花の栄え(仮題)

柊木ふゆき

第1話

 その家の土間に足を踏み入れた瞬間、薄ぼやけた記憶が突然鮮明な現実になる感覚に、さかえは眩暈を覚えた。あるいはそれは、明るい外界から薄暗闇に沈む陰気な空間へ入ったための感覚だったのだろうか。土間はひんやりと冷たく、コンクリートの無愛想な床にはうっすらと砂が被り、ざらついていた。

 がまちへ上がるための石段の上に黒いパンプスと革靴が並んでいる。あぶれた靴はその周りを囲い込むように揃えられている。玄関を照らす蛍光灯は、広さに見合わぬ小さなもので、照らし出されぬ隅が黒ずんで汚れたように見える。

 弟のたまきが背後で引き戸を閉めると、ガタガタと揺れた木製の戸が嵌められた曇りガラスともども揺れて大きな音がした。鍵を閉めようとして、古い型のため閉め方がわからない環に、榮は首を振った。

 障子の向こうが居間で、そこを通らないとどの部屋にも行けない。今日はその障子も、居間に続く仏間の襖も開け放たれている。居間では大人たちが、立ったまま話し込んでいる。榮たちを迎え入れたおばが、父と母を仏間へ誘うように示してみせた。父の後ろについて敷居を跨ぐ前に母親は振り返って、土間でモタモタとする子供たちを手招いた。

 二人が連れあって中に入ると、大人たちは白いシーツのかかった簡易的な寝台の上で眠る祖父の頭を取り囲むように立っていた。まるで今から手術でもするみたいだ。母の八重子やえこは、白い顔をした己が父の額に暗い眼差しを落とし、父の永治えいじは壁にかかった祖母の遺影を見つめている。おばが榮と環に目を止めて弱々しく微笑んだ。


 おばの千恵子ちえこからの電話を取ったのは榮だった。

 「やえちゃん?」

 母の名を呼ぶ、聞き馴染みのない声に、榮は覚えがあった。しかしそれは、記憶の本当に底のあたりにあって、たとえ手を伸ばしても、掠めることはあっても、届かない程度のものだった。

 「母は外出中です」

 榮は電話のコードをひっぱりながら答えた。明かりの灯らない細長い廊下を薄ぼんやりと浮かび上がらせる光源は、玄関に嵌め込まれた二枚の長方形のガラス窓だけで、その向こうでは風に煽られたオリーブの木が、門の方にまで身を屈めて揺れるのが見えた。

 わずかなノイズのような音のみで、沈黙が続く。切れてしまったのかと思った榮が受話器を耳から話した途端、再び先ほどの声が訊ねた。

 「さっちゃん?」

 榮は生ぬるい受話口をもう一度耳に押し当てる。

 「はい」

 相槌のつもりだったが、相手は肯定と受け取ったらしい。続く声は先ほどよりも鷹揚で、わざとらしい明るさがあった。

 「さっちゃんかいな。おっきくなったなあ。いまいくつ?」

 「二十二です」

 榮は返事をしながら、頭の中で知人の顔を思い浮かべる。誰もピンとこない。榮の両親は付き合いの多い方ではないし、家族ぐるみの付き合いというのは一切なかった。

 「おばちゃんのこと、わかる? ちーちゃんおばちゃん」

 幼い子どもに訊ねるように、おばを名乗る声が言った。

 ずいぶん昔、小学生になるかならないかの頃だ。榮は、祖父母の住む山間の町に住んでいた。その頃は従兄弟も近くにいて、たしかちーちゃん、と呼ぶおばがいた。

 「おばさん?」

 「そうよ。さっちゃん、大きなったねえ」

 「どうされたんですか?」

 他人行儀な返事に、おばはトーンを低くして答えた。

 「おじいちゃん、亡くなったねん」

 「おじいちゃん?」

 「そう。お母さんに言っといてくれる? また電話してって。番号変わってへんから」

 おじいちゃん……。たしかに、榮の母方の祖父は存命だったはずだ。他の祖父母は皆幼い頃に亡くなってしまった。榮の記憶にあるのは、今亡くなったと聞いた祖父だけだった。

 あのころは、三人だけの孫だった。

 祖父は度の強い眼鏡をかけていて、あまり笑わない人だった。一番幼かった榮のことは、よく可愛がってくれた。よく散歩に連れて行ってくれたものだ。長い間埃をかぶっていた記憶に息を吹きかける。両親やおばは仕事で、他の孫たちは学校。二人だけの時間が長かった。声も匂いも、顔立ちすら朧げだが、祖父との思い出はわずかに残っていた。

 「わかりました」

 榮は今度こそ受話器を置いた。

 悲しくはなかった。悲しみを感じるほどのものはもう残っていなかった。十五年も前のことなのだ。母の故郷を出てから、祖父はおろか、母方の親戚と会うことも、話題に上ることもない。とても曖昧な衝撃の余韻が榮の鼓動を速める。物心ついてから、身内が亡くなるのはこれで二度目だ。一度目はどうだった?

 とても恐ろしいことが起こっているという予感。頭の上で交わされる大人たちの低い声。自分の方が幽霊になってしまったみたいな心細さ。死は幕を隔てた先で起こる。だから恐ろしい。

 再び玄関の扉に目を遣る。母親はまだ帰ってこない。


 母が帰宅し、おばと連絡を取ってからは早かった。それぞれに勤務先や学校に忌引きの連絡を入れ、喪服と数日分の荷物を詰めた鞄をトランクに積み込んだ。死は突風ではない。しかし死は突風を巻き起こす。それは台風の目だ。榮は祖父や叔母たちのことを考える暇もなく、母に急かされるままに荷造りをした。

 やっと一息つけたのは、車が走り出して、高速に乗ったころだった。榮たちは、ドライブスルーで買ったファストフードを黙々と食べ、ロゴのついた薄いビニール袋にバーガーの包みやポテトフライの入れ物を詰め込んだ。左手に山を、右手に町並みを臨む高速道路を走る車は少ない。山手側に座り、窓を開けて外を見ていた環が、ふと両親の方へ顔を向けて訊ねた。

「じいちゃんって、何歳やったん?」

 答えたのは父だった。

「多分、八十六ちゃうかな」

 環は祖父の写真も見たことがない。祖父という存在を意識したことすらなかったかもしれない。それが思いがけず訪れたその死に、実感がわかないのだろう。車内でただひとり、彼だけが普段の軽やかさを保っていた。

 この十五年間、祖父のことを考えることがなかったのは、榮も同じだった。七歳の頃に会ったきりなのだから、致し方のないことだ。榮が覚えているのは、ちょうど母の故郷を出る少し前に、姉の賜生が死んだということと、断片的で不確かな記憶たちだけだった。姉の死も、他の記憶と同様に、雨粒で濁ったガラス越しの景色のように不明瞭だ。

 榮は姉が大好きだった。そのことだけははっきりと覚えている。祖父のことも好きだった。手を引かれて、近所の神社を歩いた時の祖父の掌の感覚が唐突に、榮の大人になった掌に蘇ってきた。榮はあのころからずっと大きくなった手を見つめる。祖父は左手に榮の手を、右手に煙草を挟んで歩いていた。なぜだろう、祖父の皮膚と触れ合う部分が、吸い取られるような変な感じがして、居心地が悪かった。それで、榮は祖父の手を振り切って走り出した。背中から咎める祖父の声が降って来て、しわだらけの右手が栄の手首を掴んだ。彼は煙草を指に挟んだままで、火が一瞬、榮の肌を掠めた。祖父はそれに気付かず、榮も何も言わなかった。

 あれから随分経った。祖父は死んでしまった。祖父のことを知らないのは、環とあまり変わらない。そして彼がどんな人だったのかは、もう知る由もない。

 やはり悲しみはなかった。

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