第3話 軽口の影

 その日もまた、深夜のコンビニにあの女が現れた。


 ライダースにジーンズ姿。棚からカップ麺とスナック菓子を二、三点取り、何事もなかったかのようにイートインへ腰を下ろす。


 いつもの光景だ。もう見慣れてしまったはずなのに、気づけば視線が吸い寄せられている。


 ずるずる、ぼりぼり。麺をすする音と、スナックをかみ砕く豪快な咀嚼音が、深夜の店内にやけに響き渡る。


 その音を聞いていると、つい口が動いた。


「……飽きないんですか、それ」


 ふとした疑問を口にしてしまった。


 リリスはスープを飲み干しながら、口の端で笑う。


「へえ。そっちから絡んでくるなんて、珍しいじゃん。なんかあったか?」

「別に。ちょっと気になっただけです」

「そりゃ飽きねえよ。腹が減ってんだから食う、それだけだ。人間だって毎日飯食ってんだろ?」

「……まあ、そうですけど」


 話を切ろうとしたが、リリスは楽しそうにこちらを見ていた。まるで暇つぶしの相手を見つけた猫のように。


 ならば、たまには反撃してみようかと思い、少し間を置いてから逆にこちらから問いを投げた。


「……ところで、あなたってどこに住んでるんですか」

「お、いきなり踏み込んできたな」


 リリスはにやりと笑い、箸を止める。


「何、くどいてんの?」

「いや、違います!」


 即座に否定する。声が少し大きくなり、あわてて音量を落とす。

 リリスはわざとらしくため息をついて、両手を広げた。


「だが、それが惟人の聞きたいことだったんだろ?」

「……今のところは」

「そっか。物好きだな。普通、人に住処を聞いたら嫌がられるぞ?」

「別に深い意味はないです。ただ、毎晩のように来てるから、ちょっと気になっただけで」


 リリスはその言葉に目を細め、しばし惟人を観察するように見つめる。

 やがて、ふっと口角を上げて肩をすくめた。


「まあ、今日は気分がいいからな。聞くだけ聞いてやるって話だ」

「……ってことは答える気はないんですね」

「正解。物分かりの良い奴は嫌いじゃねえぞ」


 リリスは空になったカップ麺の容器を指先でくるくる回し、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「惟人って、思ったより突っ込んでくるタイプなんだな」

「……別に突っ込んで聞いたつもりはないですけど」


「いやいや、最初に会ったときも注意してきただろ? イートインで音立てんなとか、片付けろとか」

「……それは店員として当然のことです」

「で、今日は住んでる場所を聞いてくる。なーんか干渉したがりじゃねえか」

「そういう風に言われると……心外ですね」


 惟人が少しむっとして言い返すと、リリスは肩を揺らして笑った。


「悪ぃ悪ぃ。そういう真面目なとこが面白えんだよ」

「……からかってますよね」

「ちょっとな」


 彼女はポテチをひとつつまみ、ぱくりと食べながら続けた。


「でも、気になるのはいいことだぜ。興味を持たれるってのは悪くねえ」

「……答える気はないのにですか」

「そこは別腹だ」


 そう言ってリリスは、またカリカリと音を立ててポテチを噛んだ。


「ま、いずれそのうち教えてやるよ。気が向いたらな」

「……期待せずに待ってます」


 惟人は小さくため息をつき、伝票整理に視線を戻す。

 すると、また声が飛んできた。


「なぁ惟人。お前、誰かと一緒に住んでんの?」

「僕ですか? 一人暮らしですけど」

「へえ。じゃあ夜勤終わっても、朝は一人で帰るわけだ」

「……それが普通じゃないですか」

「そりゃそうだな。でも退屈だろ?」

「まあ……慣れました」


 リリスはテーブルに肘をつき、面白そうにこちらを見つめている。


 その眼差しは、からかい半分と興味半分が混じり合った、不思議な光を帯びていた。


 ……が、そのスポットライトはすぐに僕ではなくカップ麺の容器の方へと移り、前にもこちらが注意した通りに机を綺麗に片付けた。


「ごちそうさん」


 リリスは食べ終えた容器をひょいと持ち上げ、立ち上がった。


「もう行くんですか?」


 つい口をついて出た。自分でも引き止めるつもりじゃなかったのに。


「何だ、寂しいのか?」


 振り返ったリリスが、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「そうじゃないですけど……」


 反射的に否定するが、声に妙な間が入ったのを自覚して、惟人は耳まで熱くなるのを感じた。


 リリスは楽しげに目を細め、肩をすくめる。


「安心しろ、明日も来るよ。だから、良い子で待ってな」


 その言葉は軽口のはずなのに、妙に胸の奥に残る。


 惟人は「はい」とも「いいえ」とも答えられず、ただ目を逸らした。そして、次に視線を戻した時には、彼女は影も形も消えていた。


 そのとき。


「おい、惟人。……また来てたのか、あの人」


 カウンターの奥から、低い声が飛んできた。店長だ。


 五十手前、無愛想で口数の少ない男。だが惟人にとっては、このバイト先で唯一の“年長者”として頼れる存在でもある。


「ええ、まあ……」


 曖昧に答えると、店長は顎でリリスの背を指し示す。


「お前、妙な客に深入りすんなよ。ああいうのはトラブルのもとだ」


 リリスの背中にまで届きそうな声音だったが、本人は気にも留めず自動ドアを抜けていく。


 扉のチャイムが鳴り、深夜の空気が一瞬だけ流れ込む。


 惟人は思わず、出ていった方向を目で追っていた。


 その視線を見逃さず、店長がぼそりとつぶやく。


「……お前さ、妙に気にしてるだろ。あの女のこと」


「そんなつもりは――」と言いかけたが、声にならなかった。


 否定しようとすればするほど、胸の奥に居座るものが重たくなる。


 店長はため息をつき、腕を組む。


「まあいい。だがな、あの目は普通じゃねえ。……本能が言ってる。深入りするなって」


 惟人は返事をせず、ただ黙ってレジの釣り銭を確認するふりをした。


 耳にはまだ、リリスの言葉が残っている。


――安心しろ、明日も来るよ。


 軽口のはずなのに、その響きは彼女の影を映したような存在感を脳裏に刻み付けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る