オーディション


 夢から覚めた。


 胸の奥でまだ何かがざわついていた。寝汗でシーツが湿っているのを感じる。呼吸が荒い。嫌な夢だった……けれど、どこかで心地よさもあった。夢の中で、私は舞台に立っていたからだ。


 照明の熱。客席からの視線。吐く息すら芝居の一部になるような、あの感覚。どんなに遠い場所にいても、私の声ひとつで誰かの心を震わせられる、そんな確信に満ちた自信のある演技をしていた。


 けれど、目を開けた瞬間に、すべてが消えた。夢は夢だ。現実は、暗い天井。


 舞台に立ちたい。


 そう思い始めたのは、いつからだっただろう。小さな頃、学校の学芸会で初めて台詞を言ったとき、胸の奥で何かが弾けた。たった一言。「はい」と元気よく言うだけの役。


 その一言で、世界が動いた気がした。照明の眩しさ。クラスメイトの視線。舞台袖から先生が見守る影。あの瞬間、私は決めた。役者になりたいと。


 それから必死に芝居を学んだ。演技の本を読み漁り、鏡の前で笑顔を練習した。声のトレーニングもした。腹式呼吸ができるようになったときから、思い通りな声が出てくる感覚、指先にまで意思が宿ったように体を動かせた時なんか、嬉しくて夜眠れなかった。社会人からなる劇団に入ったとき、私はようやくスタートラインに立てた気がした。


 観客が身内だけの集まりではない。本物の観客が舞台を見に来ていたからだ。やっと私を知らない、私の役を見に来た観客。そんな観客の心を掴めるのかと、ワクワクしていた。


 だけど、現実は甘くなかった。


 オーディション。幾度も幾度も受けた。名前を呼ばれ、審査員の前に立つとき、心臓が喉から飛び出しそうになる。声はうわずり、足が震える。何度も練習した台詞なのに、舌がもつれる。審査員の視線が冷たく感じるのは、私の自意識のせいだろうか。それとも、本当に興味を持たれていないのだろうか。


「ありがとうございました」


 たったその一言を告げて退室するとき、私は自分の足音が遠く聞こえるような気がした。世界から切り離されたような、浮遊感。外に出れば、ビルのガラスに映る自分の顔がある。無表情で、疲れ切った顔。唇を噛んで、また次だ、次こそはと自分に言い聞かせた。


 役がほしい。役をもらえさえすれば、私は成長できる。誰かの心を動かしたい、舞台に立ちたい。


 その気持ちだけで、ずっとやってきた。


 でも、歳をとるたびに変な汗をかく頻度が増えてきた。オーディション会場の椅子に座っているとき、掌がじっとりと湿っているのを感じる。指先に冷たい汗が流れ、膝をぎゅっと握りしめる。呼ばれる順番が近づくたびに、胸の奥で心臓が暴れだす。


 若かった頃は、ただ楽しかった。緊張さえも演技の糧にできた。けれど今は違う。緊張が演技を奪っていく。声は裏返り、喉が閉じる。身体は硬直し、台詞が空っぽになる。


 オーディションへと続く扉が、どんどん重くなっていく。手を伸ばすことすら怖くなる。


 そのときだ。隣に座っていた若い子の声が耳に入った。


 澄んだ声。柔らかくて、なのに力強い。まだ二十歳にも満たないだろうか。小さな顔、大きな瞳。全身から「希望」という光を放っていた。自分の名前を呼ばれると同時に立ち上がり、笑顔で扉を開ける。姿勢がまっすぐで、迷いがない。


 やがて、扉の向こうから彼女の演技が聞こえてきた。張りのある声。伸びやかな発声。誰かの心を動かすのに十分な声。


 胸を張り、どこまでも、どこまでも自由だった。


 その自由さに、私は打ちのめされた。彼女と私の差は、ただの年齢差ではない。時間の重さだ。私の時間は、どんどん錆びついていく。夢にしがみつこうとするほど、指先から夢がこぼれ落ちていく。


 私は、まだ舞台に立てるのだろうか。


 若い声を聞く度に、そんな不安が、何度も何度も腹の奥底から湧いてくる。



 薄暗い部屋。鏡の前に立ち、メイクを落とす。ファンデーションの下から現れるのは、疲れた顔。けれど、その奥にまだ消えていない光を、私は探してしまう。


 もうやめるべきかもしれない。普通に仕事して、普通に生きて、普通に老いていく。それがどれほど楽だろう。


 でも、まだできるんじゃないか。まだやれるんじゃないか。


 その声が、胸の奥から消えてくれない。


 鏡に映る自分を、じっと見つめる。唇を開き、呟いた。


「もう一回だけ」


 何度も口にした言葉を、魔法のように声に出す。声はかすれていた。それでも、確かに届いた。私自身に。


 再び夢を見るために、名前がある役で舞台に立つその日まで。








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