グレゴリー・ケズナジャット『言葉のトランジット』
某月某日
グレゴリー・ケズナジャット『言葉のトランジット』を読む。作家との出会いというのは思わぬところに転がっているもので、フェイスブックやリアルで繋がらせてもらっている友だちがある日この作家の『開墾地』という小説を紹介してくれて、それで読んでみてそこからデビュー作の『鴨川ランナー』を読み、それでファンになったのだった。この『言葉のトランジット』はそんな彼が著したはじめてのエッセイ集である。
著者はアメリカ人だが、翻訳を介さず自ら日本語で執筆している。ぼくのような日本語ネイティブからすればこれはじつにすごいことだ。すこしばかり脱線させてもらうと、ぼくは今年50になるのだけど10年前から英語をやり直し始めた。英語のロジカルな側面に触れると、あくまでぼくの「感想」になるが日本語は時に主語を持たなかったり時制があいまいだったりして実に複雑。そんな日本語を英語ネイティブの人物が自家薬籠中のものとするにはそうとう修練を要することが窺い知られる。
著者は谷崎潤一郎を研究してきたというが、谷崎ほどのクセのある日本語ではなく実に端正な日本語を駆使してさまざまなことがらについて書き記す。ぼくなんかはついつい彼のような作家に関して「外国語で創作することの醍醐味と苦しみ」「外国人の目から見た日本文化論」といったエッセイを期待してしまうが(そうしたエッセイもおさめられてはいる)、でもそんな「期待」は果たして妥当なものなのか、とこのぼく自身をたしなめたくなる衝動も感じてしまう。
というのは、ほかでもないグレゴリー・ケズナジャットの小説作品自体においてそうして「日本人から『ガイジン』あつかいされることの苦しみ・不条理」がすでに書き記されていたことを思い出してしまうからだ。日本語を流暢に話せるようになっても、日本文化について(表面的な文物のみならず、その深奥にある精神性についても)深く会得・理解できても、ぼくのような日本人はどこかで(出自や見た目、あるいは仕草や言葉の微細なちがいをタテに)彼を「ガイジン」と見なす。これほど窮屈なことがあろうか。
では、はたしてぼくはどう彼を遇するべきだろうか。わからないが、でも意外とこんなキュークツでヘンクツなスタンスはぼくのようなロートルだけのものかもしれない。グローバル化が進んだいま、若い世代はもっとこのグレゴリー・ケズナジャットの作品群を日本文学、もしくはそれこそ「世界文学」として読みこなすのかもしれない……。
いや、あくまで想像でしかない。ただ、彼の作品群(とりわけ『鴨川ランナー』のみずみずしさ)に惹かれ続ける人間として、そして同じく外国語学習者として「背筋が伸びる思い」でこのエッセイ集を楽しめたことはぜひ記しておきたい。これからが楽しみな作家だ。
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