第8話
明け方、角笛が短く二度鳴る。広場の霜はまだ薄く残り、旗は静かに揺れる。列は王紋の板の前で整い、名と札が順に確かめられた。
「後列、左の側板につけ。歩度は四。間隔は手のひら一つ」
号令が落ち、荷車がきしむ。綱の結びは昨夜のまま固い。ライアンは木刀の布を胸の内側で押さえ、深く息を入れた。ひもの余りは内側へ折り、端は風を受けない向きで寝かせる。
門を出ると風が向きを変え、谷の匂いが冷たくなる。道は緩く上り、石の継ぎ目が車輪をときどき弾いた。肩は自然に荷へ沿い、足は刻みに合う。背の紐は一度だけ締め直し、踵で地を置く。
最初の曲がりで側板が鳴る。結び目が一つ緩み、帆布の端が風で跳ねた。合図の手が上がり、列の速さがわずかに落ちる。
ライアンは外側から回り、余った綱を一巻きだけ足して締め直す。力は腕だけに置かない。胸で受け、体で押す。帆布の端は静かに伏せた。ひもの噛ませは掌幅で足し、結び目は内へ落とす。
「よし。戻れ」
監督兵が短く言う。列は再び伸びる。日の出が背中を温め、影はゆっくり短くなる。息は五で吸い、五で吐く。列の中の波は小さい。
峠道の入口で一度止まる。前方の尾根を見張りが探針でなぞり、崩れの跡を指で示した。通過は列間隔を広げ、片側通行に変えると告げられる。
斜面の狭い棚に足を置く。車輪は石に沿い、側板のくさびが低く鳴る。下は霧で深い。目を落とさず、前の背の揺れだけを見る。肩は上げない。
岩陰から小石がいくつか転がる。音は乾いて短い。誰も騒がない。合図の手が一度だけ左右に開き、列が呼吸をそろえる。板の釘は浮いていないか、指の腹で確かめる。
棚が終わると道は広がる。風が少し温み、土が匂いを戻した。荷の結びを一巡で確かめ、釘の浮きを押しておく。樽のたがは緩まない。木槌の音は一度だけで止まった。
正午前、浅い川で休憩が出る。水は茶色く濁り、岸の藻が揺れる。靴を脱ぐ者と、ひもを締め直す者。木椀が回り、薄い粥が喉を温めた。湯気が顔に当たり、目に軽くしみる。
「午後は峠の肩まで。そこに野営地がある」
まとめ役の兵が地形を指で示す。雲は薄く、光は白い。風は尾根を越えて細く吹き、帆布の角が一度だけ返った。
再出発。坂はきつくなるが、刻みは崩れない。背の内側では木刀が静かに重さを持ち、焦げた柄が胸で位置を主張する。呼吸は一定、足は乱れない。
列の前で老馬がつまずき、荷がわずかに傾く。係の手が上がる前に数人が肩を差し入れ、胸で押す。荷は戻り、老馬が一度だけ鼻を鳴らした。綱の角度を変え、余りをひと巻き足す。
「よく見ていた」
隣の車方が低く言い、歩幅を合わせる。ライアンはうなずき、呼吸を一つ置いた。足の裏の膜が新しく張り、膝の向きがそろう。
峠の肩が近づく。石は乾き、音は軽い。空は薄く深い青で、遠くの稜線が幾重にも重なる。焚き火の跡の黒が点々と残る。
野営地に入ると、灰の線で区切られた範囲に荷車が収まる。帆布を張り、綱を地に落とし、くさびを足で押し込む。樽の栓を軽く引き、締まりを確かめた。火床は古い灰を崩し、炭を起こしてから細い枝でつなぐ。
「後列二名、見張りに出ろ。交替三つ」
割り当てが告げられ、腕ひもが光を受ける。ライアンは一更を受け、槍持ちと交替の時刻を合わせた。水袋は半分、火口は袋の奥。木刀は布のまま背の内側で止める。
日が落ちる。火の輪がいくつも灯り、鍋が静かに鳴る。風は冷えを戻し、息は白くなる。粥は薄いが、胃は落ち着いた。靴は火に近づけず、ひもだけ温める。
夜、見張りの持ち場に立つ。地面は固く、石が靴を通して冷える。目は遠くを見ようとしない。耳で風と火の間を掃き、変化だけを拾う。背の服は露を吸い、肩は重い。
遠くで角笛が一度だけ鳴った。音は低く、尾根に吸われて薄くなる。合図の手が上がったわけではない。だが、輪郭がわずかに緊張を帯びる。交替の歩みは静かで、土の音が一度だけ近づき、また遠ざかった。
背で木刀の重さを確かめ、掌を開く。指の節は乾き、痛みはない。谷の闇が深くなり、星が増える。夜は静かに長くなる。明け方の風はまだ遠い。
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