『光を結ぶ距離 ― 二人の儀式と約束』
家守 廃人
第1章 出会いと始まり
朝の光は、思ったよりも柔らかかった。
新しい制服の襟元に手を伸ばし、真琴は一度だけ深く息を吸った。胸の奥がざわつくのを確かめるように、ゆっくりと吐き出す。今日から始まる「日常」が、自分をどこに連れてゆくのか、まったく予想がつかなかった。
校門の前には既に制服の波ができていて、笑い声や名札のガチャガチャという音が混ざっている。遠くで先輩たちが談笑し、父母は写真を撮り合う。空気は祝祭的で、桜の花びらがひらりと肩に落ちた瞬間、周囲の世界は一瞬だけ映画のワンシーンのように見えた。だが真琴にとって、その光景はどこか眩しく、居心地がよいとは言えなかった。
「入学式、やっぱり緊張するね」
隣で話す同級生の声が耳をかすめる。真琴は笑ってみせる。口元は笑っても、喉の奥は冷たい。教室の中では既に小さなグループができていて、誰かの冗談に後から声を上げて笑う姿が輪を作っている。真琴は自分の席へ歩きながら、誰かに紛れ込む勇気が持てない自分を意識した。笑い声の輪に入るべき「合図」が、彼女には見えなかった。
式が終わって教室へ戻ると、空気はより重く感じられた。机の並び方、教科書の匂い、既に馴染んでいる風に見えるクラスメイトたち。黒板の端に貼られた時間割表が、余計に真琴を小さくさせる。そのとき、手に持ったプリントが少しだけ滑り、指先でぎゅっと押さえた。指の腹が紙のざらつきに触れる――それだけで、自分の存在を確認するような気分になる。
休み時間になると、教室のざわめきが苦手な真琴は自然と立ち上がり、誰にも声をかけられないまま図書館へと向かった。廊下を歩く音が遠ざかるにつれて、喧騒が薄れていく。図書館の扉を押すと、空気がふっと変わった。そこは別の時間軸が流れているかのように、静けさと紙の匂いが混じった場所だった。
扉を閉めるとき、金具の小さな音が耳に残る。真琴は手の甲で制服の袖を整え、視線を落とす。窓から差し込む光が本の背表紙を金色に染め、机の端に置かれたしおりの角がきらりと反射する。ここは安心できる。声を出さずに存在していられる場所だと、彼女はすぐに分かった。
いつもの席というものは決まっていない。だが真琴は自然と入口から遠くない、窓際に近い短めの机に腰を下ろした。教科書を開くと、心なしか文字が近すぎる。視線はすぐに游ぎ、ページの上下を行き来するだけで、本文は頭に入ってこない。鉛筆をつまんだ指先に力が入り、ノートの角を爪で触ってしまう。時間の感覚が少し拡散したように、ゆっくりとした塊となって胸の中で転がる。
何度目かのページめくりのとき、ふと気づく。窓際の、少し離れた席に誰かが座っている――背筋を伸ばし、まっすぐに本を見つめる人影。誰なのか、名前も知らない。しかし、その姿には妙な確かさがあった。まるで、その人だけが図書館の時間を少しだけ濃く染めているように見えた。
その人は紗世だった。初めて名前を知るのは、それから少し後の話だが、真琴の目は自然にその人の細部を拾っていた。髪は肩のラインで柔らかく揺れて、後れ毛が一束、春の窓辺の光を受けて金色のような輝きを帯びている。ページを押さえる指は細く、爪の形が綺麗で、ペンを走らせるときの角度は真琴が見たことのない丁寧さを持っている。唇は線が薄く、眉の形はまっすぐで、眉間に小さなしわが寄る瞬間にだけ、考えていることが顔に出る。
真琴は自分でも驚くほど静かに、彼女の所作を観察した。どうしてこんなに注意深く見てしまうのか、自分でも理由が分からない。ただ、眼差しの向く先にあるものが居心地を与えてくれるなら、それは悪いことではない、とでも思っているのかもしれない。ページをめくるたび、鉛筆の先が紙に当たる音が、真琴の胸の鼓動と合拍するように感じられた。音が二つ、三つ重なると心臓がひとつ増えたように大きく脈打つ。
ふと、視線が合いそうになって、真琴は慌てて本に顔を戻す。頬が熱い。頬の内側がずっと乾いている気がして、水を一口飲みたい衝動に駆られるが、水筒はカバンの中で遠い。彼女は唇を軽く噛んで、落ち着けと自分に言い聞かせる。だが落ち着かないのは、周囲のせいではない。自分の胸の中の何かが、いつもと違う速度で回転しているのだと分かる。
数分がこうして過ぎてゆく。図書館の空気は動かず、窓外の木々は風にそよぐ。真琴はついその先輩の手元をもう一度見てしまう。先輩はノートの端に小さな線を描き、時折ページの端を折って印をつける。何気ない仕草があまりに慎ましく、真琴は知らずに息を吞んだ。
やがて、先輩がゆっくりと頭を上げた。視線が真琴の居る方向と交差した――と、真琴は思った。実際にはちがったかもしれない。だがその瞬間だけ、目と目が触れる気がして、真琴の世界はまた震えた。彼女は本を持つ手をぎゅっと固くして、目を合わさないように、しかし心は全部先輩の方に張りついていた。
時折、真琴は自分の胸の奥を覗き込む。そこにあるのは、言葉にしにくい別の種類の感情だ。憧れ、と言うにはまだ幼く、ただ「知りたい」「近づきたい」という単純な欲求が蠢く。それは初めて感じる種類の緊張で、手のひらに小さな汗を作る。ページの端をつまむ指先が震え、インクの匂いがいつもより強く鼻に入ってくる。
時間の流れは図書館の外と同じだが、真琴の中ではゆっくりと、確実に進んでいく。彼女は「この静けさを壊したくない」と思う反面、何かを始めたいという気持ちも持て余していた。言葉は出ない。だから彼女はノートの隅に、小さく鉛筆でメモを書く。「今日、図書館に先輩がいた」と。これは自分のための記録であり、誰にも見せない心のメモだ。字は小さく、丸く、震えている。
やがて時間は昼過ぎのチャイムに押されるように過ぎ、周囲の生徒が次々と帰路につく。図書館にはいつもの静かな節度が戻る。真琴は本を閉じる前に、もう一度だけ先輩を見た。先輩は何事もなかったかのように背を伸ばし、ノートを閉じる。そして、しおりをはさんで、それを自分のカバンにしまった。
真琴の手は机の下で小さく震えている。まるで何か大きな出来事があったあとに残る余震のようだ。彼女は立ち上がり、荷物をまとめるふりをして、先輩の動きを辿る。先輩はそのまま窓際の席を立ち、静かに本を抱えて廊下へと歩いていった。歩幅は一定で、足元は軽やかだ。背中のラインが、真琴の視線に静かに残る。
廊下に出ると、空気は図書館のそれとは違う。人の声が戻ってくる。真琴は一瞬戸惑うが、胸の内側に出来た小さな高鳴りを確かめるように、ゆっくりと図書館の外へ向かう。彼女はまだ名前も知らない相手に対して、どうしてこんなに心が揺れるのか分からなかった。ただ、確かなのは「ここに来れば、彼女がいる」という事実が真琴の一日の中心になりつつあることだった。
家へ帰る道すがら、真琴は何度もその日のことを反芻する。先輩の唇に浮かんだわずかな笑み、ページを押さえる指先の角度、カバンにしまうときの背中の緩やかな曲線――それらがまるで一粒ずつ記憶の箱に収められていく。部屋に入ると、鞄を放り投げ、ベッドに倒れ込む。天井を見上げながら、真琴は小さく呟いた。
「また、明日も来よう」
それは小さな宣言だった。誰にも聞かれていない言葉が、静かな部屋の中に満ちる。夜が深くなるほど、真琴の頭の中には図書館の光景が繰り返される。彼女は枕を抱えながら、先輩の存在を心の中で何度も呼び起こした。鼻に残るインクの匂い、指先の冷たさ、窓際の光の白さ。言葉にはしがたい小さな感覚が胸の中で大きくなっていく。
眠りにつく直前、真琴はもう一度だけ手帳を取り、そこに小さな線を引いた。日付の横にちいさな丸印をつけ、その横に鉛筆で「図書館」とだけ書いた。目を閉じると、まぶたの裏に先輩の横顔がぼんやりと残った。呼吸はいつもより少し早く、けれど安らかな振動を帯びている。真琴はそのまま、今日の余韻に包まれて眠りに落ちていった。
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