第2話
「──まるで私は、聖王という別の生き物のようだ」
ファルシは就寝時だけ部屋にひとりきりになる。毎晩部屋の外で誰かが交代で立っているのは分かっていたが、壁一枚挟めば独り言など聞こえやしない。
白い箱庭で、ただ静かに存在するように生きるのは楽なことのように思えるが、ひとつふたつと歳を重ねていくたびに息がしづらくなっていった。
だが、ひとりきりの夜に呟いてみると、ほんの少しだけ胸が軽くなったように感じたのだ。それ以来、ファルシは眠りにつく前に、ひとつだけ吐くようにしている。
だから今日も、一番に浮かんだ言葉を口にしたのだが。
「──ならば終わらせればいいじゃないか」
初めて聞く声が、ファルシの独り言に返事をした。
「……誰だ?」
ファルシは弾かれたように顔を上げ、ベッドから抜け出した。
声が聞こえたのはテラスがある方角だ。だがファルシの部屋は、外からよじ登って来れる高さではない。
月明かりを頼りにテラスへと繋がる大きな窓辺へ近づくと、ガラス扉の向こう──テラスの柵に、誰かが座っていた。
「こちらへおいで。僕と話をしよう」
月の光に照らされて、人影の顔がくっきりと浮かび上がる。それは浮世離れした美しさを持つ、人の姿をしている何かだった。
とてもうつくしい人だ。艶やかな銀色の髪に、宝石のような青い瞳、そして背には黄金の翼がある。
「……あなたは?」
「僕は君たちが
「霊獣……」
ファルシは口元に手を当てながら、記憶を巡らせる。
知識の一つとして神官に教えられたのは、霊獣というのは、人と交わらない静かな地や美しい場所を好む、孤高の生き物であることだけだ。
「……霊獣であるあなたが、何故ここに?」
「君を選びに来たからさ」
「私を?」
「そうとも。僕ら霊獣は運命の螺旋を彷徨う者と縁を結ぶのが使命でね」
「えにし?」
ファルシは小首を傾げる。霊獣が何たるかは知っているが、彼が何を言っているのかがまるで分からないからだ。
「ふふ、面白い顔をしているね。ファルシ」
「なぜ私の名を?」
「質問ばかりだね。君の人生は」
黄金の翼の霊獣はころころと笑うと、指先でファルシの頬をそっと撫でた。
「……したくもなるだろう。朝から晩まで彼らに囲まれ見張られている。皆口を揃えて同じことを言い、私は私で毎日が同じことの繰り返しだ」
おかしくなりそうだ、とファルシはため息とともに吐き出し、そして夜空を見上げた。
星のない夜だ。空には月だけが浮かんでいる。
「ねぇファルシ。僕と縁を結ばないかい?」
一緒に遊ばないかい、と誘うような調子で問われ、ファルシは初めて驚いた表情をした。
「どうやって?」
霊獣は美しい青色の瞳を柔らかに細めながら、ファルシに手を差し出してきた。
「簡単さ。君が望めばいいだけだ」
「望む、とは?」
「強く願うことだ。空を飛びたいとか、海を見たいとか。そういう願いを抱いたことはないのかい?」
「私が望んで、何が起きるんだ? あなたに利点はあるのか?」
霊獣は一瞬ぽかんと口を開けていたが、すぐに声を上げて笑い出した。何がおかしいのか、何が面白かったのか、目の縁に薄らと涙を浮かべながら。
「はは、やはり君を選んだ僕の目に狂いはなかったようだ」
ファルシは眉間に皺を寄せた。知りたい答えが返ってこない。
「……あなたは何を望んでいるんだ?」
「それは秘密さ。だけど君とって悪い話ではないよ。僕ら霊獣は君たちの翼となって、どこへだって翔んでゆける」
どこへでも連れていってあげられる、と霊獣は繰り返す。その言葉に、ファルシの瞳は揺れ動いた。
閉じ込められる生活に嫌気は差しているが、それは仕方のないことで。逃げ出せるのなら逃げ出してしまいたいが、それは聖王である役目を放り出すことになる。そうしたら、この国から聖王というものがいなくなってしまうのだ。
だから、どこかへゆくわけにはいかない。
だけど、いつか。いつの日か、聖王でなくなる日が来たとしたら、その時は──。
「ファルシ、僕の手を取って。そうしたら、君はひとりぼっちじゃなくなるよ」
ファルシの左手に、淡い熱が灯る。辿るように視線を動かすと、霊獣の美しい青色の瞳に、不思議な顔をしている自分の姿が映っていた。
ファルシはゆっくりと唇を開け、すぐに閉じ、また開けて──消え入りそうな声で呟いた。
あなたの名前は? と。
◇
孤独なファルシに手を差し伸べたのは、人の姿形をしている霊獣・フィニスだった。ファルシを揶揄っては屈託なく笑うフィニスは、月日を重ねるにつれて友人のような存在になっていった。
ファルシは枯れてゆく花のように静かに生きていたが、フィニスが傍に在るようになってからは、よく笑うようになった。
フィニスはファルシに、たくさんのことを教えた。外の世界で人々はどのような暮らしをしているのか、どんなもので溢れ、どんな色があるのかを。
決められた通りに生きることを強いられていたファルシにとって、フィニスの話はどこか遠い別の世界のことのように思えたが、ファルシは彼の話を聞く時間が好きだった。
そんなファルシが己の半身と出逢ったのは、十歳の時だ。
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