武を継ぐ者、異界を斬る者 〜剣戦録〜

@u7046

第1章 「異界の森と始まりの街」

第1話 「孤独の祈り」

 夜の神社は、ひどく静かだった。


 石段を登り切った境内には虫の声が重なり合い、風鈴のように余韻を残しては消えていく。空を見上げれば、都会では決して見られないほど星が冴え冴えと瞬いていた。


 天城心は、学生服の上着を羽織ったまま拝殿の前に立っていた。袖には線香の匂いが染みついている。つい先ほどまで葬儀に参列していたせいだ。


 ――祖父の最期。

 痩せ細った体が布団に沈み、呼吸が途切れる直前まで真っすぐにこちらを見ていた眼差しを思い出す。最後の言葉はなかった。それでも、心は十分に伝わっていた。

 蒼天神武流のすべてを託された、その責任と覚悟を。


 「……これで、本当に一人か」

 独り言のように口にしても、返る声はない。


 代々受け継がれてきた古武道の家系。剣術、槍術、薙刀、柔術、兵法までを総合する武の体系。幼い頃から木刀を握り、汗を流し、十七の春に皆伝を許された。誇りはあっても、拠り所となる家族はもういない。


 心は拝殿の前で膝を折り、手を合わせた。

 感謝と決意を胸に刻むための祈り。それは静かに夜気へと溶けていった。


 だが、その静寂は突如として破られる。


 境内の空気が一変した。

 虫の声が途絶え、風が凍りつく。耳に圧がかかり、世界そのものが呼吸をやめたような不自然な沈黙が訪れた。


 「……?」

 心は眉をひそめ、顔を上げる。


 拝殿の前、石畳の中央に白い裂け目が走っていた。

 紙を破くように広がり、やがて光の渦を形作る。吸い込まれるような力が全身を絡め取り、境内の景色がぐらりと歪んだ。


 普通の人間なら悲鳴を上げ、必死に抗っただろう。

 だが心は違った。


 (抗えぬなら、まずは姿を観る)

 呼吸を整え、腰を落とし、重心を安定させる。武の稽古で叩き込まれた基本を体は自然に実行していた。


 胃が裏返るような浮遊感。鼓膜を震わせる轟音。

 視界は光で満ち、上下の感覚が失われる。

 それでも瞼は閉じなかった。剣士として、最後まで見極めようと目を開け続けた。


 ――そして、落下。


 硬い地面が膝を突き上げ、肺に湿った空気が押し込まれる。

 鼻を刺すのは土と苔の匂い。耳に届くのは虫の声と、葉擦れの音。


 目の前に広がっていたのは、見知らぬ森だった。

 幹は異様に太く、苔がびっしりと生えている。葉は夜光石のように淡く光り、風に揺れるたび鱗粉のような光が散った。空を仰げば、馴染みのない星座が瞬いている。


 「……どこだ、ここは」

 思わず声が漏れた。返事は当然ない。


 手に握りしめている木刀だけが、現実をつなぎ止めていた。祖父から託された唯一の形見。握り慣れた木肌の感触が、わずかな落ち着きを与える。


 そのとき――。


 ――ガサリ。


 茂みが揺れた。

 耳に低い唸りが届き、背筋に冷たいものが走る。


 姿を現したのは犬ほどの大きさの獣。

 だが額には鋭い角が突き出し、赤い眼が光を反射していた。唾液を垂らし、牙を剥いてこちらを睨む。


 心は木刀を構えた。

 肩を落とし、呼吸を一拍で整える。足裏で大地を掴み、全身を静かに一点へと収束させた。


 獣は腰を沈め、一気に跳んだ。

 その起こり、筋肉の収縮、尾の揺れ、牙の開き。すべてが目に入る。


 半歩沈み込み、木刀を斜めに振り下ろす。

 乾いた衝撃。骨を打つ確かな感触。


 獣は声をあげることもなく、首から崩れ落ちた。

 血が土を濡らし、夜の森に生臭さが広がる。


 心はしばらく木刀を構えたまま、呼吸を整えていた。

 やがて周囲に気配がないことを確認し、ゆっくりと木刀を下ろす。


 「……見たこともない獣だな」

 呟きながら死骸を見下ろす。犬に似ているが、角を持つ生き物など聞いたことがない。


 鼻を突く血の匂い。

 掌に残る手応え。

 それらだけが確かな現実だった。


 心は木刀を膝に置き、改めて目の前の獣を見下ろした。


 息を潜めてもしばらく動かない。確かに息絶えている。

 犬に似た姿だが、額から突き出した角と、赤く濁った瞳はこの世界のものではない。

 (……やはり、ただの獣じゃない)

 そう思っても断定はできない。ただ、見たこともない存在だという事実だけが胸に残った。


 鼻を突く血の匂いに思わず顔をしかめる。

 それでも目を逸らすことはなかった。奪った命に向き合うのもまた、祖父に教えられた「武の礼」だからだ。


 「命を奪ったら、礼を尽くせ。……食うならなおさらだ」

 祖父の低い声が脳裏に蘇る。


 胃が鳴った。

 葬儀の朝から何も口にしていなかった。

 飢えは容赦なく身体を蝕み、意識を曇らせる。


 「……食べるしかないか」

 独り言を吐き出すと、返事はなくても気持ちが定まった。


 制服の内ポケットを探ると、小さな折り畳みの刃物があった。祖父から受け継いだ古道具だ。畳の修繕や日常の雑事に使っていたが、今は命を繋ぐ唯一の道具になる。


 心は死骸を横たえ、腹部に刃を差し込んだ。

 皮を裂いた瞬間、生暖かい血が溢れ出し、土を濡らす。

 鼻腔に押し寄せる獣臭に喉がひきつる。

 (……これはただの作業だ。動じるな)

 心を鎮め、淡々と手を動かす。腱を断ち、内臓を避け、肉の塊を切り取った。


 次は火だ。

 周囲を見渡せば、乾いた枝葉が足元に散らばっていた。太い枝を組み、小枝を芯にして山を作る。二つの石を擦り合わせると、火花が散った。


 何度も失敗した。指先が擦り切れ、痛みが走る。

 それでも試みをやめなかった。

 やがて枯葉に火が移り、小さな炎がぱちぱちと生まれる。


 「……よし」

 短く呟き、息を吹きかける。炎が枝へ広がり、焚火の形を成していった。


 肉を削いで枝に刺し、火にかざす。

 脂が滴り、炎が弾けた。香ばしい匂いが夜気を満たし、空腹をさらに刺激する。


 「……いただきます」

 祖父から叩き込まれた習わし通り、小さく口にしてから歯を立てた。


 焼けた肉は硬く、繊維が歯を押し返す。だが噛み砕けば旨味がわずかに広がり、腹に温もりが落ちていった。

 「……思ったより悪くない」

 独り言のように呟くと、張り詰めていた緊張がわずかにほどけた。


 焚火が森の闇を押し返す。光の円の外はなお不気味に暗く、何が潜んでいるのか分からない。それでも炎と温もりがあるだけで、心は人間らしい安心を取り戻せた。


 木刀を膝に置き、炎を見つめる。

 (ここはどこだ。なぜ俺はここにいる)

 答えは出ない。だが、考えることをやめれば恐怖に飲まれる。だからこそ、次にどう動くかを思案する。


 祖父の声が再び脳裏をよぎった。

 「武は生きるためにある。守るためにある」

 生き抜かなければならない。独りであっても。


 風が吹き、炎が揺れる。

 木々のざわめきが遠い囁きに聞こえた。

 心は制服の胸元を握りしめ、静かに目を閉じた。


 「……生きる」

 小さな声で呟く。祈りにも似た誓いだった。

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