窓際の被写体
アスファルトが陽炎を揺らす季節。七月のカレンダーも、残すところ半分となっていた。夏休みは、もうすぐそこまで来ている。
美術準備室の大きな窓を開け放つと、グラウンドの喧騒に混じって、気の早いヒグラシの、どこか物悲しい鳴き声が微かに聞こえてきた。じっとりとした午後の光が、部屋の埃を金色に照らし出している。
賑やかな声が、ひどく耳障りだった。
彩良が熱っぽく語る夏合宿の計画。楽しそうに相槌を打つ栞先輩と響。夏休みを前にした、浮き足立った高揚感。
その、未来へ向かう明るいエネルギーが、今の俺には少しだけ息苦しかった。だから、だろうか。意識は、自然とその輪の中心から外へ向かった。
一人だけ、会話に参加せず、窓際で過去の幻影でも見ているかのような、詩織の姿へ。
彼女は、古い手帳と、一枚の色褪せた写真を手にしていた。
俺の視線が、その写真に吸い寄せられる。ピントが甘く、色が抜けている。技術者目線としては紛れもない駄作だ。
だが、それ以上に気になったのは、写真を見つめる詩織の横顔だった。焦点の合わない瞳で、何か必死に思い出そうとしているのか、その輪郭がふっと揺らぐ。
(……消えてしまいそうだ)
その表情は、どこか遠くを見ているようで、上の空だった。
そんな彼女の異変に、いつからか気づいていた。
俺の目は無意識に、「最大の謎」である彼女の一挙手一投足を追ってしまうらしい。彼女の景色の捉え方は、普通ではない。俺は、彼女のあり方に興味を持っていた。
◇◇◇
校舎から生徒の気配がほとんど消え、静寂が戻ってきた。
一人で帰路につこうと昇降口へ向かっていると、背後から、静かな声に呼び止められた。
「凪くん」
詩織だった。彼女は、少しだけ俯きがちに、俺の数歩手前で立ち止まった。
「……週末、空いてるかな」
「……特に、何もないが」
「あのね。……確かめたいことがあるの。一緒に行ってほしい場所があるんだ」
彼女が顔を上げる。その瞳には、昼間の部室で見せたような、上の空の光はなかった。真剣で、どこか、縋るような色が浮かんでいる。
「遊園地の、跡地……光陵ドリームランドって、知ってる?」
詩織の言葉に、俺の視線は彼女の手の中の「失敗作」と、その危うげな横顔との間を行き来した。
様々な思惑が頭をよぎる。
「……ああ」
少々思案した後、短く答えると、彼女は、少しだけ安心したように、ふわりと微笑んだ。
◇◇◇
週末の午後、俺と詩織は、市の郊外、森の中に打ち捨てられた遊園地の跡地にいた。
立ち入り禁止を告げる錆びたフェンスには、生命力の強い朝顔がびっしりと絡みつき、色鮮やかな花を咲かせている。
その先には、塗装が剥げ落ちた、メルヘンチックなゲート。かつては子供たちの夢の入り口だったであろうそれは、今はただ、静かに森へ還るのを待っているだけだった。
むせるような夏草のいきれと、金属の錆の匂いが混じり合う。遠くで鳴り響くヒグラシの声が、この場所の静寂を一層、際立たせていた。
詩織は、何かを思い出すように、ゆっくりと園内を歩き始めた。チケット売り場の跡地で立ち止まり、目を閉じる。
やがて、ポップコーンのワゴンがあったであろう広場で、記憶の糸を手繰るように、じっと空間を見つめている。
だが、その表情は晴れない。
「……おかしいな。ここに、甘くて良い匂いが漂ってたことは覚えてるのに。ワゴンの色とか、形とか、そういうのが全然……霧がかかったみたいに、思い出せない」
そんな彼女の邪魔をしないように、少しだけ距離を置き着いていく。
やがて、俺たちの足は、色褪せた木馬が物悲しく並ぶ、メリーゴーランドの前で止まった。
詩織は、意を決したようにポケットから一枚の写真を取り出した。部室で見ていた、あの日付も色も褪せた写真だ。彼女は、その写真と目の前の木馬を何度も見比べ、やがて、そのうちの一頭の前まで、吸い寄せられるように歩いていった。
その木馬の前に立つと、彼女は少し困ったように笑った。
「楽しかったことは、すごく覚えてる。ここで、お父さんと一緒に乗ったの。すごく、すごく、楽しかった」
彼女の声は、弾んでいた。だが、その目は、目の前の木馬ではなく、もっと遠い、不確かな何かを見ているようだった。
「でも、細かいことって、意外と思い出せないものだね。お父さんがどんな服を着てたかとか、この木馬の色とか……。本当は、何色だったかな。なんだか、もどかしいな」
その口調は、あくまで軽やかだった。だが、彼女の指先が、何もない空間を彷徨うように微かに震えている。眉間には、痛みでも堪えるかのような深󠄁い皺が刻まれていた。
単なる傷心ではない。まるで、失くしたら自分自身でなくなってしまう何かを、必死で繋ぎ止めようとする悲痛な祈りに見えた。
彼女の横顔に、不意に温室で撮ったあの『失敗写真』の光が重なって見えた。――光だ。ハッとして、俺は衝動的にカメラを構え直した。確かめずにはいられなかった。
「おい。お前が覚えてるのって、本当にこんな真昼の光か?」
「え……わからない。でも、なんだか……違う気もする」
「だろ」
カメラの設定を調整し、意図的に露出を落とし、ホワイトバランスを夕暮れの色に近づける。液晶モニターに映る世界が、セピア色の記憶のように、色濃く、光の柔らかいものに変わっていく。
「多分、もっと陽が傾いた、影が長くなる時間だ。色が濃くて、光が柔らかい。……この方が、お前の見たい景色に近いんじゃないか?」
解説するのではなく、カメラの液晶画面を彼女に見せた。それは、問いかけだった。
詩織は、差し出された小さな液晶画面を、食い入るように見つめた。
モニターに映る、人工的に作られた夕暮れの景色。その、どこか懐かしい光の中に、彼女は失われた記憶の断片を探すように、瞳を揺らした。
「……うん。……うん、そう、かも」
やがて、彼女は呟いた。か細い、しかし、確かな光が宿った声だった。
「こっちの光の方が、ずっと……しっくりくる」
詩織のその言葉を合図に、停滞していた空気が動いた。俺たちは、本格的に記憶の欠片を探すため、腰を下ろせる場所を探し始めた。
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