第4話
「フィニス。あなたは怖い想いをしたことがあるか?」
ファルシの唐突な質問に、フィニスは一瞬面食らったような顔をしながらも、すぐにいつもの調子で「ある」と答えた。
「それはどういう時だった?」
フィニスはううんと唸る。壁に飾られている湖の風景画を見つめながら、薄い唇を開いた。
「生まれた時から共にいた存在が、僕の目の前で喰われた時だね」
それは怖かったな、とファルシは返した。果たしてそれが怖いことなのかは、実のところよく分からない。
「君に大切なものはあるかい? ファルシ」
「何もないよ。そもそも私は何も持ってすらいないのだから」
「ふふ、僕がいるじゃないか」
ファルシは眉を跳ね上げ、唇を開き、そして下を向いた。いつもなら「だから何だ」と言い返すところだが、フィオナという少女と会ってから、返事をすることが難しく思うようになったのだ。
どんな表情で、どんな声で、どのような言葉を返せばいいのか。ほんの少しだけ考えてから、表に出すようになってしまった。
きっと、今日も変な顔をしてしまっているだろうと思う。けれど、フィニスが嬉しそうにしているものだから、まあいいかと流してしまうのだ。
「人の子は、二人の人が契ることで生まれてくる。ひとつを父、もうひとつを母と呼び、父と母が契ることで子は生まれるんだ」
「私にも父と母がいたということか?」
「いいや、残念だけど君は人の胎から生まれてはいない。僕も君も人であって人ではないんだ」
「あの子は人の子なのに?」
「聖女は外の世界で生まれるから」
ならばファルシは──聖王はどうやって生まれたのだろうか。またひとつファルシに知識を授けようとしているフィニスも、どこで生まれ育ったのだろう。
「聖王と聖女は、運命の螺旋を巡っていると云われている。君という個には魂があり、魂が器の中に入ることで、ファルシという個は生命活動をしている。つまり、人の姿をしている器を借りているだけに過ぎないんだ」
運命の螺旋とは、どこだろうか。自分と同じく聖女も巡っているというのに、なぜ聖女は外の世界で生まれてくるのだろう。
ファルシは自分の手足に目を落とした。
「……私のこの身体は私のものではないということか?」
「いいや、君のものだ」
「フィニスの話は難しくてよく分からない」
「君がまだ幼いだけさ」
フィニスはくすくすと笑って、ファルシの頭を撫でる。その手は温かく、その手つきは優しく、神官たちに髪の手入れをされる時よりも、ずっと心地よく感じた。
「フィニスはどこから来たんだ?」
「おや、僕に興味が出たのかい?」
「私と会う前は、どこで何をしていたのだろうと思った」
フィニスはファルシから手を離すと、黄金の翼をふわふわと動かしながら、ファルシの隣に座った。
「……昔、ずっと昔にね、とても辛いことがあったんだ。そこから逃げ出して、途方もなく永い時をひとりで彷徨っていたら、君を見つけた」
それはどれくらい前なのかと尋ねる勇気は、ひとかけらも湧かなかった。その時のフィニスの横顔が、触れたら消えてしまいそうなくらい儚く見えたから。
「だから、僕は君の翼になった。君が望むのなら、いつだってここから連れ出してあげるよ」
春の日差しのように柔らかな声が、ファルシの耳を打つ。
ファルシはフィニスの目を見つめ返しながら、ゆっくりと首を左右に振った。
「……それはだめだ。泣いていたあの子を置いてはいけないし、聖王である私がここから離れるわけにはいかない。──私は“使命”を果たさなければいけないんだ。イージスの民のためにも」
使命という単語に、フィニスの瞳が揺れ動く。
外の世界だけでなく、神殿の中のことにもやたらと詳しいフィニスだが、その理由だけはいまだに明かしていない。
フィニスは先ほどとは打って変わった声で「そうか」と吐くと、星のない夜空を見上げていた。
聖王と聖女には果たさなければ使命が、逃れられない宿命がある。それを果たさなければ、大いなる闇がイージスを滅ぼすという言い伝えがあるのだ。
先人たちがこの国を守ってきたように、聖王であるファルシも守らなけれならない。自分だけに心を開いてくれるようになった、フィオナとともに。
それが一体何を意味するのか、何一つ知らないまま、またひとつ歳を重ねようとしていた、ある春の日。
「──ねぇ、ファルシ。君たちが“大いなる闇”と語る厄災の正体を、知りたくはないかい?」
フィニスはいつもの調子で、そんな提案をしてきた。
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