【第五章】第六話~大空へ再び~

「おはよー」

 夏休みが明け、涼香と一緒に教室に入ると私は元気良く挨拶した。この夏休みでみんな色々変化している。けれどそれにはもう目もくれず、私は凪の方しか見ない。そして凪は予想通り、自分の席で暗く落ち込んでいた。

「どうしたの、凪?」

 そう心配そうにしながら近付く私は我ながら演技が上手くなったなと心中苦笑する。けれどもうそうなる事を知っていたので、新たに心配なんてできないのがループ世界の難しい所だ。

「夏にね、展覧会があるって言ってたでしょ。あれで私、入賞しか取れなかったんだ。両親からは散々駄目出しされ、一緒に仕事に回っても取引先の人達にずっと出来の悪い娘って言われてさ。嫌になっちゃったんだよね」

 言いながら凪がうなだれる。私は涼香を見ると、涼香も沈痛そうな表情を浮かべていた。

「入賞でも凄い事なのに、それは辛いよね。凪は頑張っているのにさ」

「そうだよ、普通は入賞でも凄い事なんだよ。涼香の言う通り、凪は頑張っているんだよ。何も恥じる事なんか無いよ」

 大きな溜息が机に向かて吐き出された。

「そうなんだよ、それだって難しい事なんだよ。なのにみんなの前で、会う人会う人に駄目だとか出来が悪いって言われると、自信無くしちゃうよ。涼香だってそう言うのあるでしょ?」

 気怠そうに凪が涼香を見れば、涼香は深くうなずいた。

「もちろんあるよ。これ以上自分ではもう何をすればいいのかわからないくらい頑張ったのに、色んな事を言われる辛さは知ってるつもり。それでお仕事が減ったり、雑誌にあれこれ書かれたりしてさ、終わったとか何だとか酷いことたくさん言われたよ」

「そうだよね、涼香の方が辛い思いたくさんしてるよね。私なんかがこんな悩みで落ち込むなんて、本当は駄目なんだろうな」

 そしてまたも視線を机に向ける凪。ここが正念場だろう。

「そんな事無いよ。悩みなんて人それぞれで、比べるようなもんじゃない。凪には凪の、涼香には涼香の辛さがあるんだから」

「わかってる、そんなの。でも」

 凪がスカートを握りしめたのが見えた。私はそっと凪の傍にしゃがみ込み、目線を会わせようとした時だった。

「なになに、どしたのー? なんか暗いよ」

「モカ……」

 場の雰囲気にそぐわないほど明るい調子で声をかけてきたモカに、涼香がわずかに眉根を寄せながら目を向けた。さすがのモカも私達三人の様子がただ事じゃないと気付いたのか、気まずそうに小さく頭を下げた。

「なんか悩みとかある感じ? だったら夏休み前みたいにパーッと遊びに行ったら気晴らしになるんじゃないかな?」

「……ごめん、モカ。今回の事でしばらく家族から外出禁止を言い渡されてるの」

 凪の一言にしんと重苦しい空気が漂う。だから私はそれを打ち破るよう、しゃがんだまま凪を真剣に見詰めた。

「じゃあ学校内ならいいんだよね」

「それは特に何も言われてないけど、でもあまり帰るの遅くなったら何か言われるだろうし、それに私自身遊びたいとか今は思えないんだよね」

「違うの、私が言いたいのは字を教えて欲しいなって事」

 すると凪が面倒臭そうに私に視線を向けた。

「どうして?」

「ほら、下手な人に教える事によって基礎を再確認できたりとかあるじゃない。勉強だってもさ、人に教えるのって結局自分の学習の再確認にもなるから良いって言うし」

 凪はまだ面倒臭そうにしているけど、でも目を逸らさない。後ろで和樹とモカが「そうかも」と言っていたが、すぐ黒岩にたしなめられていた。

「私さ、少しでも字が上手くなりたいなって思って書道を選んだけど、まだ上手くなれないからさ。だからお願い凪、教えてよ」

「……硬筆と毛筆じゃ書き方違うから」

「それでもいいよ。基本は変わらないだろうし、それに習字だって上手くなりたいの。凪のように書けたらなって思うし、あとはまぁ成績良くなりたいし」

 私が照れ笑いを浮かべると、凪が再びうつむいて溜息をついた。やっぱり駄目なんだろうか。あの漫画の通りにはいかないのだろうか。それとも、選択教室が習字ならばと考えたのがそもそも間違っていたのだろうか?

「……わかった。夏希がそこまで言うなら」

 その言葉を聞き、私は思わず両手を握りしめた。涼香達も思わずおぉと感嘆の声が漏れる。

「あまり言いたくないけど夏希、書道の成績良くなかったもんね」

「う……まぁ、そうだね。だからお願いします」

 頭を下げると和樹が後ろで大笑いしていた。ちょっとイラッとしたけど、でも今は凪がほんの少しでも前向きになってくれた事の方が嬉しい。顔を上げれば凪の表情がほんの少し和らいでいたので、思わず私は満面の笑顔を見せる。

「それで、いつ教えればいいのかな?」

「もしよければ放課後、書道部の片隅でどうかな? 凪って遊ぶのは禁止されてるかもしれないけど、部活は禁止されてないんでしょ」

「うん、まぁ。でも夏希、吹奏楽部あるよね?」

 当然の疑問。そしてそれはある程度想定していたものだった。私は涼香に向き直ると、両手を合わせて頭を下げた。

「だからごめん涼香、しばらく部活には行けない」

「えぇー?! 本当に?」

 驚いて目を丸くする涼香に申し訳無いと思いつつ、もうこれしかないから私はもう一度頭を下げた。

「先生には補習のためって言っておいて。今はそう、凪と私の成績が大事なの」

「えー……まぁ、しょうがないか。でも先生には自分で言ってよね」

「わかったよ。そうだ黒岩、アンタも書道だから一緒にやろうよ」

 私は黒岩にそう呼びかけると、まさか自分に水を向けられると思っていなかったのか今までにないくらい驚いていた。

「え、俺も?」

「当たり前でしょ、同じ書道なんだからさ。黒岩もそこそこ上手いけど、凪ほどじゃないでしょ。だからみんなでやろうよ」

 私の呼びかけに凪も自然と黒岩に視線を向けていた。それを知ってか知らずか、黒岩は髪の毛に手を入れ首筋をなぞる。照れと面倒臭さを同居させながら。

「あー、わかったよ。やるよ、俺も。間宮もいいか、それで?」

「うん、私は構わないよ」

 ふと凪が笑顔を見せる。やっぱり事情を知る私には黒岩に向けられる笑顔が私達に向けられるそれとは違った柔らかさがあったのを見逃さなかった。


 さっそく私達はその日の放課後から書道部が使用している多目的室に集まり、部員とは離れた位置に黒岩と並んで座った。この時までは私も黒岩も授業の延長くらいだろうと考えていたのだが、それは大きな間違いだった。

「夏希は止め、跳ねが足りない」

「黒岩君はもっと大きく、あと墨をつけすぎ」

 他の部員をほったらかしにしてるのかってレベルで、私達に熱血指導してくる。いや、熱血指導なんて言い回しは甘いくらいで、もし凪は竹刀を持っていたら容赦なく机を叩きながら教えているだろう。

 私も黒岩も驚きつつも、小さく背を丸めて筆を走らせる。

「だからそんなに背を丸めたら駄目なんだってば。姿勢、姿勢なの。書道は正しい姿勢、正しい筆の運び。その正しさの反復をいかにできるかだから」

 ハンドルを持ったら人が変わる、というのは笑い話で見た事がある。でもそれは創作の世界なのかなと思っていた。だからこうして目の前で授業とは違って書道を教えようとしてくれている凪はきっと、筆を持ったら人格が変わるのかもしれない。

「だからここはもっと跳ねないと。そうしないとこの字というか言葉が委縮した感じになっちゃうからさ。黒岩君もそう。もっともっと大きく、自由に書いて」

「わかった」

 黒岩は黙々と紙と筆の世界に没入していった。私は何だかんだ元気になってきた凪を嬉しく思いながら筆を走らせる。

「だから夏希、そこはもっとちゃんと止めるの」

 ……嬉しいけど、厳しいなぁ。


「はー、こんなにちゃんと意識して字を書いたのは初めてかも」

「俺も。ちゃんとやってるつもりなのに、思うように書けないもんだな」

 部活の時間が終わると、私と黒岩は半ば呆然としながら天を見上げていた。凪は他の部員と共に後片付けをしている。

「でも、凪が元気になったみたいで良かったよ」

「そうだな。ありがと星野」

「ん? なんで黒岩がお礼を言うのよ」

 私がニヤニヤしながら黒岩を見れば、面倒臭そうに視線を逸らされた。

「いいだろ、何でも。とにかくあんなに落ち込んでいた間宮が元気になったのも星野がこういう提案をしたからなのは間違い無いだろ」

「だといいけど」

 そう言いながら、私は今回の選択が間違っていなかった事に安堵する。以前ならどうにもならなかったのだ。このまま元気になってくれるなら、ループのトリガーを回避できた事になる。それはつまり、幸せな未来へと向かっているに違いない。

「二人ともお疲れ様」

 後ろから凪に声をかけられたので、私達は反射的に姿勢を正し彼女の方を向いた。

「もう終わったんだから」

 そう言いながらクスクスと笑う凪は以前のよう。だから私も黒岩も表情が和らぐ。

「いやぁ、勉強になりました」

「そうだな。こんな風に字を教わるなんてなかなか無かったから新鮮だったよ」

「私の方こそ、熱が入っちゃって。でもなんか、二人に教えてたら初心を思い出したかも。私は綺麗な字を書きたい、心の字を表したいんだなって。だから夏希、黒岩君、ありがとう」

 優しい凪の微笑みに私は静かにうなずいた。今の凪にあの暗い影は無い。だからもうきっと、大丈夫なのかもしれない。

「じゃあ、もうこの習字教室は卒業だね」

「……え、この出来で?」

 ピンと空気が張り詰める。黒岩も私も笑顔から真顔へと変化していった。

「ま、まぁ、結構上達したような気もするし」

「でも夏希、こんなんじゃ成績に影響しないよ。中途半端な成績になったら、教えた私が駄目だって思われるじゃない」

「だってよ。頑張れ、星野」

 矛先が私だとわかった黒岩は少し安堵した表情になる。けれどそれがいけなかった。

「黒岩君だって、まだまだだよ。まさか終わりにしないよね」

「そ、そりゃもちろん。やるって決めたからな」

 黒岩が大きくうなずけば、凪も満面の笑みを浮かべた。

「じゃあまた明日ね。どうしても外せない用事がある時は言って」

 ……凪、習字の事になれば本当に人が変わったようになるな。いやでも、幼い頃からもっと厳しい環境で育ってきたんだ、そりゃこうなるのも仕方ないか。

「それじゃあ私は涼香を待ってから帰るけど、黒岩は凪を途中まで送って行きなよ」

 驚いた顔で黒岩が私の方を見てきた。それは凪も同じだった。

「ほら、今日の復習でもしながら帰った方が学習効果高いでしょ。それに女の子一人で帰らす気なの?」

 何か言いたげだったが、黒岩は「わかったよ」と一言言うと凪の方を見た。凪もどこかまんざらじゃない様子で黒岩を見ている。それもそうだ、この二人は両想いなのだから。まだどちらもアプローチかけていないとはいえ、嫌な気にはならないだろう。

「それじゃまた明日ね」

 だから私は邪魔にならないよう、すぐに多目的室を出た。


 教室に戻れば涼香のカバンがまだあった。吹奏楽部はまだ終わってないみたいだ。それでも時計を見ればもうそろそろだろう。誰もいない教室で、私は自分の席に座るとぼうっと窓の外へ目をやった。

 凪の方はきっとこれで大丈夫なはずだ。やっと前に進める。

 久し振りに訪れた心の平穏。凪が不安定な様子を何度も見て、何度も心を痛めてきたからこそ、目の前の夕日が殊更綺麗に見える。そしてこれを乗り越えたからこそ、今度は涼香の事に集中できるだろう。

 涼香……。

 幼い頃からの親友で、大事な人。そんな彼女はこのループにおいては必ず不幸になる。それも私の目の前ではなく、見えなくなってから。幾ら何でも話してと伝えても、きっと奥底までは響いていないのかもしれない。

 それはきっと、恋心のせい。

 もちろん涼香にとっても私は特別なのだろう。でもそこに秘められた恋心があるから本当の気持ちを言い出せず、結局本音も言えないのかもしれない。だからきっと仕事や家庭の悩みの表面は言えても、本音が言えないから色々抱えてしまっている。

 両想いになれば、解決するのかな?

 乱暴な考えだってのはわかっている。でも、もうそれしかないとも思っている。結局涼香は私に気持ちを打ち明けても、私のハッキリとした返事を聞かないまま逃げてしまい、結果失踪と言う形で亡くなっているのだろうから。

 正直、これ以上の友情の発展は見込めない。もう友達としては最高の状態なのだろうから。そして相手が恋のステージに行ってしまったのなら、私も行くしかない。仕方なくや無理矢理にじゃない、このループを経験して私もそうなっているのだから。

「涼香……」

 溜息交じりに想いがこぼれる。

「うわっ、夏希まだ帰ってなかったの?」

 窓辺に向かって独り言を言った途端、背後から涼香が驚いたように声をあげた。私はそれに驚いて振り向けば、お互い驚いた顔で数秒見詰め合い、笑った。

「涼香、今終わったの?」

「そうだよ。だから帰ろうと思って教室にカバン取りに来たら、夏希がいるんだもん。ビックリしちゃったよ。まさかいるなんて思ってなかったからさ」

「いやぁ、私もちょっと前に終わったんだよね。だから涼香待とうかなって思ってさ」

 涼香は嬉しそうに私を見て、笑いかけてきた。

「凪はどうだった?」

「帰りながら話すよ」

 私がカバンを持つ仕草をすると、涼香も笑ってうなずいた。


「いやもうさ、習字をしてる時の凪は別人だよ。私も黒岩もすっごい怒られたんだよ」

「いやー、信じられないなぁ。あの凪が?」

 学校からの帰り道、私は凪による指導を話していた。もう時間が時間なので下校する生徒はまばらで、何だったら周囲を見回してもあまりいない。だから本当に涼香と二人きりな世界だ。

「わかるよ、涼香の気持ち。普段の凪を見てたら想像できないよね。だからこそ私も黒岩もビックリしたんだよ。姿勢を正せ、止め跳ねはちゃんとやって、字を大きくってすっごい言われたもん。昭和の体育教師なら竹刀で叩いてたね」

「えー……さすがに夏希、盛ってるでしょ」

「いやいや、本当だって。黒岩に訊いてもいいよ」

「それは冗談だけど、えー……あの凪がかぁ。ちょっと想像できないな」

「もう、涼香に実際見せてあげたい。一緒に凪の授業受ければわかってくれるよ」

 私が憤慨してそう言えば、涼香は小さく笑った。

「夏希、忘れてるでしょ。私こう見えても書道五段はあるんだよ」

「そうだった……」

 私達は笑いながら歩き続ける。夕日が彩を変え、やがて暗くなりつつある寒色系の色味になっていくにつれ、話が盛り上がった。

「っと、時間だからここまでだね」

 いつもの分かれ道に着くと、私は手を振る。涼香もうなずいて、私と同じくらい大きく手を振った。

 あぁ、こんな日々がどうか続きますように……。

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