第5章:嵐の序曲
朝の空気が薄く冷たい。岐阜の空は快晴にも曇天にも決めきれず、灰の膜を一枚だけ張ったように、光を均していた。
滑走路に横たわる整備桟橋、鈍色の機体、乾いた油の匂い――昨日の戦闘の余熱は、まだ金属の隙間に残っている。
《神経接続、安定。反応0.12。呼吸は吸って四、止めて二、吐いて六》
「了解、SAYAKA」
コクピットの内側で、俺――長瀬海斗の背骨に、X-00《HAYATE》の鼓動が噛み合う。薄緑のHUDが立ち上がり、篠原が観測室から低い声で続けた。
「無人機対処アルゴリズム、最新。横滑りのトリムと角速度収束の“綺麗さ”を拾う。揺らぎの少ない個体を先に落とせ」
「聞いたな、長瀬二尉」外で神谷静香三佐の声が短く響く。「今日の目的は勝利じゃない。生き残りながら、次に備えるだ」
「はい、神谷三佐」
「はいはい、私はきっちり働いてから生き残りますよ~」水島がわざと軽口を乗せる。「桐生さん、固いのは装甲だけでいいですからね?」
「了解」桐生剛は相変わらず余白の少ない返事を寄越した。
午前六時、警戒音が一段階上がる。北西の稜線の上、黒い粒が十、二十――やがて数を数える意味を失うほど広がった。
「来る」
《敵無人機、三十二。前回の派生型。回避パターン、単調》
スロットルを押し出し、HAYATEの脚部スラスターが白い息を吐く。地表の砂が低く走り、風が装甲の縁を撫でた。
第一波の火線が空を縫い、地面が破裂する。SAYAKAの赤い予測線をなぞって斜めに出ると、弾帯の束が一拍遅れて通り過ぎ、背後で舗装片が雨を叩いた。
「撃て、長瀬!」桐生の声。
トリガー。鉛の雨。無人機の胸板が花のように割れ、ひとつ、ふたつ。
水島の散弾が横合いから走り、バラけた群れの膝を片端から折っていく。
《揺らぎの少ない四機、優先マーク》
「了解」
呼吸の数だけ、標的が消える。アラームが一瞬だけ黄色に跳ね、また緑に戻る。
七分後、空は風の音を取り戻し、残党は山の影へ消えた。
「終わりじゃない」静香が短く言った。「これは“触診”だ」
観測室のガラス越しに、白衣の篠原が顎を引く。「敵は学習している。こちらも同じだけ、いやそれ以上に学ばないと先はない」
◇
午前十時。
次の報告は、声の温度が違った。
「太平洋上で輸送艦隊の集結確認。有人機混成の打撃群、進路は中部内陸」
司令塔に、白髪まじりの男が現れる。灰を被った軍帽、落ち着き払った瞳。岐阜基地司令、草薙。
スピーカーが低く唸り、声が全域に届く。
「全員、聞け。敵は岐阜を抜きに来る。ここを落とせば、日本は、世界も折れる。だが逆に言えば――ここで立てば折れない。準備に入れ」
歓声は上がらない。誰もそんな余白を持っていない。ただ、整備兵が走り、装甲板が打たれ、弾薬が運ばれる音が、基地に脈を通す。
静香は隊の前に立ち、ひと言だけ落とした。
「生きて帰れ。命令だ」
水島が親指を立て、桐生は黙って頷く。俺はヘルメットの内側で目を閉じ、SAYAKAの数える拍に肺を合わせた。
◇
雲が低くなる。午後の光は色を失い、影だけが濃くなっていく。
最初の衝撃は、空ではなく地面から来た。外周のコンクリートが裂け、爆炎が土色の柱を立てる。
「敵、先遣混成! 無人二十、有人八、低空から侵入!」
《有人機の反応遅延、左旋回で0.45秒。ツーマンセルの同期は良好》
「桐生、右から切り取って」
「了解」
「水島、低空を切り離して。――長瀬、私の左」
HAYATEが土煙の腹に潜り込む。砂の舌の奥から、鈍い甲高音と白い光。
SAYAKAの線が、人的な“癖”と無人の“綺麗さ”を違う色で描く。人間は揺らぎ、機械は揺らがない。その違いに照準を合わせるだけだ――簡単に言えば。
簡単ではない。
肩に衝撃。視界の左上で装甲が剝がれ、警告が二度だけ短く点滅した。
《損傷軽微、継戦可。左肩二層目、緩衝材欠損》
「持つ」
水島の散弾が上から通路を穿ち、静香が杭を打つようにコアへ突き立てる。
桐生の三連射が関節を断ち、HAYATEがその穴へ滑り込む。
無人機の群れは、数を削られても列を乱さず、有人機は味方の穴を埋めるように出てくる。
敵の“設計思想”は、恐ろしく冷静だ。
五分、八分、十二分――呼吸は冷たく、手の震えは数えるたびに奥へ沈んでいく。
やがて、混成の第一陣は退いた。
しかし、基地に戻る間は与えられない。
「第二陣接近。無人四十、有人二十、輸送艦隊は外周の外へ。上陸用ストライダーを随伴」
通信士の声が乾く。草薙司令は短く言う。「防衛線を段階で組み直せ。焦るな」
◇
夕刻、風向きが変わる。海の匂いが、内陸にしては濃すぎる角を立てて鼻孔に刺さった。
外周の防護壁に、一斉に火花が散る。
空は低く、白いミサイル痕が幾条も重なり、地上は重い足音と鉄の叫びで満ちる。
「各機、散開しつつ第二防衛ラインを維持! 市街地への射線は絶対に通すな!」静香の声は硬質で、しかし折れない。
《無人群、前衛の密度が高すぎます。密度低下ルート提案》
「通す。――莉菜、三秒だけ火点を上げて」
「三秒だけね!」
散弾が空気を噛み砕き、火花が横に走る。
そこを桐生が切り裂き、俺が押す。
押し返される。
押し戻す。
その往復の中で、時間はじわじわと削り取られていく。
防衛線が持たないと、誰も口に出さないまま理解する瞬間がある。
それは、銃声の間に生まれた妙な静けさや、破片の落ちる角度の変化、無線の向こうの呼吸の回数でわかる。
「司令、外周の一部、持ちません!」
「後退線を一つ下げろ。格納庫前で粘る。歩兵は火炎の通り道を塞げ」
基地の内側に、戦場が食い込んだ。
整備桟橋の影を火が舐め、部材が悲鳴を上げ、金属の匂いに焦げたゴムの甘さが混ざる。
そのときだった。
格納庫の奥、仄暗い区画から、ひとつの視線がこちらを横切った。
軍服を着崩した四十代、頬の皺は深く、目だけが若い獣のように鋭い――名前はまだ、無線にも記録にも出ない。
彼はこちらを一瞥し、工具箱に手をやり、整備兵に何か短く指示をして、そのまま影に溶けた。
「三佐、今の――」
「今は戦闘だ、二尉」静香の声は、少しだけ低かった。「目の前を抑えろ」
了解、と答えた声は自分のものだったが、どこか遠かった。
◇
夜が早い。
計器はまだ昼の顔をしているのに、戦場の光はとっくに夜の濃さを帯びている。
無人機の波は間隔を狭め、有人機は装甲を叩きつけるように接近してくる。
外周の砲座がひとつ、またひとつ沈黙し、対空火網に穴があく。
そこを縫って、ミサイルが低く通り、格納庫の梁が火の鳥のように飛び散った。
《予測ルート更新。五手先までの推奨》
「任せる」
HAYATEの胴体に振動が走り、視界の端で警告が短く点滅する。
それでも、引き金は正確に動いた。
敵の“綺麗さ”は、いったん見分けられるようになると、逆に目に焼きついて離れない。
揺らぎのない線、無駄のない角、完璧な同期――それは人間の身体にとって不自然で、だから狙える。
十分、十五分――時間の単位が溶ける。
無線の向こうで、草薙司令の声が一段低く落ちた。
「全機へ。第三後退線を準備する。焦るな――まだ折れるな」
“まだ”。
まだ、という言葉は、限界と希望を同時に指す。
その均衡に、部隊全体が立っている。
銃声がわずかに途切れ、風が吹き抜ける。
外周の端、黒いシルエットがひとつ、格納庫の外壁に背を預けるように立ち、空を見上げていた。
昼でも夜でもない、戦場だけが持つ灰色の光が、頬の影を濃くする。
彼はまだ名乗らない。物語は次章で彼に名を与える。
ただ、その眼は、自分の二十秒をどこに使うかを、もう決めている眼だ、と直感した。
◇
基地の中心に向けて、戦場がじわりと寄ってくる。
歩兵の怒鳴り声、救護の短い指示、弾帯の切れる音、金属の泣き声――すべてがひとつの膜になって耳に張り付く。
呼吸は、まだ拍に合う。
SAYAKAの声は、わずかに柔らかい。
《長瀬二尉。心拍、平均より一五%高。問題なし》
「問題なし」
静香の機影が右に入り、桐生が左で膝を打ち、莉菜が上から通路を開ける。
俺は前へ出る。
そして、踏み止まる。
その繰り返しで、夜は濃くなる。
観測室で篠原がキーボードを叩く音が、なぜかここまで届く気がした。
彼はきっと、恐れを計算に変換している。“怖いなら計算しろ”――彼の口癖だ。
それでも恐れは消えない。だが、恐れの輪郭は、計算すればするほど掴めるようになる。
外周の片隅で、火が一段高く上がった。
その向こうに、影がひるがえり、ヘルメットのない頭が一瞬だけ光を掠める。
四十代、軍服を着崩し、目の奥に砂漠のような乾いた熱。
次章で俺たちは彼を“教官”と呼ぶ。今日はまだ、影だ。
◇
サイレンが一音だけ高くなり、すぐに戻る。
草薙司令が全域に言う。
「本番はここからだ。各機、弾薬と冷却を見ろ。整備は前へ出す。――生きて戻れ」
夜風が、焦げたゴムの甘さと、冷えた油の匂いを連れてくる。
俺はスロットルを少し握り直し、静香の機影に並んだ。
言葉は要らない。隣にいる事実が、十分に重い。
《記録。推奨:短い深呼吸を二回》
「了解、SAYAKA」
空の端に、重たい影がひとつ、ゆっくりと居座る気配があった。
旗艦か、要塞か、あるいはその手前の牙か。
名を与えるのは、明日でいい。
今はただ――嵐が始まる直前の、世界の呼吸に耳を当てる。
俺たちはまだ折れていない。
だが、折れないために、誰かが二十秒を差し出す。
そのことだけは、もう決まっているのだと、胸の底で理解していた。
夜が、完全に落ちた。
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