組み込まれ、それさえも自然にふるまうことが身体の隅々まで刷り込まれている。そんな不自由を、俺たち男社会はなにも考えないで強要してるんだ」

 人ひとり分の隙間を開けたベッドの対岸で、ヘッドボードにもたれて座る私の身体くじらさん。訥々と語られるくじらさんの、実体験に基づくジェンダー論を私は黙って聞いていた。私の声色で並べられた言葉のどれもが、私の中にすぅっと入ってくる。今日一日をくじらさんの身体で過ごした私には、この人の話す内容が一切のノイズもなく理解できるのだ。実際に私が感じた『透明になったみたいな自由な感覚』は、まさに対を成す事実。

「一ノ瀬さんは嫌なことしかなかったかもしれないけれど、俺にとってはこの入れ替わり体験はとても貴重で、まさに有難い経験だったと思ってる。エロい意味とかじゃなくて、一ノ瀬さんの身体ボディも愛せるって思えたし」

 頬を染め目を逸らしたくじらさんは、「でも」と言いながら再び顔を上げ、私の瞳をまっすぐ見据えてきた。

「やっぱり俺、自分の身体が一番いいんです。いままでの時間で一緒につくりあげた身体の記憶や経験値と、それらのフィードバックで出来上がった人格や意識とをきっちりと重ね合わせたい。意識と身体が別々になって、はじめてそれが大事なのに気づけたんです」

 その言葉に、私は強い衝撃を受けた。私が『私の身体』を一番だと思ってるのと同じように、くじらさんも新しく手に入れた若い身体を手放したくないに違いない。あたかも自明のごとく、そう決めつけていたのだ。

「くじらしゃん」

 そう呼びかけた私は、今日初めての、心からの言葉を口にする。

わらし、自分の身体に戻りたい!」


 落ち着きを取り戻した一ノ瀬を見て、くじらは微笑んだ。

「こんどこそ、ゆっくり寝られそうだね」

 こくりとうなずく一ノ瀬に、くじらは助言アドバイスを重ねる。

「戻ったら口角を上げる練習をするといい。鏡でも見ながら」

「そうします」

 素直に応えた一ノ瀬は、くじらの顔で口角を上げた。

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