『村上春樹全作品1 風の歌を聴け/1973年のピンボール』
前にも書いたけれど、いまから30年以上前ぼくが高校生だったころにたまたまとなりに座っていたクラスメイトが読んでいた『1973年のピンボール』を読ませてもらって、それでその後『ノルウェイの森』をためしに読んでみたことからぼくと村上春樹の長い付き合いははじまった。それ以来、嫌いになったり無関心になってしまったりした時期を経たりしたのもたしかだけど、それでもいまは胸を張って「春樹さんが好き」と言える。良かれ悪しかれ、ぼく自身の文体や思考に多大に影響をおよぼした、ぼくにとっては父親のような存在だ。
さいきんになって、ふとまた関心が湧いてきたこともあってこの『村上春樹全作品』の第1巻を読み返してみた。そして「いったいどうしてぼくは村上春樹に惹かれるのだろう」と考えてみたりもしたのだった。カッコよく言えば春樹さんから受けた影響を「言語化」しようとした、となるだろうか。こんかいの読書で思ったことは、人の死のイメージが通奏低音を成しているという印象だった。人の死や血腥さを際立たせる細部がさまざまなところに織り込まれていて、それがこのいっけんするとかなり軽い(そして、軟派にも見える)作品に微妙な陰影をあたえていると感じたのだった。
たとえば、『風の歌を聴け』は主人公の祖父や祖母、デレク・ハートフィールドといった人の死がまず(さり気なく?)語られる。鼠との初対面で起きた交通事故もかなり血腥いし、消し飛んだ小指や「三番目に寝た女の子」の死も一筆書き的にサラリと語られているようで、不意に書かれることがらであることもあってこちらを軽く突き飛ばすようなインパクトを与える。『1973年のピンボール』は直子との死別がまず語られ、そこからピンボール台との別れや配電盤の葬儀の場面も死を強く実感させる。
死、そして別れ。あるいは永遠の断絶(ミスコミュニケーション)。それは「『にもかかわらず』軽やかに書かれることでかろうじて危ういバランスを保ちながら、ともあれ読めるものになっている」のか。それとも「軽やかに書かれる『からこそ』重さを際立たせる逆説的な効果を発揮した結果となって結実する」のか。それはけっきょく読み手の価値観次第だろう。どちらにしても読み手を不意打ちするような効果となっていることには変わりなく、ぼくはつい「うまいなあ」と思ってしまった。
「ミスコミュニケーション」と言えば、この作品たち(とりわけ、『風の歌を聴け』)はそうした「コミュニケーション」をめぐって執拗に(あの手この手で)語りがぎこちなく展開する話なのだった。もちろんデビュー作ならではの事情というか、まだ「春樹文体」が確立される前の試行錯誤がそのまま出ているからという理由もあっただろう。だが、春樹さんにとっては書くことは(少なくともこれらの作品に代表される「初期」は)そのまま他人を希求し、他人に訴えかけるべく言葉を磨く過程だったのではないか。
言葉を磨くために、春樹さんはまず「完璧な表現」にまつわるプロの作家の言葉からすべてをはじめる。そこから私淑したというカルト的作家のデレク・ハートフィールドが出てきたり、あるいは(思いつくままに挙げれば)「文明とは伝達である」というテーゼや相手の話を黒子さながら存在感を消して聞き取る役に徹した時期のエピソードが開陳されたりするのだろう。
そのようにしてこちらが言葉を聞き取る・書き記す姿勢は、しかしかならずしもうまく行くわけではなく不意の消失や暴力的な断絶、あるいは暴力の発露そのものによって打ち切られる。かくして、「こちら側(『僕』がいる側)」の無力感とそこから逆照射される「あちら側」のどす黒い邪悪さといった世界の対立構造が浮き上がってくる。そうした「こちら」「あちら」の対立はそのまま『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などへと発展していくのかな、とも。
なるほど、こうして整理すると(仮にこの見立てが正しいならば)春樹的なその二項対立は「単純すぎる」見方かもしれない。だが、その対立にいろどりを与えるのが春樹の執拗なまでの論理性と、その論理性を裏切る世界のなまめかしさであるとしたら……そんなことを考えさせてくれるデビュー作たちであると思う。
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