第4話 77億の砂時計

 九月十五日、朝の時点で気温は三十三度を超えていた。古い扇風機が首を振っても、事務所の中は熱帯夜の名残りをそのまま残した蒸し風呂だ。私は県庁から送られてきたパンフレットを広げ、老眼鏡の奥で目を細めた。


 「──宿泊税収77億8,000万円のうち、32%を子育て支援に活用します」


 見出しはでかでかと踊っている。だが、その下の細字を読むと「子育て支援」の中身は「ごみ収集頻度増加」「公園清掃」「トイレ整備」ばかりだ。私の指は、紙に向かって「砂場」という言葉を探した。見つからない。


 「会長、これがPTAからの要望リストです」


 山城が持ち込んだA4一枚には、川村彩さんの字で「待機児童解消」「学童保育室の増設」「遊具安全点検」の三点が並んでいた。どれも「77億」では直接買えない。税金は、子どもを「待機」させたまま、砂場を清掃するだけかもしれない。


 午後一時、プレーリードの砂は熱を孕って白く光っていた。川村彩は、片手に自前のスコップ、もう片手に缶入りの麦茶を提げていた。


「本田会長、ここが噂の『県の資料』ですか?」


 差し出されたコピー用紙には、県のロゴが入り、予算配分が円グラフで示されている。彩はそれを横目に、小学校一年の娘が遊ぶ砂場を見据えた。


「観光客の税金で、うちの子の砂場が整備されるって本当ですか?」


 娘の名前は「ほのか」。先月まで待機児童だった。四月の入所が決まった途端、台風で遊具が錆び、今では「使用中」札がかかっている。彩はスコップで砂をすくった。潮風に晒された砂は、塩と埃で固まり、子どもには重すぎる。


「清掃員が増えれば、ゴミは減る。でも、保育士は増えない」


 私は黙った。昨夜、息子・健二から電話があった。孫の入園審査で「ポイント不足」の連絡が来たらしい。理由は「地域貢献度」——自治会長の孫だから、という肩書では足りない。宿泊税の話をすれば、もっと複雑になる。


「川村さん、使途は議会で決まる。砂場は確かに綺麗になる」


「綺麗な砂場に、地元の子は入れないの?」


 彩の言葉は、風に乗って校舎の方へ吸い込まれていった。プレーリードの隅に、割れた砂時計が置いてある。三日前の台風で落ちたものだ。ガラスの割れ目から砂が少しずつ漏れる。時間の経過を見せつけるように、ゆっくり、確実に。


 午後三時半、商店街のベビーカー対応カフェ「ひびき」。山口恵子は、入口の段差を越えてきたベビーカーの車輪を見下ろした。ゴムは傷み、金属が剥き出しだ。


「本田さん、客足が明らかに減ってる。免税ラインの1万元超えのホテルに泊まる客は、ベビーカーなんて持ってこない」


 店内を見回すと、壁には「おむつ交換台あり」「ミルク用お湯自由どうぞ」のステッカー。全て、昨年、商店会で補助を出して作ったものだ。宿泊税導入後、観光客の減少は顕著で、予約サイトの口コミに「子連れ歓迎の店が少ない」というクレームまで付くようになった。


「観光課は“子育て支援”って言うけど、子連れが来なきゃ支援の意味ないじゃないですか」


 恵子は、レジカウンターに置かれた県のリーフレットを指で弾いた。私は、胸の内ポケットに折りたたんだ「使途明確化を求める署名用紙」をそっと押さえた。まだ提出は早い。提出すれば、市役所は「自治会の意向」を「一部の声」として処理する。数字で勝負する前に、現場の声を固めなければ。


「河口さん、もう少し待ってくれ。数字を整理して、再度、交渉する」


「数字じゃないんです。私の店に来るママの顔を見てください。疲れきってる。宿泊税で高くなったホテルに泊まらず、日帰りバスツアーになった。バスはここには停まらない」


 カウンターのガラス越しに、道路を見る。観光バスが一台、減速せずに通過していく。窓から子どもの顔が二つ、こちらを見ている。手に持っているのは、県の観光PRの風車。風車は回らない。バスの中は冷房が効きすぎているのだろう。


 夜七時、自宅。節子は、冷やし味噌汁をテーブルに置いた。汗ばむ夜には、熱い汁より冷たい方が胃に沁みる。


「今日も議論になりましたか?」


「ならなかった。数字を出しても、目の前の子どもは泣いてる」


 私は、押入れから古いファイルを引っ張り出した。20年前、保育園増設運動の時の住民説明会メモだ。表紙には「子どもは待てない」と私の字で書いてある。


「若い頃のあなたなら、保育園の屋根修繕に駆け回ったわね」


「今回は屋根じゃない。システムを直す」


 私は、新しいA3用紙を広げた。中央に「77億8,000万円の流れ」を丸で囲む。左側に「県の言う子育て支援」、右側に「現場の親が求める支援」。矢印を交差させて、真ん中に大きな「?」を記す。さらに、もう一枚。そこに描いたのは「ベビーカー置き場の傷んだ車輪」「割れた砂時計」「待機児童リスト」——三つの写真を貼り、キャプションを付けた。


「宿泊税と子育ての接点」——それは「観光客が減れば、子連れ店舗が減り、子育て環境が後退する」という悪循環だ。だが、逆回しすれば「観光客を子連れに優しい街にすることで、税収を増やし、本当の子育て支援をできる」という好循環にもできる。


「節子、明日からこのチラシを作る。タイトルは……」


「“77億の砂時計を、子どもに還す方法”」


 私は、ペンを置いた。冷やし味噌汁を一口飲む。冷えているはずなのに、喉の奥が熱くなる。孫の顔、彩の娘の顔、恵子の店に来るママの顔——三つの顔が重なって、新しい数字を生む。


 時計を見る。午後九時。まだ、終わらない。砂時計の砂が全部落ちる前に、私はスイッチを押す。2%の税が、子どもの笑顔を買えるかどうか——それを証明するまで、数字を止めない。

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