第八景 十月の雨


「……ン、にゃア……」


 金木犀の香りが、雨に濡れた庭いっぱいに染みわたっていた。

 この匂いは、ずっと昔にも感じた気がする。

 けれど、それがいつだったのか、どこだったのか、思い出せない。


 思い出そうとすると、すぐに指のすき間からこぼれてしまう。


 ボクの記憶は、いつもそうだ。

 遠くの光のように、あるようで、届かない。


 ただひとつ、たしかなことがある。

 ボクは、この家に帰ってくる。


 名前を変え、姿を変えて、いくつもの季節を越えて、何度も。


 理由は分からない。

 けれど、ママのそばにいると、胸の奥がすこしだけ温かくなる。

 それだけで、じゅうぶんな気がしていた。


 ——最近、ママは長く眠るようになった。

 小さな寝息が、波のように静かに寄せては返す。

 そのそばで、ボクはただ耳を澄ましている。


 この日々も、いつか終わる。

 それは、ボクにも分かっている。


 けれど、どうしても拭えない感覚があった。

 ずっと何かを探している。

 でもそれが何なのか、自分でも分からない。


 なにかが足りないまま、ずっと歩き続けているような気がしていた。


 その日も、雨が降っていた。

 しっとりとした土の匂い。

 葉の先に溜まった水が、時折ぽつりと音を立てる。


 ボクは縁側に丸くなって、目を閉じたり開いたりしていた。

 何も考えず、ただ雨の音を聞いていた。


 ふと、気配がした。


 風が少し揺れて、庭の奥に何かが立っていた。

 ボクは頭を上げる。


 それは、少女だった。


 白い肌。細い腕。

 雨に濡れて、少し透けて見える。

 けれど、そこにたしかに立っていた。


 野菊のそばに、黙って佇んでいた。

 雨に打たれながら、まるで自分の居場所を確かめるように、静かに目を伏せていた。


 ボクは立ち上がらなかった。

 鳴きもせず、ただその姿を見つめていた。


 その子が、ふいにこちらを見た。

 目が合った瞬間、冷たい水のような感覚が胸に落ちた。


 声はなかった。

 けれど、思いがじんわりと染みこんでくるようだった。


 ——ああそうだ。この子は、きっと。


 けれど、その先の言葉は浮かばなかった。

 ボクにはまだ、それを形にする言葉がない。


 ただ、なにかが動きはじめた。

 そんな予感だけが、やけに確かだった。


 雨はやまず、庭には金木犀の香りが静かにただよっていた。

 少女も、ボクも、まだ名前を呼ばれないまま、そこで雨を見つめていた。






 *――*――*――*――*――*――*



 明日も更新予定は21時です。

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