密着警護24時 ~未来少女の贖罪ポイ活~

海東 いお

第1話 転移者@マイルーム

「ただいまー」


 気の抜けた声が、誰もいないはずの玄関に吸い込まれていく。

 高校二年生、一ノ瀬湊いちのせ みなと。俺の日常は、だいたいこんな感じで始まる。


 平凡で、退屈で、それなりに平和な毎日。今日もまた、昨日と寸分違わぬ一日が、夕陽に照らされた廊下の先に続いているはずだった。そう、靴を脱いでリビングのドアを開ける、その瞬間までは。


 違和感は、空気の密度から始まった。

 なんだか、妙に空気が澄んでいる。いつもなら姉の置きっぱなしの書類やら、昨日の夜食のカップ麺の匂いやらが混ざり合って、生活感という名のごった煮を形成しているはずの我が家が、まるで新品のショールームみたいに静まり返っている。


 俺は用心深く自分の部屋のドアノブに手をかけた。姉の一ノ瀬未央いちのせ みおは新米の弁護士で、たまにとんでもない量の資料を持ち帰ってはリビングを占拠する。もしかしたら、ついに俺の部屋まで侵食してきたのかもしれない。

「ミオ姉、入るぞー……って、あれ?」

 そこに姉の姿はなかった。代わりに、いた。


 俺の部屋の勉強机とベッドのちょうど真ん中。冬の西日が差し込む一番明るい場所に、すらりとした手足の少女が、ただ立っていた。

 彼女の身体の輪郭は、まだ少しだけ揺らいで見える。夕陽が銀色がかった髪を透かすたび、その周囲に無数の光の粒子が、ふわりと宙を舞っているのが見えた。まるで、ついさっきまでこの場所には存在せず、光が集まって人の形を成したかのようだ。

 その光景は、下手をすれば神々しいとさえ思えただろう。もし、彼女が、何か一枚でも衣服を身に着けていたらの話だが。


「……は?」


 声にならない声が喉から漏れた。俺の視線は床と天井を数往復し、最終的に自分の足元に固定される。ダメだ、見てはいけない。これは幻覚だ。疲れているんだ、きっと。今日の体育の長距離走が思ったより堪えたに違いない。


 だが、幻覚ははっきりと、鈴が鳴るような声で言った。

「はじめまして。一ノ瀬湊」

 名前、知られてる。アウトだ。これは現実。俺の部屋に、なぜか何も着ていない見知らぬ美少女が立っているという、あらゆる意味でアウトな現実だ。


「だ、誰だアンタ! というか、まず服! 服を着てくれ! 風邪ひく!」

 俺は絶叫し、同時に窓に駆け寄ってカーテンを力任せに引きちぎらんばかりの勢いで閉めた。羞恥心とか、そういう高尚な感情の前に、まず通報されるリスクが脳裏をよぎる。ご近所さんに「一ノ瀬さんちの息子さん、夕暮れの部屋で女の子と……」なんて噂が立ったら、俺の平凡な日常は即日サービス終了だ。


 少女はそんな俺の混乱を意にも介さず、淡々と言葉を続ける。

「私は朝霧叶音あさぎり かのん。未来から転移してきた代執行者。本日から、あなたの贖罪しょくざい案件を担当します。それで、服、借ります」

「情報量が多すぎる!」

 俺はクローゼットから一番近くにあったパーカーを掴み、目を固くつぶって彼女に投げ渡した。布がばさり、と軽い音を立てる。


「ありがとう。サイズは少し大きいけど問題ない。衣服は転移不可なので」

 目を開けると、彼女は俺のぶかぶかのパーカーをワンピースのように着こなしていた。……うん、まあ、無いよりは百倍マシだ。

「いや、待って? 未来? 代執行者? 贖罪案件ってなんだよ。俺、なんか未来でやらかしたのか?」

「あなたじゃない。この世界線の過去の分岐点に問題がある。それを修正するのが私たちの仕事」

 叶音と名乗る少女は、まるで天気予報でも伝えるかのように言った。彼女の瞳は凪いだ湖面のようで、感情の色が一切浮かんでいない。


「要するに、私は本来の執行者の代理。与えられたミッションは『贖罪ポイント』を貯めて、過去のやらかしを補正すること。任務のコアは、来年の二月二十九日に、あなたの命を『奪う』こと」


「……は?」

 今、なんて言った? ポイント? 命を奪う?


「ただし」と、彼女は人差し指を一本立てる。

「その日を迎えるまでの一年間、私はあなたをあらゆる事故や災害から完璧に守り抜く。さらに、あなたの願いを一つだけ必ず叶える。これが契約条件」


「……」

 前半の殺害予告と後半の守護宣言の温度差で、風邪をひきそうだ。俺はへなへなとベッドに腰を下ろした。どうやら俺の平穏な日常は、サービス終了どころかサーバーごと爆破されたような気分だ。

「俺、普通に生きたいだけなんだけど……」

「その普通が、もうすぐ失われる。だから私が来た」

 叶音はそう言うと、すっと俺の方へ一歩近づいた。

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