第2章:無人機の影
岐阜の朝は乾いている。山から降りてくる風は塩気を運ばず、代わりに鉄と油の匂いを格納庫に満たした。薄雲の切れ間から斜めに差す陽が、床に置かれた工具の影を細長く引き延ばす。
X-00《HAYATE》は膝を折り、灰色の巨塊のまま沈黙していた。装甲のエッジは光を鈍く反射し、昨日の模擬戦でついた擦過痕が、まだ新兵の肩の泥のように生々しい。
「長瀬二尉、動力系統オン。各部反応、良好。オールグリーンだ」
観測室から篠原の声。乾いた口調の奥に、研究者特有の熱が微かに滲む。
《おはようございます、長瀬二尉。初期自己診断、完了。生体信号の同期も安定しています》
SAYAKAの声は、初めて耳にしたあの日よりもわずかに柔らかい。機械の声帯でありながら、音と音の継ぎ目に人間的な間(ま)が生まれつつある気がした。
階段を下りてきた足音が止まり、黒髪を後ろで束ねた女性士官が視界に入る。迷彩の上着は皺一つなく、肩章の金色が冷たく光った。
「長瀬二尉」
神谷静香 三等空佐。姿勢の正しさだけで、場の空気が整う。
「出撃準備に入れ。――桐生、ブリーフィングを開始する」
簡易スクリーンが上がり、北陸沿岸の地図が赤で縁取られる。補給拠点からは黒煙のアイコンが立ち上がった。
「PMC連合による襲撃が継続中だ。敵ストライダー十。拠点の防護と、敵戦力の撃退が任務である」
静香の声は硬質で、余計な装飾を許さない。
「X-00は先頭で状況を切り開け。評価部隊の名に恥じるな。……以上だ」
頷きだけで返す。浜松の黒煙が一瞬脳裏に閃いたが、意識の底に押し込む。ここで手が震えるようでは、何も守れない。
出撃。ハッチが開く轟音と共に、朝の光がコクピットに流れ込み、HUDが淡く起動する。ハーネスが胸板を固く包み、骨伝導で伝わる起動振動が背骨に一定のリズムを刻む。
地面を一歩踏むごとに、脚部油圧が低く唸る。外套のような外気の冷たさが、装甲の隙間から肌に届く錯覚。HAYATEは生き物のように体重を移し、滑走路を離れて土の色に変わる道路へと出た。
沿岸へ向かう途中、空は薄い鉛色に沈み、海から押し寄せる風は火薬の匂いをかすかに含んでいた。低地の先、補給拠点の倉庫群の向こうで、黒煙が綿のように膨らみ、空にほつれていく。
「偵察、報告」
『水島三尉、観測位置に到達。敵影十。南から接近、速度高め』
高台の影から、細いがよく通る声。
『隊列整然。間隔は一定。――訓練された歩度です』
「全機聞け」
「前衛はHAYATE。桐生、側面を抑えろ。射線は市街地へ向けるな。――以上」
《長瀬二尉、呼吸を整えてください。吸って四、止めて二、吐いて六》
言われた通りに肺を動かす。視界の縁に、赤いターゲットマーカーが十個、時間差で灯った。
砂煙の向こう、黒い機影が列を崩さぬまま歩度を上げてくる。肩部の砲塔がこちらを向き、鈍色の光がいっせいに走った。
「来るぞ!」
第一射。地面が破裂し、土と砕けた舗装片が雨になって装甲を叩く。耳の内側で金属音が跳ね、警告ランプが数瞬黄色に点っては消えた。
《回避ルート提示。右斜め前、出力三二、維持》
スロットルを押し出し、機体を傾ける。視界が滑り、弾線の束が横を掠めた。破片が風のように過ぎ、爆炎の熱が頬に錯覚として触れる。
「撃ち返せ、長瀬」桐生の低い声。
トリガー。腕部ガトリングが咆哮し、先頭の敵機の脚部が砕ける。黒影が膝から崩れ、後続が滑らかに迂回して前進を続ける。――怯まない。列は乱れない。
《長瀬二尉、挙動に異常。数機の操縦反応に人間由来の遅延がありません》
「……遅延が、ない?」
《有人機と無人機の混成である可能性、高》
言葉が内耳に刺さる。無人――。浜松で見た、躊躇のない加速と減速、正面からの体当たり。頭の奥で点と点が線になる音がした。
「水島、桐生。聞いたな」静香が言う。
「了解。識別は?」桐生がSAYAKAに問う。
《行動アルゴリズムに個体差が少ない四機を無人と仮標定。マーキングします》
HUDに四つ、細い輪郭が追加で縁取られる。
「無人機を優先撃破。――長瀬二尉、行け」
「了解!」
HAYATEの重心を落とし、側面へ滑り込む。足裏で地面の擦過を感じるほどの低姿勢。
正面の二機が交差し、肩砲が火を吐く。SAYAKAが即座に回避角を上書きし、さらに一歩踏み込ませる。
《ゼロ・スラローム。膝関節の追従に注意》
膝のロックが一瞬ほどけ、体が前へ投げ出される感覚。だが恐怖より先に銃口が走る。
トリガー。被弾。無人機の胸部装甲が花のように開き、内部の骨組みが白く露出する。火柱。倒壊。
爆炎越しに別の黒影が跳び出し、視界の中央に急迫。速度が落ちない。ぶつけてくる。
《衝突予測。回避角、間に合いません。反撃を優先》
「距離!」
《十、八、――今》
ゼロ距離。引き金が骨ごと落ちるほど重く感じる。
火が胸の中で爆ぜ、衝撃が座席から背骨に登ってくる。正面の無人機が音もなく割れ、破片が雨になってコクピットの前を斜めに横切った。
視界の端で、別の二機が同時に動いた。片方は極端に短い予備動作で、もう片方は僚機の動きに合わせ過ぎるほど正確に同期する。同じ癖。人間ならば出ない揺らぎの少なさ。
《二番、三番も無人の確度高。マーカー更新》
トリガーを、恐怖の代わりに引く。
削った金属が歯の間に砂利のように軋む錯覚。弾帯が唸り、二機目の胸部がはじける。三機目は回避も不十分のまま半身で突っ込んできたが、桐生の側面射で肩を吹き飛ばされ、その場で沈んだ。
『桐生だ。二尉、右後ろ!』
反射で視線を流す。人の癖のある旋回――わずかな過剰回頭と、その後の戻し――をした機体が、こちらへ銃口を向ける。
有人。
トリガー。相手も撃つ。赤と黄色の線が交錯し、互いの装甲が火花を散らした。HAYATEの左肩に痛みのような衝撃。
SAYAKAが即座に圧をかけ、姿勢を保たせる。
《損傷軽微。左肩装甲二層目で停止。続行可能》
呼吸が乱れかける。SAYAKAが淡々と数える。
《吸って四、止めて二、吐いて六――良い。次、前》
戦場の中心で、世界が一点に細く集束していく。声と声の間に、浜松の黒い朝が差し込む余裕はもうない。
無人二を追加撃破。残る敵影は四。隊列が崩れ、全体にわずかな遅滞が生まれた瞬間、神谷三佐の声が落ちる。
「撤退の兆候だ。追撃は浅く。――市街地への流れ弾は禁止」
『了解』
敵の最後尾が煙幕を張り、列をくぐらせて海側へ離脱する。執拗さはあるが、無益な追撃はしてこない。
混じる。合理と冷酷。人と、人でないもの。
静けさが、爆炎の残り香の中に戻ってくる。破片が遅れて地面を叩き、周囲の空気がようやく風の音を思い出した。
「回収班、前へ。無人機回収を優先させろ」
『了解。安全圏確保後、回収に入る』
HAYATEは膝を折り、排熱が薄く白い息になって吐き出される。ヘルメットの内側に、汗の塩が乾いてざらついた。
視界の先で、無人機の胸腔から黒煙が細く立ち上り、空色に消えていく。感情がないものの死は、死と呼べるのか。そんな問いが一瞬浮かんだが、すぐに消えた。
《お疲れさまでした、長瀬二尉》
SAYAKAの声は平板だが、音の最後にほんの僅かな柔らかさが混じった気がした。
岐阜基地・解析室。壁一面のスクリーンに、分解されたコアの断面図が映し出される。篠原が白衣の袖を肘まで捲り、ピンセットで焼け焦げたチップを示した。
「AIコア、完全に焼損。自己破壊機構が作動している。――回収時点で既に遅かったようだ」
「復元は?」神谷三佐が残念そうにしながら問う。
「無理だ。メモリ層は炭だよ。データ復旧の足掛かりも残っていない」
篠原は別の基板を持ち上げ、ルーペ越しに目を細めた。
「ただし……配線の引き回し、基材の特性、ソフト直結のI/O配置。西側でも東側でもない。既存規格の“方言”に当てはまらない。第三の設計思想だ」
静香は腕を組み、無言で数秒スライドを眺める。
「つまり、PMC連合の背後に、独自の技術供給源がある可能性が高い、ということか」
「推測の域を出ませんが、現時点での結論はそれです」
「なお、コア外周の遮蔽材が異常に厚い。外部からのハッキング、電磁パルス、物理的ショック……すべてに過剰なまでの耐性を持たせている。情報を守る意思が、あからさまに構造に刻まれている」
水島が腕を組み、スクリーンではなく俺の顔を見る。
「……戦場で感じた“無感情さ”、あれは本当に“空っぽ”だったからなのかもね」
俺は答えず、硝子面に反射する自分の目を見た。浜松の朝の黒が、まだ瞳孔の底に残っている気がする。
「評価部隊」静香の声が室内の空気を引き締める。
「本日の戦闘で、敵は有人・無人の混成であることがほぼ確定した。次は無人機への対処ドクトリンを整備する。桐生、手順を起こせ。水島、観測データの整理を。篠原、X-00側のアルゴリズム更新案を今日中に」
「了解」三人の声が重なる。
静香はそのまま俺を見た。言葉は少ないが、射抜くような視線ではない。ただ、評価と期待の比率を測りながら、ここに立つ覚悟を見ている目だ。
「長瀬二尉。今日の反応は悪くない。だが、まだ“過去”に引かれる瞬間がある。……焦るな。仇を討つために急ぐのではなく、生きて勝つために急げ」
浜松で凍ったままの何かに、ゆっくりと熱が通う。敬礼で返すと、彼女も小さく顎を引いた。
会議が解散になり、廊下に出る。窓の外、夕日に近い光が滑走路を斜めに染め、作業車の影が長く延びている。
ポケットの中で、手袋越しの指先が汗で湿っていた。震えは、もうない。代わりに、骨の内側に沈んでいく静かな圧だけがある。生きて戻り、次に繋ぐ圧だ。
《長瀬二尉》
「なんだ、SAYAKA」
《本日の戦闘ログを解析します。あなたの呼吸と動作の相関が、前回より有意に向上しています》
《……評価します》
機械の言葉で「褒める」を言い換えた声音に、思わず笑いそうになる。
「それはどうも。――明日も頼む」
《了解》
扉が閉まる。鉄の音が短く響き、すぐに静けさに吸い込まれる。
夜の気配が滑走路の端からじわりと滲み始める中、俺は歩き出した。
「次は負けない」
その言葉は、復讐の呪いではなく、ようやく自分の中で未来へ向く誓いに変わりつつあった。
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