入部
俺は、美術準備室の引き戸に、迷いなく手をかけた。
ガラリ、と乾いた音がして、扉が横に滑る。
一瞬の静寂。中にいた四人の視線が、一斉に俺に突き刺さった。俺はその視線を受け止めながら、部屋の空気、光の角度、湿度、そして匂いを、まるで計測するようにゆっくりと吸い込む。
午後の終わりを告げる西日が、大きな窓から斜めに差し込み、空気中を舞う無数の埃をキラキラと照らし出している。
古い木の匂い、絵の具の匂い、そして、ほうじ茶の香ばしい匂い。それら全ての情報が、俺の頭の中で分類されていく。
先に沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。
「あ、月岡くん! どうしたの? また写真、見せに来てくれた?」
テーブルのそばに立っていた木村彩良が、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。俺は動かず、その表情——吊り上がった口角、わずかに潤んだ瞳——を冷静に見つめる。彼女の肩越しにある作りかけのジオラマの、接着剤の不自然な光沢に、俺の眉間がわずかにひそめられた。
俺は無言で彼女の横を通り過ぎ、学生鞄から入会届を取り出すと、テーブルの真ん中に、カサリと乾いた音を立てて置いた。指先が離れる、最後の瞬間まで、紙の四隅がテーブルと完全に平行になるように。
「おまえたちの活動における価値基準——その曖昧さに、興味が湧いた」
俺の声は、音の高低が一切ない、完璧にフラットなものだったはずだ。
「俺自身の『記録』というものさしで、分析させてもらいたい。そのために、この部に入れてくれ」
シン、と静まり返る準備室。四者四様の視線が、俺と、テーブルの上の紙切れとの間を行き来している。
「え、えっと……ごめん、難しいことはよく分かんないけど……それって、つまり、入部してくれるってこと!? やったー!」
最初に叫んだのは、彩良だった。彼女は満面の笑みで手を叩く。その単純すぎる反応に、俺はほんのわずかに口の端を歪め、すぐに元に戻した。
「……面白い音がするようになったな、お前」
次に呟いたのは、雨宮響だった。俺は彼の言葉ではなく、彼の首にかかったヘッドホンの、使い込まれたイヤーパッドの皺だけを、値踏みするように目で追った。
「新しい登場人物、というわけですね」
ふふ、と悪戯っぽく笑ったのは、先輩である星野栞だった。彼女は読んでいた文庫本にしおりを挟むと、優雅な仕草で立ち上がった。俺は、彼女のその芝居がかった指先の動きから、彼女が読んでいた文庫本の背表紙に印刷された、小さな明朝体の文字列へと、ゆっくりと視線を滑らせた。
そして、最後に。
ずっと黙って俺を見ていた霞沢詩織が、ゆっくりと立ち上がった。彼女は、俺のそばまで歩いてくると、テーブルの上の入会届には目もくれず、ただ、まっすぐに俺の瞳を見た。
その、全てを見通すような視線。俺は、初めて、固く握りしめていた自分の拳の中で、爪が食い込んでいることに気づいた。
「そっか」
彼女は、ただ、そう言った。
そして、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。
「これから、よろしくね。月岡くん」
その、あまりにも穏やかな肯定に、俺は喉が渇くような感覚を覚え、咄嗟に視線を床に落とした。
「ささ、月岡くんも座って! お茶、淹れるね!」
彩良が、俺の腕を引いて、空いていた椅子に座らせる。俺の体は、まるで他人のもののように、ぎこちなく動いた。湯気の立つマグカップが目の前に置かれる。ほうじ茶の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
差し出されたマグカップを、俺はすぐには受け取れなかった。歓迎の言葉が飛び交う中で、俺はただ、テーブルの木目の一点を見つめることで、かろうじて自分の平静を保っていた。視界の端で、仲間たちの楽しげな動きが、ピントの合わない映像のようにぼやけている。
俺は、ゆっくりとマグカップに手を伸ばした。これから始まるのは、この混沌とした世界の観察。そのはずだった。
指先に伝わる、温かい陶器の感触。俺は、その熱から逃れるように、一気にそれを呷った。
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