第2話 価値観

月明かりが祠の隙間から差し込み、埃っぽい空気を淡く照らす中、古井座一見は静かに立ち尽くしていた。


彼女の瞳には、わずかな輝きが宿っていたが、それは好奇心の残滓ではなく、決意の光だった。


目の前に浮遊する三体の霊獣――元禄斎、竿兄、玉弟――は、期待に満ちた視線を彼女に向けている。木彫りの箱から漏れ出る紫がかった光が、彼らの奇妙な姿を幻想的に彩り、祠全体を異界のような雰囲気に包んでいた。


一見は優雅に息を吐き、ドレスの裾を軽く直した。彼女の心の中では、母親の警告、古井座家の血脈、そして今明かされた秘密が渦巻いていた。だが、それ以上に、彼女の胸を占めていたのは、



自身の意志だった。



この家系の義務が、どれほど古く由緒正しいものであれ、それは彼女の人生を縛る鎖ではない。彼女は中学二年生、吹奏楽部の副部長として、仲間たちとの日常を愛し、音楽に没頭する少女だ。妖怪退治などという、荒唐無稽で危険な役目を、強制される謂れはない。



一見「…ですが、お断りいたしますわ。」



一見の言葉が、祠の静寂を切り裂いた。穏やかだが、断固とした響き。彼女の口元には、いつものクールな微笑みが浮かんでいるが、その目は鋭く、三体を射抜いていた。


元禄斎は一瞬、目をパチクリさせた。干からびた梅干しのような頭部が、浮遊しながら傾く。その表情は、驚愕と苛立ちが入り混じったものだ。300年以上もの間、祠に封じられていた彼らにとって、継承者の拒否など、想定外の事態だった。



元禄斎「な、何を申すか、小娘よ! 承知したと言ったではないか! 古井座の血を継ぐ者として、妖怪退治は運命じゃぞ! 平安の世より続く義務じゃ! わしらの力を受け継ぎ、この世の闇を払うのが、おぬしの役割じゃ! 拒否など、許されぬ!」



元禄斎の声は、古風な威厳を保とうとしながらも、焦りが滲み出ていた。彼は箱の上をぴょんぴょんと跳ね、兄弟たちに視線を向ける。竿兄は直立不動の姿勢を崩さず、低い声で続ける。



竿兄「うむ。継承者よ、血脈の重みを侮るな。わしらは大妖怪の名残りじゃ。九尾の狐すら畏れた力じゃぞ。おぬしの母が放棄した役目を、おぬしが果たさねば、古井座家の名は地に落ちる。家系の誇り、伝統を守るのが、子孫の務めじゃ。拒否など、わがまま以外の何物でもない。」



玉弟は、丸い玉のような体を転がすように動き、陽気だが苛立った調子で加勢する。



玉弟「そうだぜ、姉ちゃん! 俺ら三兄弟が揃って、こんなに熱く頼んでるんだぜ? 昔の人はみんな、こういう運命を受け入れて戦ってきたんだよ。拒否なんて、軟弱すぎるぜ! 一緒に悪霊ぶっ飛ばして、英雄になろうぜ! ホラ、ワクワクすっだろ?」



三体の言葉は、まるで古い巻物から飛び出してきたかのように、伝統と義務を強調していた。彼らにとって、世界は300年以上前の価値観で凍りついたままだった。家系、血統、運命――それらは絶対的なもので、個人の意志など、考慮の余地がない。妖怪退治は栄誉であり、拒否は裏切りだ。


一見は静かに聞き終え、優雅に手を胸に当てた。彼女の心臓は穏やかに鼓動を刻んでいる。吹奏楽部の練習で培った集中力と、名家の教育で養った論理的思考が、今ここで発揮される時だ。


彼女は現代の少女。学校で学ぶ人権、自由、未成年者の保護について、よく知っている。母親が拒否した理由も、なんとなく理解できる。こんなわいせつな姿の霊獣たちに付き合わされるなど、冗談ではない。



一見「まあ、元禄斎様、竿兄様、玉弟様。皆様のお言葉、痛み入りますわ。でも、残念ながら、私の答えは変わりませんの。まずは、皆様の価値観が、少々古すぎることをご理解いただきたいですわ。300年以上前の元禄時代から祠に閉じ込められていたのですから、仕方ありませんけれど、今の世は、個人の自由と権利が尊重される時代ですのよ。」



一見の声は穏やかだが、言葉は鋭い。彼女は祠の埃を払うように手を振り、続ける。



一見「まず、血脈や家系の義務についておっしゃいますが、それは強制されるものではありませんわ。現代の日本では、個人の自己決定権が憲法で保障されていますの。家族の伝統であれ、どんなものであれ、本人が望まなければ、従う必要はないのです。古井座家が平安から続く由緒ある家系だとしても、私の人生は私のものですわ。妖怪退治などという危険な役目を、勝手に押しつけられる謂れはありませんの。」



元禄斎は苛立って頭を振り、反論する。



元禄斎「ふざけるな! 義務じゃぞ! おぬしの先祖たちは、喜んでこの役目を果たしてきたのじゃ! 血の繋がりが、すべてじゃ! 個人の自由など、そんな甘い言葉で伝統を捨てるなど、許されぬ! わしらの力なくしては、この町が魑魅魍魎に飲み込まれるぞ! おぬし一人のわがままが、多くの命を危うくするのじゃ!」



一見は優しく微笑み、首を振る。



一見「まあ、元禄斎様。皆様は300年以上前の価値観で物事をお考えですのね。昔は家系や血統がすべてだったかもしれませんが、今は違いますわ。家族の義務は、互いの合意に基づくものですの。強制は、虐待や人権侵害に当たる可能性すらありますわよ。たとえば、学校の先生が教えてくださったように、児童の権利に関する国際条約――子どもの権利条約――では、子どもは自分の意見を述べる権利があり、保護者の同意なしに危険なことに巻き込まれてはいけませんの。私はまだ中学二年生、未成年者ですわ。こんな重大な決定は、親御さんの同意が必要ですのよ。」



竿兄が低く唸るように介入する。



竿兄「親の同意など、くだらぬ! おぬしの母はすでに拒否したではないか! それゆえ、おぬしが引き継ぐのだ。血脈の継承者は、親の失敗を正す義務がある。わしらの力は、神聖じゃぞ。拒否は、神への冒涜じゃ!」



一見は目を細め、冷静に返す。



一見「竿兄様、それは違いますわ。お母様が拒否なさったのは、皆様のお姿を見ての自然な反応ですの。わいせつ物陳列罪に当たるようなお姿で、13歳の少女を驚かせたのですから、当然ですわよ。現代の法律では、そんな露出度の高い――いえ、皆様の場合は本質的にわいせつな――存在と関わること自体、問題視されるかもしれませんの。ましてや、未成年者がそんなものに巻き込まれるのは、児童福祉法違反ですわ。保護者であるお父様やお母様に相談せず、勝手に契約などできませんの。」



玉弟がぴょんと跳ね、陽気に反論する。



玉弟「へへ、姉ちゃん厳しいな! でもよ、英雄になるチャンスだぜ? 昔の話じゃ、子どもだって戦ってたんだよ。九尾の狐の時代だって、槍持った若者が妖怪退治してたぜ! 権利だの法律だの、そんなつまんないこと言って逃げるのかよ? どこかの戦闘民族のように強いヤツにワクワクしないか?」



一見はくすりと笑い、玉弟の丸い体を指差す。



一見「玉弟様、可愛らしいお考えですわ。でも、それは昔の話ですし種族違いですわ。私は“ふるいざ”ですのよ。それに、今の世は、子どもを守るために、労働基準法や教育基本法が存在しますわ。未成年者は、学業に専念し、安全な環境で育つ権利がありますのよ。妖怪退治などという、命の危険を伴う活動は、児童労働に当たる可能性がありますわ。学校の部活動でさえ、無理な練習は禁止されているのに、悪霊と戦うなんて、想像しただけでお父様が激怒なさいますわ。ましてや、皆様のような……ええ、ユニークなお姿の霊獣たちと行動を共にするなど、社会的にも倫理的にも、放送におけるBPО案件にも接触する問題ですの。」



元禄斎は地団駄を踏むように浮遊し、声を荒げる。



元禄斎「ええい、無礼な! わしらは偉大なる守護霊獣じゃぞ! わいせつなど、侮辱じゃ! おぬしの先祖たちは、わしらの力を借りて、数多の妖怪を退治したのじゃ! それが家系の誇りじゃ! 自由だの権利だの、そんな現代の戯言で、伝統を捨てるなど、許せぬ! おぬしは古井座の娘じゃ! 血が叫んでおるはずじゃぞ!」



一見は優雅に手を振り、反論を続ける。彼女の言葉は、吹奏楽の指揮のように、リズムよく流れる。



一見「元禄斎様、血が叫ぶなど、浪漫的ですが、非科学的ですわ。現代の心理学では、そんな強制的な血統主義は、個人の精神的健康を害する可能性がありますの。PTSDやストレスの原因になりますわよ。私は吹奏楽部で、仲間たちと音楽を楽しむのが好きですの。妖怪退治など、興味ありませんわ。皆様のおっしゃる伝統は、確かに尊いですが、それは選択の自由の中で生きるものですの。強制は、独裁ですわ。民主主義の日本では、そんなことは通用しませんのよ。」



竿兄が重厚な声で割り込む。



竿兄「ふむ、ならば聞け。もしおぬしが拒否すれば、この町の平和が失われる。学校の仲間たちが、悪霊に襲われるやもしれぬ。おぬしのわがままが、他人を不幸にするのだ。義務とは、そういうものじゃ。」



一見の表情がわずかに厳しくなるが、すぐに微笑みに戻る。



一見「竿兄様、それは脅迫ですわ。現代の倫理では、他人の安全を盾に個人の自由を奪うのは、許されませんの。もし本当に町に危険があるなら、皆様だけで対処なさってくださいませ。あるいは、警察や専門機関(ゴースト◯゛スターズ)に相談するのが筋ですわ。私は未成年者、保護者の下で暮らす身ですの。お父様に相談すれば、きっと祠を封印し直すでしょうね。皆様の存在自体が、家庭の平穏を乱す要因ですし、事案発生ですのよ。」



玉弟が慌てて言う。



玉弟「待てよ、姉ちゃん! 俺らだって、寂しかったんだぜ。300年以上、祠に閉じ込められてさ。ようやく継承者が来てくれたのに、拒否なんてひどいよ! 友情とか、絆とか、ないのかよ?」



一見は優しく、だが断固として返す。



一見「玉弟様、友情は互いの合意ですわ。強制された絆など、ありませんの。私は皆様を憎んでいるわけではありませんわ。ただ、この役目は、私の人生に合わないのです。未成年者として、親の許可なく重大な決定はできませんの。お母様が逃げたのも、きっと同じお気持ちだったはずですわ。皆様の価値観は、古すぎますのよ。アップデートなさってくださいませ。たとえば、インターネットで現代の倫理を学べば、わかりますわ。」



元禄斎は悔しげに目を細め、声を張り上げる。



元禄斎「いんたぁねっとなど、知らぬ! わしらは古の叡智(化石)じゃぞ! おぬしの言う自由など、ただの逃げ口上じゃ! 血脈の叫びを聞け! 秘宝を手に取れ!」



一見は静かに首を振り、祠の扉の方へ視線を移す。



一見「いいえ、元禄斎様。私の答えはNOですわ。皆様の熱意はわかりますが、強制は受け入れませんの。もし無理強いなさるなら、お父様のSPを呼びますわよ。あの方々は、プロフェッショナルですの。霊獣といえど、対処できるはずですわ。」



三体は一瞬、沈黙した。祠の空気が重く淀む中、一見は優雅にドレスの裾を払い、背を向ける。彼女の心は清々しかった。自分で偉いと思ってる者に「NO」と言うのは、確かに好きなことの一つだ。伝統の重圧を、現代の論理で論破した達成感が、胸を満たす。


だが、三体の視線が、まだ彼女の背中に刺さっている。激論は、まだ終わっていないのかもしれない。




祠の外では、夜風が優しく吹き抜け、庭園の花々が静かに揺れていた。


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