神無き世界で

シスイ

序章

第1話 幸福

「ロノ、いつまで寝ているのですか? せっかくのお休みが、お昼寝で終わってしまいますよ」


 階下から聞こえる母さんの声は、春の陽だまりみたいに優しくて、温かい。僕はベッドの上で寝返りをうった。まだまどろみの淵にいたい。このままずっと、この温もりに包まれていたい。


「こら、ロノ。聞こえているのでしょう?」


 今度はもう少しだけ芯のある声。ああ、本当に起きないと、本気で怒られてしまうかもしれない。僕はのろのろと身を起こして、大きく伸びをした。窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。僕の部屋の窓から見える庭は、父さんが手塩にかけて育てている花々で、いつも彩られている。


「……おはよう、母さん」


 寝間着のまま部屋を出て階段を降りると、エプロン姿の母さんが少し腰に手を当てて僕を見ていた。でも、その口元は優しく微笑んでいる。


「おはよう、ロノ。さあ、顔を洗っていらっしゃい。お父様も食堂でお待ちかねですよ」


「父さんも?今日は騎士団の視察は休みだったかな」


「ええ。あなたと話がしたい、ですって」


 父さんが僕に話? なんだろう。また剣の稽古をサボっているのがバレたかな。

 少しだけ憂鬱な気分で食堂の扉を開けると、父さんはもう席について、硬い表紙の本を読んでいた。僕が入ってきたことに気づくと、本を閉じて、厳しい視線を向けてくる。背筋がぴんと伸びるのを感じた。


「遅いぞ、ロノ」


「ご、ごめんなさい、父さん」


「まあ、あなた。お休みの日くらい、少し大目に見てあげてくださいな」


 母さんが僕の分の朝食をテーブルに並べながら、助け舟を出してくれる。父さんは「ふん」と鼻を鳴らした。


「甘やかすから、いつまでも子供気分が抜けんのだ。……まあいい。ロノ、お前に話がある」


「はい」


 居住まいを正した僕を見て、父さんは少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩ませた。


「昨日の夕方、グランツから手紙が届いた」


「グランツさんから?」


「ああ。来年の春、お前が王立学園に入学するのを、心から楽しみにしている、とな」

 父さんの言葉に、僕の胸は高鳴った。王立学園。父さんとグランツ学園長が卒業した、王国で一番の学び舎。そこへ僕も通う。それは、ずっと昔から決まっていた、僕の未来。


「もう、お前もそんな歳か」


「はい! 僕、頑張ります! 父さんや、グランツさんみたいになれるように!」


「口だけは達者だな」


 父さんはそう言って、また厳しい顔に戻る。でも、僕は知っている。父さんの瞳の奥が、ほんの少しだけ揺らいだのを。それが、僕への期待と愛情だってことを。


「あらあら、二人とも。せっかくの食事が冷めてしまいますよ」


 母さんの柔らかな声が、部屋の空気を和ませる。

 焼きたてのパンの香り。温かいスープの湯気。窓から差し込む、優しい朝の光。

 厳しくも愛情深い父さんと、いつも優しい母さん。

 僕の世界は、こんなにも温かい光で満ちていた。

 食事が終わり、父さんが「さあ、稽古の時間だ」と立ち上がった。僕は思わず「ええ!?」と声を上げる。


「今日は休みって……」


「馬鹿者。身体を動かさない日は一日もない。貴族の務めだ」


 父さんの剣は、いつも冷たくて、重い。僕は苦手だった。それでも、父さんが教えてくれる剣術は、僕にとって誇りだった。

 広い庭に出て、木剣を構える。父さんは、僕の目の前に立ちはだかる岩壁のように、微動だにしなかった。


「構えが甘い。腰が浮いているぞ、ロノ」


 父さんの厳しい声が飛んでくる。僕は言われた通りに姿勢を直すが、どうしても身体がうまく動かない。

 一本、二本と打ち込んでいくが、父さんの木剣はまるでそこに存在しないかのように、僕の攻撃をいなし、正確に僕の脇腹を叩く。


「くっ!」


「まだまだだな。剣は、己の大切なものを守る術だ。遊びではない」


 何度倒れても、僕は立ち上がった。父さんのようにはなれないかもしれない。それでも、いつか父さんの剣に一撃だけでも、と願いながら。

 僕の全身が汗と泥で汚れる頃、母さんが「二人とも、そろそろ休憩にしませんか?」と、冷たいレモネードを持ってきてくれた。


「母さん!」


「全く、あなたも少しは手加減をなさい。ロノがかわいそうでしょう?」


「これも鍛錬だ。強くなければ、大切なものを守れん」


 父さんはレモネードを一息で飲み干すと、僕の頭をガシガシと撫でた。

 その手のひらは、少しだけ不器用で、でも温かかった。

 レモネードの甘酸っぱさが、僕の喉と心に染み渡る。


「母さん、ありがとう。……父さんも」


「ふん」


 そっぽを向く父さんの耳が、少しだけ赤いのが見えた。


 昼下がり、母さんに「パンが切れそうだから、街までお使いに行ってきてくださる?」と頼まれた。僕らの領地にある街は、大きくはないけど、いつも活気がある。


「ロノアール様、こんにちは!」


「ああ、こんにちは。元気そうだね」


 街の人たちは、みんな僕に気さくに話しかけてくれる。父さんが、この土地と人々を、とても大切にしているのを知っているからだ。僕も、この街が好きだった。

 パン屋のおばちゃんは、おまけだと言って焼きたてのクッキーを一つくれた。温かいクッキーを頬張りながら、僕は広場のベンチに座って、空を見上げる。

 来年の今頃は、僕はもうこの街にはいない。王都の、あの大きな学園で、新しい生活を始めているんだ。


 夜、自室の机で羊皮紙の地図を広げる。僕の住むこの街から、王都までの道のりを指でなぞった。遠いけど、でも確かに繋がっている未来。

 どんな人たちがいるんだろう。父さんの話では、エリート貴族ばかりだという。僕と同じ歳の有力貴族の嫡男や、美しいと評判のご令嬢もいるらしい。

 うまくやっていけるかな。少しだけ不安が胸をよぎるけど、すぐに期待がそれを上回る。

 窓の外を見れば、満月が静かに僕らの領地を照らしていた。

 この幸せな毎日が、これからもずっと、当たり前のように続いていくことを、僕は信じて疑わなかった。

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